何を求めて生きるか(2000年)
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(コリント人への手紙第一6章20節)
今日はこの聖書のみことばから、「代価を払って買い取られた者」ということについてごいっしょに考えてみたいと思います。
昔は負債、すなわち借金を返せない者は牢獄に入れられたり、自分の身を売らなければなりませんでした。しかし、もしだれかがその人の身の代金を払って買い戻してくれれば、その人はそこから自由になることができたのです。旧約聖書には次のようなことが記されています。
彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。(レビ記25章48~49節)
このように、一般に負債といえば私たちは人間に対する負債のことだけを考えますが、そのような負債がすべてではありません。実は私たちは神様に対して大きな負債があることに気づいていません。神様に対する負債とは神様に対する背きの罪という負債であり、その負債は私たちをご自分の子どものように愛してくださる神様に従わずに自分の頭で考え出した偶像に仕えること、また神様ではなく自分の思いに従うことなのであります。私たち人間はみな生れながらにこのような性質を持っていますから、神様に対する罪の負債は、あるかぎられた一部の人だけにあるのではなく、私たちすべての人間にあるのです。では私たちは自分の力やお金で神様に対する負債を返済できるでしょうか。悲しいことにそれは不可能なのです。なぜならば次のみことばに記されているように神様に対する負債はたいへんに大きく、その身の代金は余りにも高く、とうてい人間の力では払うことができないからです。
人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。・・・・たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。(詩篇49篇7~8節)
神様に対する罪の負債がどうして人間が払いきれないほど大きく、高価なのでしょうか。それは罪の負債は私たち一人ひとりが最初の人間アダムから引き継いでいるたいへんに根深いものだからです。
では私たちがこの負債を返済できないままに放って置いたらどうなるでしょうか。神様は負債を返すことができない者には、その罰として御子イエス様によって最後の審判の日に永遠の滅びという刑を執行されます。イエス様が次のようにおっしゃっているとおりです。
父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。(ヨハネの福音書5章27~29節)
ここに「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時」とありますが、これは死者のからだのよみがえりの時であり、人は死んだ瞬間に霊とからだは分離して生前に善を行なった者の霊は直ちに天国に入り、悪を行なった者の霊は黄泉(よみ)の国でさばきを待つと聖書に記されているのです。ここで「善を行なう」というのは神様に負債を返済することであり、また「悪を行なう」とは神様に負債を返さないことを指します。
それでは「自分の身の代金を神に払うことができない」と記されている人間はみな、永遠の滅びの刑を受けなければならないのでしょうか。そうではないのです。驚くべきことに神様は冒頭のみことばにあるように、罪の身の代金をご自身で払って私たちを買い取ってくださったのであります。詩篇の作者は次のように言っております。
彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。(詩篇49篇14~15節)
私たちは自分で犠牲を払ってまで他人の負債を返済するというようなことはなかなかできない、そのような愛のない者です。しかし、私たち人間をはじめ天地万物を創造なさり、主権者として天地を支配しておられる神様は、ご自分に背いてわがまま勝手なことをしている愚かな私たちをなお見捨てずに愛してくださり、ご自身で身の代金を支払ってまでして私たちを滅びから買い戻してくださったのです。では神様はどのような代価を、どんな身の代金を支払って買い戻してくださったのでしょうか。なんとそれは神のひとり子イエス様のいのちという代価だったのであります。神様は御子イエス様のいのちによって私たちを罪から贖い出してくださったのです。このようなことは人間の常識をはるかに越えているために私たちにはとうてい理解することができません。しかし、神様が支払ってくださったこの大きな犠牲によって、私たちは人間が神様に犯した罪は神のひとり子のいのちを代価とするほど大きなもの、私たち人間の罪の価は御子イエスのいのちの価と引き替えにするほど大きなものであることを知るのです。
神様はイスラエルの民をとおして人間にご自分の命令、戒めとして律法をお与えになりました。人間がもしこの律法を百パーセント守り行なうことができれば、もしこの律法に生涯にわたって一度の違反もなく完全に従うことができれば、神様は人間を正しい者、罪がない者と認めてくださいます。しかし、悲しいことに人間がいくら神様の律法に従いたいと努力しても、完全に従うことは決してできないのです。たとえば人間は自分の意思の力で少しでも人を憎んだり、さげすんだり、またうらやんだりする思いを起こさないように自分を押さえ続けることができるでしょうか。またこの世の富や権力や栄誉を求める思いを自分の意思の力によってなくすことができるでしょうか。また偶像の神とまことの神様とをはじめからしっかり見分けて、まことの神様だけに仕え続けることができるでしょうか。あるいは自分を愛するのとまったく同じように人を愛し続けることができるでしょうか。これらのことが完全にできればその人は神様の律法を守り行なう正しい人であります。イエス様は神様の律法の中心は次の二つであるとおっしゃいました。
彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイの福音書22章35~40節)
いったい人間は神様から与えられたこの戒めを完全に守り通すことができるでしょうかできません。なぜなら私たちは悲しいことにどうしても自分の意志の力では自分中心の思いを捨てることができないからです。ですからパウロも次のように言っています。
肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。(ローマ人への手紙8章7節)
では、なぜ神様は人間が守ることのできない律法をお与えになったのでしょうか。それはすべての人間が神様に対する生まれながらの罪人であることを律法によって思い知るためであり、人が神様の前に正しくあろうと思っても正しくあり得ない者であることを思い知るためであります。
イエス様はこのあわれな、生まれながらの罪人である私たち人間一人ひとりの罪を身代わりに負って、律法ののろいをご自分の身に引き受けて、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。パウロはガラテヤ人への手紙の中で次のように言っています。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからですこう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ人への手紙3章10~13節)
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。(ガラテヤ人への手紙4章4~5節)
しかし、なぜ神様はこのような尊い高価な贖い代を払ってまでも私たちを買い取ってくださったのでしょうか。それは神様がご自分に背き続けるような罪深い私たちをなおも心から深く愛してくださっているからです。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)
ではどうして、そのようにしてまで私たち人間を愛してくださるのでしょうか。それは神様が私たち人間をご自分と交わるようにご自分に似るものとして、いのちの息、すなわち神様の霊を吹き入れて造られた特別な被造物だからであります。私たち人間以外にそのようにして造られた被造物はほかにありません。ですから神様はもし私たちが自分の罪を知って心から悔い改めてご自分の前にへりくだれば、喜んで愛する御子イエス様のいのちを贖い代として私たちの罪の負債を買い取ってくださるのです。ペテロはペテロの手紙第一の中で次のように言っています。
あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(ペテロの手紙第一1章18~19節)
完全に正しく聖なる神様がご自身の正しさ、聖さを曲げずに、私たち人間の罪の負債を取り除くための唯一の方法は、愛するご自分のひとり子イエス様に身代わりに人間の罪を負わせるというものでした。ローマ人への手紙の中でパウロは次のように言っています。
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。(ローマ人への手紙3章25節)
なだめの供え物とは何でしょうか。ユダヤでは神様と人間との間に立って神様に仕えていた祭司が、罪の贖いのために罪を犯すごとに動物をほふって神様にささげておりました。しかし動物の血では聖めることができない人間の罪を、イエス様は十字架の上で流されたご自分の尊い血によって完全に聖めてくださったのであります。
すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル人への手紙10章11~14節)
ここに記されているようにイエス様の血による罪の贖いは十字架の上で二千年前にただ一度だけなされましたが、この一度かぎりの十字架による罪の贖いは過去に遡ってはアダムのときから、将来は最後の審判の日までにわたって有効なのであります。ですからイエス様がこの世界においでになる前に世を去った人々やイエス様を知る機会がないまま亡くなった人々でも、自分は何事も自分自身を第一にしか考えられないような自分勝手な者であることを認めて、悔い改めて神様の前にへりくだって心から赦しを求めた者はすべて、神様が御子イエス様のいのちという高価な代価を支払ってくださって罪から贖い出してくださっているのです。
このようにイエス様の贖いのみわざは完全であります。したがってイエス様に贖われた者の罪は完全に精算されており、罪の奴隷から完全に解放されて自由になっているのです。それは神様の次のような約束に基づいているからであります。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43章25節)
では私たち人間は、自分のためにこのように高価な代価を払ってくださった神様の御前にどのような態度を取ればよいのでしょうか。預言者ミカは次のように言っています。
私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。(ミカ書6章6~7節)
これは神様はそのようなささげものを求めてはおられないという反語であります。神様が私たちに求めておられるものは、ダビデ王が言っているように悔い砕かれた心のささげものなのであります。
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51篇16~17節)
このように神様は私たちがただ神様の御前に悔い砕かれた心をもって、神様が愛する御子イエス様の尊いいのちの代価を払って罪から贖い出してださったことを心から受け入れて感謝することだけを求めておられるのです。
では神様に代価を支払って買い取っていただいた者はそれから先どのように生きたらよいのでしょうか。それは冒頭のみことばの後半にあるように「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」というように生きることであります。なぜなら、イエス様のいのちの代価を払って買い取られた者のからだは、もはや自分のものではなく神様の御霊がお住みになる宮とされているからです。パウロはコリントの信者に宛てた手紙で次のように言っています。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。(コリント人への手紙第一6章19節)
またパウロはガラテヤの信者に宛てた手紙の中で次のようにも言っています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)
神様が神の御子イエス様のいのちという、私たち人間の考えをはるかに超えた高価な代価を支払って私たちを買い取ってくださったのは、買い取った者を用いて神様がご栄光を現わされるためであります。そして神様のご栄光を現わすこと、それが神様に買い取られた者が生きる目的になるのです。ですから贖われた者は神様に用いられる器としての自覚をもって生きているか、あるいは救われた後もあいかわらずこの世を、自分の思いを第一として生きているかどうか、よくよく自分の生き方を吟味してみる必要があります。もし後者であればふたたびこの世の奴隷に舞い戻ってしまっていることになります。パウロは次のように警告しています。
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(コリント人への手紙第一7章23~24節)
この警告は神様に罪の代価を払っていただいて主のしもべとされた者は、あれこれ自分で考えて行動するのではなく、いつも神様の御前に静まって「主よ。私はここにおります。みこころをお示しください。私はみこころに従います」という思いで主を仰ぐことが大切であると言っているのです。
イエス様を信じる方の中にも、主のみこころを求めずに、ただ人間的な基準による善き行ない、奉仕がキリスト者としてなすべきことであると誤解している方がいます。しかし、神様はそのようなものによってご自身のご栄光を現わすことはなさいません。なぜならそのような善き行ないは、その人の心に高ぶりの思いを起こすからであります。ヤコブは手紙の中で次のように言っています。
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。(ヤコブの手紙4章6節)
このように神様は心が砕かれ、ご自分の前にへりくだった者を祝福してくださり、その者の中に住んでくださっている御霊の働きによって、ご自身のご栄光をお現わしになります。そのために私たちは、
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネの福音書15章4~5節)
とイエス様がおっしゃっているように、自分では神様がご栄光を現わされるような御霊の実を実らせることは何一つできない者であることをわきまえて、このような信仰の薄い者をとおしても主イエス様ご自身がご栄光を現わしてくださるように祈りつつ、日々の歩みを続けることがもっとも大切なのではないでしょうか。