何を求めて生きるか(2000年)

六 キリスト者の良き行ないとは

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)


今日は、パウロがエペソの信者に宛てた手紙の一節から、キリスト者の良き行ないとは何かという問題についてごいっしょに考えてみたいと思います。というのは世の中の人も、またキリスト者自身もキリスト者の良き行ないについて誤解をしていることがあるからです。


信仰に良き行ないが伴わぬなら、その信仰は死んだもの


パウロはここでキリスト者は神様のみこころに従って、良き行ないをするために神の御子イエス様にあって造られた神様の作品であり、その良き行ないも神様があらかじめ準備してくださっていると言っています。この言葉にはキリスト者の良き行ないとはどのようなものであるべきかがよく言い表されております。信仰と行ないとの関係についてはヤコブが当時のキリスト者に宛てた手紙に次のように書いています。


私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(ヤコブの手紙2章14~17節)


ここでヤコブは行ないが伴わない信仰は死んだ信仰であると言っていますが、しかし、私たちはうっかりするとこれを目に見える良き行ないをすることが正しい信仰であるというように、思い違いをしてしまう恐れがあるので、このような誤解をしないように気をつけなければなりません。なぜならパウロはガラテヤの信者に宛てた手紙の中で言っているように、神様は私たちの行いによっては私たちを義とお認めにならないからです。


人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ人への手紙2章16節)


律法とは神様が人間にお与えになった戒めです。それなのに、どうして神様は人間が律法を行なうことによって義と認めてくださらないのでしょうか。それは人間は自分の力でいくら律法を正しく守り行なおうと努力しても、外面的、形式的な守り方、偽善的な行ないしかできず、どうしても神様が求めておられるように律法を正しく実行することができないからです。イエス様は形式的、偽善的な律法の守り方をしている律法学者やパリサイ人たちに次のようにおっしゃいました。


・・・・パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」(マルコの福音書7章3~8節)


忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。(マタイの福音書23章25~26節)


これはパリサイ人にかぎりません。よくよく考えると私たちキリスト者の良き行ないもそのようなもので、とかく形式的、外面的であることが多く、また良き行ないをしたときの自分の心の中をのぞくと、良き行ないは人のためではなく自分が満足するためのものであることを思い知らされます。人の心を見透かされるイエス様は、そのような良き行ないは偽善的な行ないであって、それでは神様が私たちを義とお認めにならないのはとうぜんだとおっしゃっているのです。


信仰における行ないの土台


ではどうしたら人間は神様が喜ばれるような良き行ないをすることができるようになるのでしょうか。それにはイエス様を信じ受け入れたうえで、そのイエス様という土台に立つということが基本であります。というのは、まことの良き行ないはイエス様という土台の上に立ってはじめて可能となるからです。パウロはコリントの信者に宛てた手紙の中で次のように言っています。


与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。(コリント人への手紙第一3章10~11節)


パウロは「神様の恵みによって自分はイエス様という土台を据えることができ、その上に信仰生活という家を建てている。そして信仰者の生活の土台はイエス様以外には有り得ない」と言っているのです。私たちキリスト者がもし日曜の礼拝のときだけ、あるいは聖書を読むときだけ、祈りのときだけ、イエス様を土台とするようでは、ほんとうにイエス様を土台としている信仰の生活とは言えません。日々の生活の中においていつもイエス様を土台として物事を考え、行動することがキリスト者に求められる信仰生活なのであります。私自身についても、いつも霊の目を覚ましていないと日常生活の中でイエス様を土台としていることをつい忘れ、自分を土台として自分の思いで判断したり行動したりしてしまいます。ですからパウロはこの手紙で私たちキリスト者の日々の生活をイエス様という土台の上に築かなければならないと言っているのです。キリスト者の毎日の生活は、会社員、教師、弁護士、医者、音楽家、画家、建築家、学生、主婦など、それぞれの職業、立場によって異なりますがしかし、その生活がこの世の人々のような会社員、教師、弁護士、医者、音楽家、画家、建築家、学生、主婦の生活であっては、イエス様の土台の上に立った生活とは言えません。キリスト者とはイエス・キリストのものという意味であります。したがってイエス様のものとされた私たちは、それぞれイエス様の会社員、イエス様の教師、イエス様の弁護士、イエス様の医者、イエス様の音楽家、イエス様の画家、イエス様の建築家、イエス様の学生、イエス様の主婦なのであります。ですから職業や身分が何であれ、また男であれ、女であれ、自分がイエス様のものとされていることをいつもはっきり意識してイエス様を仰いでいれば、おのずと「どうか私が神様の作品にふさわしいように、イエス様の土台の上に立つ行ないを、日々の生活の中で実行できるようにしてください」とイエス様に熱心に祈り求めることができるのではないでしょうか。


信仰における良き行ないの原動力


ではイエス様の土台に立つ良き行ないは具体的にどうしたら得られるでしょうか。イエス様の土台に立つ良き行ないの原動力は何なのでしょうか。


一、イエス様の土台に立つ良き行ないは御霊が行なわせてくださる


まずイエス様の土台に立つ良き行ないは御霊によって私たちに示され、御霊によって導かれるものであることを知る必要があります。


神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ人への手紙2章13節)


キリスト者の良き行ないは、自分の考えで行なうものではなく、神様の御霊が私たちの霊に働いてみこころを示してくださり、私たちの霊にみこころに従う力を与えてくださることによってなされるとパウロは言っているのです。では私たちはどのようにして神様のみこころを知り、また神様からの力をいただけるのでしょうか。それには次の詩篇の作者のように祈ることであります。


朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてくさい。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇143篇8節)


このようにへりくだってイエス様を仰いで祈るとき、イエス様は私たちに行なうべき道を示してくださり、それを行なう力も与えてくださいます。


二、イエス様の土台に立つ良き行ないは、みことばの働きによってなされる


またイエス様の土台に立つ良き行ないは、聖書のみことばが私たちの中で働いてくださることによって行なうことができることを知る必要があります。パウロは次のように言っています。


あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(テサロニケ人への手紙第一2章13節)


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル人への手紙4章12節)


聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(テモテへの手紙第二3章16~17節)


「神の人」とは神様によって召し出され、みこころを宣べ伝えるために用いられる者であります。ここに記されているように聖書のみことばは、私たちキリスト者に対して神様がみこころを目に見える形で伝達してくださる大切な方法です。それだけでなく、みことばそのものが私たちに働いて良き行ないをさせてくださる力を持っているのです。ともすれば自分の判断で行動しがちな私たちですから、いつもみことばに頼って、自分のなすべきことは何かをみことばから示されるように祈りたいと思います。


キリスト者の行ないの特徴


またイエス様の土台に立つ良き行ないは、かならずしも手足を使うことによってなされるとはかぎりません。最近、私はふたりの主にある兄弟をとおして深くそのことを覚えさせられました。そのうちのおひとりであるY兄弟は、検診で思いもかけず手術不可能な重いがんが発見されました。しかし、そのことを医師から告げられてもまったく恐れることなく、喜んで天に召されたいという希望に満たされてイエス様にいつも感謝し、聖書のみことばを味わって喜び、病状がどんどん進行するにもかかわらず、顔はいつも平安と希望に輝いておられました。そして召される前日まで喜んで兄弟姉妹方との交わりを持たれ、次の日に兄弟姉妹による聖歌の歌声に送られて天の御国に凱旋なさいました。闘病中のこの兄弟の態度をとおして、まわりにいる私たちは、もし人がイエス様に信頼し切るならば、その人をイエス様はご自身のまったき平安で包んでくださり、少しも死を恐れることなく希望を持って天の御国に向かって旅立たせてくださる事実をこの目ではっきりと見ることができました。


もうおひとりのK兄弟は回復の見込みのない重症の肺繊維症にかかられ、やがて迎える死に臨んで最後のときの医学的処置について次のように担当医師に手紙を書かれたのです。


「延命について


回復の見込みのない延命処置は希望しません。(植物人間的な肉体維持は一切不要のこと)


私はイエス・キリストが私のためにこの世に生まれてくださり、苦しみを受け、そして死んでくださったことを信じます。また、イエス・キリストの苦しみと死と復活は、私が今迎えようとしている死から復活への道を約束してくださっていることを信じ、主である神の定められた時に召されるのが最善であると思います。今まで何回となく死の縁をさまよいましたが、主が守ってくださり生かされてきました。その試練をとおし、私と妻はイエス様の時にかなった恵みをたびたび与えていただき、大いに喜ぶことができました。


胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。イザヤ書4章3、4節より


と聖書に書かれたように、私たちは大きな恵みをいただきながら、主の定められた時を待つことのできるのは、なんという幸せなことでしょう。


付記


コリント人への手紙第二5章1節、2節、7節、8節


私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物ががあることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも、心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。」


この手紙は終末医療に対する医師への要望というよりは、はっきりとしたイエス・キリストの証しであります。延命治療を望まないと言う人は多くありますが、なぜ望まないか、その理由がこのようにはっきりと書かれたリビング・ウイル(生前遺書)を私は見たことがありません。この手紙を受け取った担当の医師や看護婦の方々は感動し、K兄弟の望みどおりに延命措置は講じられず、K兄弟は平安のうちに天に凱旋されました。


このように、たとえ病気で寝たきりになっても、イエス様の土台に立つ良き行ないは可能なのです。そしてこのふたりの兄弟の主にある良き行ないをとおして、イエス様ご自身がほめたたえられる結果となったのです。


前に申しましたように、良き行ないが自分の栄光を現わすためであったり、自分を誇るためのものであったりすれば、それはもはやキリスト者の良き行ないとは言えません。自分が光となって照り輝くのではなく、光はイエス様であって、私たちがイエス様を仰いで信頼し拠り頼むときに、イエス様の光が私たちをとおして良き行ないとなって輝き出るのであります。このようなキリスト者の行ないによってイエス様はご栄光を現わされるのであります。このことをイエス様は次のようにおっしゃっています。


あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5章14~16節)


キリスト者は、イエス様によってこの世に遣わされた主のしもべです。その主な務めは、


この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)


と宣べ伝えたペテロのようにイエス様を、イエス様の福音を宣べ伝えることです。キリスト者の一人ひとりがイエス様によってこの世に遣わされた者として、イエス様に仕える霊的な自覚をしっかりと持っていれば、おのずとその行動はイエス様の土台に立つ、神様のみこころにかなう良き行ないとして現われるものであります。


また私たちキリスト者の霊は自分を誇ることや自分の行ないを誇ることが傲慢の罪であることを知っています。私たち自身には何一つ良きものはなく、良きものは神様から恵みとしていただいたものばかりであることも知っています。しかし、私たちキリスト者の着ている肉はともすれば自分を誇るという傲慢の罪を犯しやすいものであります。パウロは次のようにキリスト者に警告しています。


いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(コリント人への手紙第一4章7節)


だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。(ガラテヤ人への手紙6章3~4節)


ほんとうにこのみことばのとおりであります。私たちは自分を誇っているかどうか、自分が傲慢になっているかどうか、心の中をいつも吟味している必要があります。


キリスト者は良き行ないを行なうために肉と戦う


今も申しましたようにキリスト者は、霊はイエス様を信じた瞬間に十字架の上で流された尊い血潮によって聖められますが、肉体はこの世にある間はなお不完全であるため悪の誘惑には弱い者です。パウロも次のように言っています。


私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(ローマ人への手紙7章18節)


私たちキリスト者はみなそのような弱い、罪を犯しやすい肉を着て生きていますから、その肉に従っていたら、決してイエス様の土台に立つ行ないをすることはできません。そこでパウロは自分の肉を打ち叩いて霊に従わせようと言っています。


私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント人への手紙第一9章2節)


しかし、肉を霊に従わせることは自分の力や意思ではできません。私たちキリスト者の中に住んでくださっている御霊の力に拠り頼むほかありません。ですから私たちがイエス様の土台に立つ良き行ないをするためには、霊が肉に打ち勝つことができるように熱心に御霊の助け、御霊の満たしを祈る必要があります。


神様がみこころによって私たちを造り変えてくださったのは、ただたんに私たちキリスト者が天国に入ることができるためだけではなく、冒頭のみことばのように、この世で神様の作品として良き行ないを行なうことをとおしてご自身のご栄光を現わされるためであります。しかも、神様は罪の性質を持って生まれた私たちを、神の作品として生まれ変わらせるために、御子イエス様を十字架にかけるという、たいへんな痛みを味わわれたのです。そのことを考えるとき、私たちはただ救われたことを喜ぶだけではなく、イエス様によって神の作品に生まれ変わらせていただいたことを心から感謝して、イエス様の土台に立ってみこころにかなう良き歩みができるように、さらに私たちの自我を砕いていただき、また霊を強めていただくように、日々イエス様に祈ってゆくことが大切であると思います。




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