何を求めて生きるか(2000年)

三 主は彼の後ろの戸を閉ざされた

ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟にはいった。彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、はいった。こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところにはいった。はいったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。(創世記7章13~16節)


今日はこの聖書の箇所の中から「主は彼の後ろの戸を閉ざされた」というみことばの意味についてごいっしょに考えてみたいと思います。


聖書を読んだことがなくても、創世記に記されているノアの箱舟の話をご存じの方は少なくないのではないでしょうか。それほどよく知られてはいても、これを私たち人間に対する、さらには自分に対する神様の警告として真剣に受け止める方はどのくらいおられるでしょうか。


悪と暴虐に満ち満ちたノアの時代


ノアがなぜ箱舟を作り、その中に入ることになったか、その理由は創世記に次のように記されています。


ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。(創世記6章9~14節)


主はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟にはいりなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからであるなたは、すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがいずつを取りなさい。それはその種類が全地の面で生き残るためである。それは、あと七日たつと、わたしは、地の上に四十日四十夜、雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面から消し去るからである。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。(創世記7章1~5節)


人間は、天地万物を創造された聖にして義なる神様が、ご自分と交わり、みこころを知ってそれに従うようにと、ご自分のいのちの息を吹き込まれてお造りになった特別な被造物であります。ところがその最初の人間アダムがサタンの誘惑に負けて、神様に背くという罪の道を選んでしまいました。その結果、アダムは神様との正しい関係を失い、神様の前に堕落した状態に落ちてしまったのです。この堕落した状態はアダムの遺伝子を受け継ぐ人間すべてに及び、そのためノアの時代には地上は悪と暴虐に満ち満ちたさまになっていたのです。


しかし、ノアだけは「正しい人」「全き人」であったとあります。これは完全無欠という意味ではなく、神様の仰せに忠実に従う人、すなわち神様との関係において正しい人ということであります。「ノアはすべて主が命じられたとおりにした」とあるように、まったく洪水の兆しが見られなかったときに、ノアは疑うことなくただ神様の仰せにすなおに従って、巨大な箱舟を造りました。そのようなご自分に忠実なノアを、神様はご自分の前に正しい者とお認めになったのです。


人類を滅ぼされるために起こされた大洪水


ノアたちが箱舟に入り、主が彼のうしろの戸を閉ざされてから七日後に、神様がおっしゃったとおりのことが起きました。雨が四十日四十夜降り続いた結果、大洪水が地の表を覆い、地上のすべての生き物は死に絶えたのです。


聖書には、水は百五十日間も引かなかったと記されています。今年は世界各地で大洪水が起こり大きな被害が出ましたが、ノアの洪水はそれらとはとうてい比較にならない地球規模の大きさだったのです。その間箱舟の中の様子と外の状態はどんなだったでしょうか。


神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。(創世記8章1節)


と記されていることからわかるように、神様は箱舟の中のノアたちをずっと守ってくださいました。ノアも自分たちを守ってくださるという確かな信頼を神様に置いていましたから、百五十日もの長い期間、多くの動物たちとともに平安に過ごすことができました。舟の中は主の平安に満ちていました。


いっぽう箱舟の外には恐ろしい光景がありました。高い山々もすべて水没するほどの大洪水の中、避難するところはどこにもなく、人間を含めてすべての生き物は荒れ狂う大水に流され、助けを求めながら溺れ死んでいったのです。その差はどうして生じたのでしょうか。それは神様の仰せに従って生きていたか、あるいは神様に背き自分の思いに従って生きていたかの差であります。その差が生きるか死ぬかという大きな相違となったのです。


今の時代とノアの時代


さて、ノアの箱舟の時代からはるかにくだった今日、世界の状態はどうでしょうか。私たちの目にする世の中の状態はまさにノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪と暴虐が満ち満ちていると言えるのではないでしょうか。世界中で戦争、テロ、麻薬、強盗、殺人、暴行、詐欺、裏切りなど数え上げればきりがないほどの事件が毎日起こっています。それは相変わらず人間が神様に背を向けて、自分の思いを満たすことだけしか考えないような勝手放題な生き方をしているためであります。自分はそのようなことはしていないと思う方も少なくないと思いますが、神様は人の心の中をご覧になる方ですから、行為として外に現われなくても心に思うだけで行為をしたのと同じと見なされます。イエス様は次のようにおっしゃっています。


「姦淫してはならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイの福音書5章27~28節)


このように、私たちの心に少しでも良くない考えが浮かんだとき、神様は私たちがすでにその行為をしたと見なされるのです。ですから私たちがいくら否定しようとも心の中には神様からご覧になれば悪が存在しているのです。イエス様はさらに、


人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコの福音書7章20~23節)


とおっしゃっていますが、私たちが謙虚に自分自身を顧みれば、だれでもイエス様が心から出る悪として挙げられたうち、全部ではないにしてもいくつかは自分にもあると認めざるを得ないのではないでしょうか。


次は火によって人類を滅ぼされる


では神様はこのような罪に汚れた人間を滅ぼされるためにふたたびノアのときのような大洪水を起こされるのでしょうか。もし起こされるとすればそのときはいつであり、またそのときノアのように救われる人はいるのでしょうか。このたいへんに気になる疑問に対して聖書は次のように記しています。


まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。(ペテロの手紙第二3章3~7節)


これによって、神様はノアの時代には洪水を起こされて不敬虔な者を滅ぼされましたが、今度は洪水ではなく火によって滅ぼされるということがわかります。具体的に火が何を指すものかは今私たちにはわかりませんが、洪水よりもさらに恐ろしいものであることは想像できます。そしてその日はいつかについてはイエス様は次のようにおっしゃいました。


いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、のんだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイの福音書24章32~39節)


「人の子」とはイエス様のことであります。私たち人間を滅びから救い出すために貧しい人の姿をとってこの世においでになり、十字架による贖いのみわざを成し遂げられて天に戻られたイエス様は、今度は悪と罪に満ちたこの世を滅ぼされる偉大な神として、神々しい姿でふたたびおいでになります。今引用したみことばの少し前で、イエス様はその前兆として偽キリストが現われて人々を惑わしたり、大地震や民族間の争いが起こるとおっしゃっておられ、それを夏が近くなったときのいちじくの木の枝と葉の変化にたとえて説明されました。今の世の中の有様はまさにそのとおりの状況であります。しかし、ご再臨のその日がいつかは父なる神様のほかはイエス様もご存じないけれども、ただノアの洪水の日と同様に突然来るとはっきりおっしゃっているのです。


滅びを免れるには


ではこのような恐ろしい事態から脱出するにはどうしたらよいのでしょうか。そのときが来てからではもはや手遅れであることは今までごいっしょに見てきたとおりであります。もし今の時代にもノアの箱舟があれば、手遅れにならないうちに入りたいとだれでも思うのではないでしょうか。しかし今の世にはノアの箱舟は存在しません。では私たちはただ滅びるのを待つだけなのでしょうか。その心配はありません。義そのものの神様は同時に愛に満ちた方であります。神様はノアの箱舟に代わる、いやそれとは比べものにならぬほどのすばらしい救いの舟をすでに提供してくださっているのです。その舟こそ私たちを滅びから救い出してくださるために救い主として神様が遣わされた神のひとり子イエス様であります。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3章16~17節)


このように、すでに神様は二千年前にイエス・キリストというすばらしい救いの舟を提供しておられたのです。ではこの舟に入るにはどうしたらよいのでしょうか。もう一度ノアがどうして箱舟にはいることができたかを考えてみましょう。ノアが箱舟に入ることができたのは神様から正しいと認められたからでした。ということは、私たちも神様から正しいと認められればよいのです。では私たちが神様から正しいと認められるにはどうしたらよいのでしょうか。「これからは真面目に清く正しく生きる努力をします」と神様に誓えば、神様はそれを認めてくださるでしょうか。あるいは、いっしょうけんめい社会に役立つ行ないや善き行ないを積み重ねて、その成果を神様に認めていただくことでしょうか。それでは駄目なのです。前にも申しましたように、人間の心の中まで見抜かれる神様は、私たちの心に「清い生き方をした、善行をした」という誇り、高ぶりが少しでもあれば、いくら努力しても正しいとはお認めになりません。それではどうしたらよいのでしょうか。イエス様は有名なたとえをお話しになっています。


自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書1章9~14節)


神様が正しいと認められるのはこの取税人のように心が砕かれ、自分の犯した罪を心から神様に謝る者であります。私たちもこの取税人のように自分の罪を認めて神様の前にヘりくだって心から謝罪したときに、神様はイエス様が十字架上で流された汚れのない聖い血によってその罪を聖めてくださり、私たちを義、すなわち正しいと認めてくださるのです。聖書に、


神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章2節)


とあるとおりです。


主が扉を閉ざされる前に


さてイエス様という救いの舟に乗るために、私たちがどうしたらよいかは以上ではっきりしました。しかし、次のように考える方があるかもしれません。「イエス様という舟に乗るためにどうしたらよいかはわかった。けれども自分はその前にまだやりたいことがあるから、イエス様の舟に乗るのはそれが終わってからにしたい」と。しかし、その方はいつイエス様が救いの舟の扉を閉められるのかご存じなのでしょうか。冒頭の聖書の箇所に「それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた」とありました。ノアたちが箱舟に入った後、箱舟の戸はノアが中から閉めたのではなく神様の手で外から閉められたのです。一度神様によって閉められた戸はもう決して開かれることはなく、閉ざされてからではいくら中に入りたいと望んでも決して入れません。それと同様にイエス様もときが来れば救いの扉をご自分の手で閉ざされます。そして一度閉ざされた扉は決して開かれません。


ではイエス様が救いの扉を閉ざされるときはいつでしょうか。一つはその人のこの世における生を主が終わらされるときであります。私たち人間は自分のこの世のいのちをいつ終わりにするかを決めることはできません。自分のいのちの終わりのときを知ることはできません。聖書に、


あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブの手紙4章14節)


とあるとおりです。主が私たちのこの世のいのちの扉を閉められた後からでは、いくら叫んでも遅いのです。


もう一つのときは、先ほど引用した聖書の箇所にもあったように、イエス様がふたたびこの世に来られるご再臨のときであります。イエス様は恐ろしい永遠の滅びからひとりでも多くの方を救おうと、愛と忍耐をもって扉を閉ざすときを延ばしておられますが、それにも限度があります。どうかまだイエス様を信じておられない方は、聖書に、


確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(コリント人への手紙第二6章2節)


とある、その恵みの日、救いの日である今、手遅れにならぬうちに一刻も早くイエス様のところに飛び込む決心をなさるように心からお祈りいたします。


また信じる者のためには、イエス様はご再臨への心構えを、花婿を迎える五人の愚かな娘と五人の賢い娘のたとえによって説明しておられます。


愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、「そら花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がした。娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま。ご主人さま。あけてください。」と言った。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言った。だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイの福音書23章3~13節)


この油は、イエス様を信じた者に恵みとして与えられる神の御霊、聖霊を指します。このたとえから信じる者がわきまえておかなければならないことは、戸が閉められてからではいくら「ご主人様開けてください」と叫んでも遅いということです。ですから信じる私たちはイエス様のご再臨がいつあっても、今日あっても、明日あってもよいように、信じる者に与えてくださった聖霊の油を絶やすことなく、しっかりと霊の目を覚まして「主よ、来てください」とご再臨を日々待ち望みながら祈りつつ、心の備えをしていることが大切であると思う次第です。




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