何を求めて生きるか(2000年)
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。(詩篇96篇1~2節)
おめでとうございます。私がいつも新しい年のはじめにあたって申し上げることですが、私の言う「おめでとうございます」とは、この世でいう意味ではなく、一年過ぎて新しい年を迎えるたびにイエス様にお会いするときが一年縮まった、嬉しい、おめでたいという意味で申し上げています。ですからどうぞ兄弟姉妹もそういう観点で声を大きくしてお互いにおめでとうございますと挨拶していただきたいと思います。今日は、新しい年のはじめにあたって、このみことばからごいっしょに考えたいと思います。
私たち主にある兄弟姉妹は、礼拝や福音集会、あるいは家庭集会などでは、かならずごいっしょに主を賛美する歌を歌います。また聖書の詩篇の中にも主なる神様への賛美の歌がたくさんあります。冒頭の詩篇もその一つであり、この詩篇の作者はここで私たちに対して、「さあ神様に新しい賛美の歌を歌おう」と呼びかけています。主なる神様を賛美する歌とは、言うまでもなく、神様の御名を、神様のご栄光を、ほめたたえる歌であり、それを歌う者は、すべて主なる神のしもべたち、あるいは神の民、主の子どもたちであります。その者たちが自分たちの主、父なる神をほめたたえ、また神様が自分たちにしてくださった恵みを感謝して、主に向かって「ハレルヤ」と歌うのが、主に向かって歌う歌であります。詩篇百十三篇もそのような賛美の詩であります。
ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人をあくたから引き上げ、彼らを、君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせる。ハレルヤ。(詩篇113篇)
この詩篇はハレルヤではじまりハレルヤで終わるすばらしい主なる神様への賛美の歌であります。
この賛美の詩にあるように、神様の民、神様の子どもたちは、ほめたたえられるべきお方はどんな方であるかということをよく知っています。知っていると言いますと、私たちが自分の知恵や知識で知ったように受け取られてしまいがちですが、主なる神様を知るというのは、そのような知り方なのではありません。私たち人間の不完全な知恵や力では神様がどんな方かはまったくわかりません。それは自我のために、心の目、心の耳が神様に向かって閉ざされているからであります。
しかし、そのような者をも愛してくださる神様は、ご自身の大きな愛によって、恵みによって、私たちの閉ざされた心の目を、耳を開いてくださったので、私たちはその開かれた心で神様を知ることができるようになったのであります。今の詩篇の中には、神様が私たちに何をしてくださったかが歌われておりますが、神様は天よりも高い御座から身を低くして、弱い者、貧しい者、子を産めない悲しみの女などに代表される、すべての心の砕かれた者をかえりみてくださり、あわれんでくださって、その者たちを悲しみの泥沼から引き上げて神様の家に住まわせてくださるとあります。私たちが知っている神様はこのような深い愛と恵みに富む神様なのであります。「だれが、われらの神、主のようであろうか」と詩篇の作者が賛美しているとおりであります。神様は預言者イザヤをとおして次のように仰せになっています。
あなたがたはわたしの証人、――主の御告げ。――わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。(イザヤ書43章10~12節)
ここにありますように、神様が私たちを一方的にあわれんで心の目を開いてくださり、私たちの開かれた心に神様ご自身が告げ、聞かせてくださったので、私たちは神様がどんな方で、何をしてくださったかを知ることができたのであります。
神の御子イエス様がこの世に来てくださる前には、神様は預言者をとおしてみこころを示してくださいましたが、今、私たちはさらに幸いなことに、この神様を御子なるイエス様によって知ることができるのであります。イエス様は尊い神の御子でありながら、神様に背いてわがまま勝手に生きるという罪を犯していた私たちを、背きの罪のゆえの滅びに至る死から救い出すために、ご自分を無にして貧しい人としてこの世に来て十字架に架かって死んでくださり、よみがえってくださった、そのイエス様の中に私たちは父なる神様の深いみこころを見るからであります。イエス様ご自身が、
わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネの福音書14章9節)
とおっしゃっているとおりであります。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ人への手紙2章6~11節)
このように、イエス様を信じて救われた私たちが開かれた霊の目で、神であるイエス様を見て、そのイエス様を主なる神としてほめたたえることができるのは何と幸せなことであり、何という喜びでしょうか。パウロはこの喜びを次のように表現しています。
私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ人への手紙3章8節)
パウロが言っているように、十字架に架かっていのちを捨てるほどに私たちを愛してくださり、今もなお愛し続けてくださっている救い主イエス様を知っていることのすばらしさは、この世のいかなる価値あるものにも勝るすばらしさなのであります。私たちはそのすばらしいイエス様を知っているから嬉しいのであります。
次に、主に向かって歌う新しい歌とはいったい何でありましょうか。それは私たちが、このような主のすばらしさにふれるたびに喜びと感謝に満ち、御霊に満たされて主にささげるほめ歌であります。たとえば私たちは自分の、あるいは主にある兄弟姉妹のご家族や友人、知人の方々が実に奇しい方法で導かれてイエス様を信じ、救いに与かられのをこの目で何度も見ています。イエス様を信じた方々の証しを伺いますと、救いはお一人おひとりの上にイエス様が起こされた奇蹟であるとしか考えられません。しかし、私たちの目には奇蹟と写っても、イエス様は救おうとあらかじめお定めになった方々を、一人ひとり確実に、その方にもっともふさわしい方法で、もっともふさわしいときにお救いになるのであります。そして、そのようにして救われたお一人おひとりを見るたびに、私たちは主イエス様に心から感謝し、心から新しい賛美の歌を歌うのであります。イエス様は次のようにおっしゃっています。
ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカの福音書15章7節)
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。(ルカの福音書15章10節)
また詩篇の九十八篇には、
新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。海と、それに満ちているもの。世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。(詩篇98篇1~8節)
とあります。このようにして主なる神様が滅び行く迷えるたましいをお救いになる、その奇しいみわざに対して、主の勝利に対して、心から喜びのほめ歌を歌う、これが主に向かって歌う、新しい歌であります。
また、すでに救われた私たちも主イエス様に新しい歌を歌うときがあります。それはどういうときでしょうか。私たちは救われても、この世に置かれているしばらくの間はいろいろな試練があります。私たちの信仰は強くなく、そのため試練に会うと、つい悲しんだり、嘆いたりしてしまいます。そのようなときに、主は私たちを放っておかれるかというと、決してそのようなことはなさいません。そのたびに、私たちとともにいてくださる主は、慰め、励ましてくださり、あるときには背負ってくださり、弱った霊を、衰えた霊を御霊によって強めてくださいます。そのとき私たちは信仰の試練は主が私たちの信仰を成長させ、神の子どもにふさわしく、神の国を相続する者にふさわしく、育ててくださるための主の愛、恵みであることを改めて覚えて、主に感謝し、新しい歌を主に向かって歌うのであります。パウロはキリスト者の試練の意味を次のように言っています。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ人への手紙8章16~18節)
またペテロも次のように言っています。
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(ペテロの手紙第一1章6~9節)
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(ペテロの手紙第一5章10節)
このように主イエス様にしっかりと結びついて試練を通り抜けた体験をした者は、そのたびに御霊に満たされ、みことばの真実に感動し、心から主に向かって新しい歌を歌うのであります。
今朝の礼拝の中のお祈りにもありましたように、世の中はますます混沌の度を加えております。おそらくどなたも今年は去年よりもたいへんな世の中になると思っておられるのではないでしょうか。昨年の元日の某新聞の社説に、歴史は加速しているという次のような記事がありました。「コンピューター革命が急速に進んだこの世紀末、歴史の加速はこの百年で何十倍にもなったと言ってもいいだろう。実際、最近の社会変動は加速が著しい。だれもがこのめまぐるしい変化に流され、おぼれ、戸惑っている。政治も国民も次から次に生じる事態に対応しきれないうちに、また状況は変わる。そして、半年先さえ、だれも的確には見通せない」、こういう記事でした。
昨年を振り返ってみるとまさにそのとおりの一年でした。人々は世界や日本の中で次々と目まぐるしく起こる、さまざまな混乱した政治的、経済的、社会的な事件をとおして、また急速に進んでいる地球環境の悪化の現象をとおして、歴史の進行が人間の力では止めることのできない急激な速度で、先の見通しも利かない、考えも及ばないどこかの終点に向かって、地球上の人々すべてを巻き込んでどんどん加速していることを肌で感じ取り、だれもが不安や恐れを感じているのではないでしょうか。けれどもイエス・キリストを信じる私たちは、主なる神様が世の人々に罪汚れに満ちたこの世の終わりが近づいているのを知るように、そして主イエス様のご再臨の時が近いのを知るようにと、歴史を加速しておられることを神ご自身のことばである聖書によって知っていますから不安も恐れもありません。ヨハネは黙示録の中で次のように書いています。
また、彼は私に言った。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は幸いである。(ヨハネの黙示録22章10~14節)
御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(ヨハネの黙示録2章17節)
このみことばを堅く信じている者には恐れも不安もありません。いよいよ主イエス様のご再臨が近づいているこの年にあたって、私たちイエス様を信じる者はその日の一日も早く来ることを心から待ち望みつつ、いのちの水そのものであるすばらしい主の御名を、恵みを、まだイエス様を知らないで不安と恐れを持ちながら生きている私たちの身近にいる人々に、とくに家族や友人、知人に真剣に証しすることができるように、そしてますます多くの新しい歌を主に向かって歌うことができるように、ごいっしょに祈って行きたいと思います。最後にもう一か所聖書をお読みして終わりたいと思います。
正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。(詩篇33篇1~5節)