何を求めて生きるか(2000年)

四 ほんとうの満足とは

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(コリント人への手紙第二9章8節)


今日はこの聖書の箇所の中から、「満ち足りる」、満足する、ということについてごいっしょに考えてみたいと思います。


満足するとは


もし私たちが何かの集いで「あなたは今満足していますか」というアンケート調査をしたとしたら、「はい」と答えられる人は果たしてどれほどいるでしょうか。


改めて満足するとはどういうことなのか考えますと、それは自分のこの世的な願望が満たされることであると言うことができると思います。ところが人間の願望は止まるところがなく、次から次と移り変わり、あるいは膨らむものであります。ですから一つの願望を満たしたと思っても、すぐにもっと大きな願望へと膨らんだり、あるいは、まったく別の願望が出てきたりします。たとえば飢え死しそうな終戦直後の時代には、どんな食べ物でもおなかを満たせばそれで満足だったのですが、事情が少し良くなると満腹するだけでは満足できなくなり、おいしいものが食べたいと思うようになります。聖書にも同じようなことが書かれています。


また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」(民数記11章4~6節)


これは、イスラエルの民が長い間奴隷的な生活を強いられていたエジプトから、神様に導かれモーセに率いられて脱出したときの話であります。彼らはエジプトを出た後、目的地のカナンに着くまで四十年の間、神様に導かれるままにシナイの荒れ地を旅しました。その間彼らは渇きと飢えに苦しめられます。そこでイエラエル人を代表してモーセが神様に祈ると、神様は祈りに答えて毎夜イスラエル人が必要な分だけのマナという食べ物を天から降らせてくださいました。彼らははじめは飢えていたので、おいしい、おいしいと食べていましたが、これが毎日続くとマナでは満足できなくなり、エジプトでは魚がただで食べられたとか、エジプトの肉や野菜が食べたい、こんなことならエジプトで奴隷になっていたほうがましだ、など不平をこぼしはじめたのです。これは私たち人間の欲望の状態をよく現わしています。


欲望の追求が招くもの


私たちの願望には食欲のような本能的なものから、道徳的、倫理的な願望までさまざまなものがあります。また人それぞれに願望の種類も程度も異なります。ですから結局人間はいつも満足できない、いつも満たされない状態に置かれているといってもよいでしょう。そのような私たちですから冒頭の聖書にある「常にすべてのことに満足する」というようなことはとても考えられないことです。ある人は「満足できないのはあたり前ではないか。人間が満足してしまったら進歩がない。願望、欲望を満たしたいという人間の思いが科学を進歩させ、現在のような文明を築き上げることができたのではないか」と反論されるかも知れません。しかし、ここで私たちのこのような飽くなき欲望の追求が、果たして人間をほんとうに幸せにするのだろうかと静まって考えると、幸せにするどころか逆に人間を破滅に導くものであることに気づくのであります。


その良い例として体外受精を取り上げてみましょう。体外受精は不妊症の究極的な治療法として、今や広く行なわれるようになりました。受精というのは女性の卵子細胞と男性の精子細胞が合体することによって、まったく新しいいのちの細胞である受精細胞が誕生するという、まことに神秘的な現象を言います。しかし、人間の知恵はこの現象を体外で実現させることに成功し、これを不妊症の治療に利用したのです。わが国では安易に体外受精術が行なわれるのを防ぐために、実施にあたっては、ほかの方法では妊娠が望めないことが確認されていること、夫婦間に限ること、受精後すべての受精卵はただちに妻の胎内に戻すことなどの倫理的なルールに従うことが求められています。これは他人の精子を使ったり、受精卵を妻以外の女性の胎内に戻して子を産ませたり、余った受精卵を実験に使ったりすることを防ぐためであります。しかし、もうすでに問題が起こっています。というのは体外受精では妊娠の成功率を高めるために、通常一度に三個ないし四個の受精卵を胎内に戻すのですが、戻した受精卵がすべて順調に育つと三つ子、四つ子が産まれてしまうのです。けれども三つ子や四つ子が胎内で育っていることがわかった親の中には、それまで何としてでも子どもが欲しいと言っていたにもかかわらず、そんなに多くの子はいらないから、あるいは経済的に育てられないから、ひとりを残して中絶して欲しいと希望する親がたいへん多いというのです。自分の願望を満たすためには人間のいのち、それも自分の子どものいのちを犠牲にしてもかまわないという恐ろしい自己中心な考え、これが生まれながらの人間の罪の姿なのであります。


むさぼりの罪


このように人間の肉の欲求は止まることを知りません。そして聖書ではこの人間の飽くことのない満足の追求を、むさぼりの罪、貪欲の罪と言っています。イエス様は次のようにおっしゃいました。


内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、敷き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコの福音書7章21~23節)


神様がモーセをとおしてイスラエル人、ひいては私たちに与えられた十戒の中に、


すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。(申命記5章21節)


という戒めがあります。自分が持っていないものを人が持っていると欲しくなる、これが人間のむさぼりの罪、貪欲の罪であります。このむさぼりや貪欲が、盗み、姦淫、不品行、殺人、欺きなどの罪を引き起こす原因になるという点では、むさぼりや貪欲は罪の根源とも言えるのです。


神から与えられる満足


このように、満足を求めながらも満たされないで平安や喜びをなくし、不平、不満をつぶやきながら日々を過ごしがちな私たちに対して、神様は「あなたは常にすべてのことに満ち足りることができる」とおっしゃっているのです。そして事実、このような満足を体験した人のことが聖書に書かれています。それはパウロであります。彼は次のように言っています。


乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ人への手紙4章11~12節)


私たちはパウロが言うような「どんな境遇にあっても満ち足りる」というようなことはとてもできないと考えてしまいます。しかし、パウロは「できる」と言っています。ではその秘訣はどこにあるのでしょうか。それは冒頭にお読みした聖書にありますように神様が満ち足らせてくださるというところにあります。パウロはこれについて、


私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ人への手紙4章19節)


と説明しています。これが秘訣であります。神様が御子イエス様にあるご自身の栄光の富をもって満たしてくださるからこそ、私たちはどんな境遇の中でも満ち足りることができるのであります。ではイエス・キリストにある栄光の富とは何でしょうか。それは私たちの肉を満足させる富ではなく、イエス様を信じる者に恵みとして与えられる霊的な富であります。


霊的な富


では霊的な富とはどのような富なのでありましょうか。


その一つは信じる者にイエス様が与えてくださった永遠のいのち、よみがえりのいのちであります。


わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネの福音書10章28節)


わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネの福音書11章25~26節)


とあるように、イエス様を信じる者はイエス様の永遠のいのち、よみがえりのいのちというすばらしい富をいただいているので霊が満ち足りるのであります。


またもう一つの霊的な富は、信じる者の心の中に住んでくださるイエス様の御霊であります。これについてパウロはローマの信者に宛てた手紙の中で、


もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ローマ人への手紙8章9~10節)


と言っており、またエペソの信者に宛てた手紙には、


どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(エペソ人への手紙3章16~17節)


とあるように、神様は霊的な富としてイエス様の御霊を信じる者の中に住まわせてくださり、その御霊が内なる人とも呼ばれている、その人の中に与えられた霊を強め、導いてくださるので、たとえ大きな試練の中にあっても霊は満ち足りるのであります。その霊的な満足がパウロに、


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)


と言わしめているのであります。


さらにもう一つの霊的な富は、神様やイエス様のみことばであります。詩篇一一九篇の作者は、


あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。(詩篇119篇103節)


あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。(詩篇119篇72節)


と神様のみことばを味わって満ち足り、この世の富に勝る富と感謝しています。私たちもイエス様を信じる前に聖書を頭で読んでいたときにはまったくわからなかったみことばの深い意味を、信じてからは頭ではなく生まれ変わった霊がみことばを食べて味わい知ることができたので満足するのです。


しかし、どうして神様は私たちにそのような恵みを与えてくださるのでしょれは神様がご自分の御子を私たちのために身代わりに死に渡されるほど、自分の欲を満たすことしか考えないような自己中心な私たちを愛してくださっているからです。パウロはこう言っています。


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ人への手紙8章32節)


神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)


ここに「神のご計画に従って召された人」とありますが、これはどういうことなのでしょう。聖書の神様は目には見えませんが永遠に存在され、私たち人間をご自分に似たものとして造ってくださり、私たちと親しく交わろうと思ってくださる方であります。この神様は完全な義と愛の方であります。それに対して私たちは神様に背いたアダムの遺伝子を受け継ぐ子孫であります。ですから神様に背いて自分の欲を満たすために神様の戒めを破ってしまったアダムと同じく、私たちも生まれつき自分の欲を満たすことしか考えないような罪に汚れた者です。しかし、愛とあわれみに富みたもう神様はこのような人間をもお見捨てにならず、罪から救い出そうとお考えになりました。そのお考えとは私たちの罪を神の御子イエス様に負わせ、私たちの身代わりとして十字架の上で罰してくださるという、私たちにはとうてい考えも及ばないものでありました。完全な義にして愛そのものであられる神様はこのような想像を絶する方法によって私たちの罪をイエス様によって罰し、そして私たちの罪を完全に赦してくださったのであります。私たちがこの神の御子イエス様の十字架の死がほかならぬ自分の罪のためであったことを知って心から悔い改めたときに、神様は御子イエス様に免じて私たちの霊を聖め、背き離れていた私たちとご自分との親しい霊的な交わりを回復してくださるのであります。このように完全な赦しを無代価でいただけることを知り、心から罪を悔いて感謝し、これからは神様に従って歩んでいきたいと心から願うようになったならば、その人は「神のご計画に従って召された人」なのであります。


神に召された者の満足


さて神様に召された者はそれまでの古い自分がイエス様によって変えられて生き方が一新します。今までの古い自分はさきほどから申しているように、自分の肉の願望、欲望を満たすことしか考えることはできませんでしたけれども、神様に召されて新しく生れ変わってからは肉の富に満たされることを求めるのではなく、霊の富に満たされることを望むようになります。これについてパウロは自分自身の心の変化を次のように言っています。


私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ人への手紙3章7~8節)


パウロとまではいかなくても、私たちも信じる前と後では自分の中にこれと似たような変化が生じたことを体験するのではないでしょうか。私自身の体験でも少なくともイエス様を信じる前と後ではこの世のものに対する価値観が大きく変わって、この世的には価値のあると思われるものが、信じてからは空しく色褪せて見えるようになったのは確かであります。もちろんイエス様によって生まれ変わった後も私たちは誘惑に弱い肉のからだを着ていますから、この世のものに心を引かれることはありますけれども、そういうときにも、もはやそのようなものでは決して満足できない自分に気づいてイエス様から心が離れたことを悔い改め、ふたたびまことの満足を与えてくださるイエス様に立ち帰ることができるのです。


主に喜ばれることによる満足


さらに生まれ変わった霊は神様やイエス様に喜んでいただければ満足します。それはちょうど自分を愛してくれる親を喜ばせることが子どもにとっての喜びであるのと同じであります。パウロが、


私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(コリント人への手紙第二5章9節)


と言っているとおりであります。ではどうしたら主は喜ばれるのでしょうか。肉の親は子どもが親の言いつけにすなおに従うことを喜びますが、主も私たちがいつも神様の御前にへりくだって「主よ。御前におります。どうかみこころをお示しください」と主を仰ぐことを喜ばれます。そして主が喜んでくだされば私たちの霊は満足するのです。


主イエスから与えられるまことの富


このようにイエス様を信じる私たちの霊が満ち足りていれば、たとえこの世においては貧しくても、不治の病気に罹っていても、孤独であっても、ほんとうに満ち足りることができます。パウロはこれを次のように言い表わしています。


人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(コリント人への手紙第二6章9~10節)


「貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っている」などという逆説的なことは、常識では考えられないことですが、イエス様が私たちの中に栄光の富として住んでくださっていますから、私たちはそのイエス様を人に分け与えることによって、その人をもイエス様という富で富ませることができるのです。私たちはこの世のものは何も持っていないようでもイエス様のすべての富を持っています。ですから信じる者のこの世の状態がどんなであっても、いつも喜んで満ち足りていることができるのです。


どうか、まだイエス様をご存じない方はこの世の富を追求して、結局それが空しいとわかって失望して終わってしまうのではなく、イエス様からいつまでも続くまことの富をいただいて、ほんとうの満足を得てくださるように心からお祈りいたします。また、すでにイエス様を信じている私たちも、常にすべてのことに満ち足らせてくださるイエス様に従って御霊によって満たされ、さらに深い喜びと平安と希望と感謝に満ち足りた日々を過ごすことができるように心から祈りたいと思います。




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