何を求めて生きるか(2000年)
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。(マタイの福音書6章22~23節)
今日はこのみことばについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。昔の人は、目はからだの窓で、そこから光が体内に差し込むと考えていました。この考えに基づけば、目が健全なら全身は明るく、目が悪ければ全身は暗くなります。イエス様はこのことを比喩的に取り上げて、「霊の目が健全なら、からだの中に差し込む光はからだ全体を明るくするが、霊の目が悪ければ差し込む光は暗く、からだ全体を真っ暗にする」とおっしゃっているのです。これは霊の目が悪ければ、いくら肉体の目から光が体内に入ったとしても、その人間は霊的な暗やみの中に置かれているということを指しておられるのです。
視力を失うことを失明と言い、明るさを失うと書きます。この言葉のとおり、もし目が見えなくなれば私たちは明るさを失って、昼間でも真っ暗やみの中に置かれるのと同じ状態になります。そうなれば、どの方向に進んだらよいのかわからずに、間違った道に迷い込んだり、この道が正しいと思って選んだのに違ったり、また、自分の前にどんな障害物があるのかわからずに、つまずいたり、衝突したり、あげくの果てには大怪我をしたり、いのちを失ったりします。
しかし、暗やみには肉眼の視力が失われたときに生じる暗やみのほかに、霊の視力が失われて生じる暗やみがあるのです。したがってこの暗やみは霊的な暗やみと言ってよいでしょう。このように霊の目が失明して霊的な暗やみに置かれた人間は、肉眼が失明した場合と同様に、霊的な意味で自分がどこに向かっていったらよいのかわからず、つまずいたり、ころんで怪我をしたり、自分では正しい道を選んだつもりでも、滅びの死に至る道をそれとは知らずに歩むことになります。イエス様が「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」とおっしゃったほどに、霊の暗やみは恐ろしいものなのであります。しかし、肉眼の失明に気づかない人はありませんが、霊的な失明はほとんどの人が自分ではまったく気づかないために、今申しましたような恐ろしい結果を招くことになります。神様から世界一の知恵を授けられ、聖書の中の箴言や伝道者の書を記したソロモン王は、
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14章12節)
と言っていますが、ここで言っている「人の目」とは霊的に失明している人の目のことであり、霊の目が失明しているために曲がった道も真っ直ぐに見えてしまい、その曲がった道は死の道に通じているというのであります。
では、このような恐ろしい霊的な失明は、だれに、また、なぜ起こるのでしょうか。霊的失明は悪者に起こるのです。前述のソロモン王は、
悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。(箴言4章19節)
と言っています。しかし、彼が言う悪者とはだれでしょうか。預言者イザヤは悪者とはこのような者だとイザヤ書の中で言っています。
悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。(イザヤ書26章10~11節)
悪者とは、創造主であり、全能の主であり、万物の主権者である生ける神様がみずからお造りになり、支配しておられる自然をとおし、歴史をとおし、また私たち一人ひとりの人生をとおして、ご自身のみわざを、またみこころを、慈愛を示しておられるのに、その神様に目を向けようともしないで、生ける神様の働かれるこの世界で自分勝手に自分の知恵、力に頼って生きている者、すなわち私たち自身を指します。これは霊の目が失明している結果であり、霊の暗やみの中で生きているために神様のお考えも御手のわざも見えないのであります。イザヤは神様から離れた人間の霊の状態を次のように書き表しています。
私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。(イザヤ書59章10節)
このような惨めな人間を見放さず、なお愛してくださるあわれみ深い神様は、二千年前に暗黒のやみのこの世にご自分のひとり子イエス様を光としてお遣わしになりました。ヨハネは次のように証言しています。
この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネの福音書1章2~5節)
イエス様ご自身も、ご自分について次のように言っておられます。
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネの福音書8章2節)
イエス様は霊的失明者がやみの中を歩むことがないよう、やみに打ち勝つ「いのちの光」を与えるために、この世にご自身が光としておいでになったのです。そして今のみことばでイエス様が約束なさったように、イエス様を罪の暗やみから救い出してくださる方と信じて従う者の霊の目を開いてくださり、やみに打ち勝つイエス様のいのちの光を持つ者としてくださるのです。
イエス様は「霊の目が見えるようにして欲しい」と心からへりくだって願う者には、かならずその望みをかなえてくださるお方であります。それはイエス様が盲目の乞食の願いをかなえて、目が見えるようにされたエピソードからも知ることができます。
イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコの福音書10章46~52節)
この盲人は暗やみの中で長い年月を貧しく生きてきました。盲人なるがゆえに乞がゆえに乞食にならなければならなかったのかも知れません。彼は暗やみの中で長い年月苦しみ、そのために心が砕かれていました。彼はどんなに光を望んでいたことでしょうか。そういうときに彼はあちこちで多くの病人を癒されたイエスという方が町に来られる、といううわさを聞きました。彼はうわさを聞いただけで、この方こそ自分の盲目を癒してくださる方だと確信したのです。それは彼がイエス様に向かって「ダビデの子のイエス様」と呼びかけたことからわかります。「ダビデの子」とは神様がダビデ王に約束された契約の成就者、すなわち救い主のことであり、彼はイエス様こそがその救い主だと信じたのです。イエス様は彼の信仰を喜ばれ、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃって、即座に目が見えるようにしてくださったのです。
このエピソードの中の盲人は、実は霊の暗やみに置かれた私たちでもあります。私たちも、自分は今どこにいるのだろうか、どの方向に進んだらよいのだろうかと、暗やみの中を手探りしながら途方にくれて悩み苦しんだときに、イエス様のうわさを聞き、この方だけが自分をやみから救い出してくださる方と信じて、心から「イエス様、助けてください」と叫べば、イエス様は直ちにご自身のいのちの光によって私たちの霊の目を開いてくださり、やみから光の中に移してくださるのです。そして、
その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。(イザヤ書29章18節)
とあるように、今までは自分の頭で理解しようとしてもできなかった神様のみことばである聖書を、イエス様の光によって開かれた霊で深く味わうことができるようになり、その恵みを心から喜ぶようになるのです。
しかし、そのような心砕かれた人々ばかりではありません。むしろ自分の悪い行ないを隠すのに都合のよい暗やみを愛し、光であるイエス様のもとに来ようとしない人々も多くいます。聖書は次のように言っています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネの福音書3章16~20節)
けれども、そのような者もイエス様は見放されずに、あわれみと愛をもって次のように呼びかけてくださるのです。
まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。(ヨハネの福音書12章35~36節)
暗やみを照らす光としてこの世に来られたイエス様が「光がある間に、光を信じなさい」と言われた「光がある間」とは、父なる神様の救いをあくまで拒む不敬虔な者をさばくために、イエス様がやがてこの世にさばき主としてご再臨なさるときがまだ来ない間、すなわち「今のとき」を指しておられるのです。そのような神様のあわれみにもかかわらず、なお光の子となるのを拒み続ければ、その人は暗やみの中を滅びに向かって歩むしかありません。
さて、霊的な暗やみは、神などいないとうそぶいて自分勝手に生きている霊的失明者に生じるだけではありません。神様の恵みによって一度霊の目が開かれてイエス様を信じ、光の子とされたにもかかわらず、その恵みに馴れ、傲慢にも自分の力で目が見えるようになったような気がしたり、また自分の力に頼っても信仰の歩みが正しくできると思うとき、その人は霊的な暗やみの状態にあるといえます。イエス様はそのようなキリスト者に対して次のようにおっしゃっています。
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネの福音書9章39~41節)
さて、イエス様によって、失明していた霊の目が開かれてイエス様という光を見る恵みにあずかり、心からその恵みを感謝し、喜んでいれば、だれでもその恵みを自分ひとりが享受するだけではなく、光であるイエス様を暗やみの支配のもとで苦しんでいる人々に紹介しようという強い思いを抱くのではないでしょうか。イエス様が、
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。(使徒の働き26章17~18節)
とパウロにおっしゃっていますが、それはイエス様に救い出されて神のしもべとされたキリスト者にも当てはまることなのです。
ところがその神のしもべたちも、もし光であるイエス様から目を離すと、たちまちサタンの罠にかかって霊の目がふさがれ、ふたたび暗やみの中を歩む危険に陥ります。そうなると何が主のみこころか、何がみこころでないかの見分けもつかなくなり、人を正しく主のもとに導くことも、また主にある兄弟姉妹を愛することもできなくなります。神様はそのようなしもべのことを次のように嘆いておられます。
わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない(イザヤ書42章19~20節)
イエス様は口先では神様を敬っているようでも、心は神様から遠く離れている律法学者やパリサイ人について次のようにおっしゃっています。
彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。(マタイの福音書15章14節)
これはイエス様に従うと言いながら、実は自分の考えによって人に指図したり、教え導こうとするキリスト者にも当てはまることであります。このような霊的に失明して暗やみにあるキリスト者は、自分がイエス様をお入れしている、たんなる器であって、その器を用いてイエス様ご自身がご栄光を現わされるということがわかりません。そして自分の考えによってイエス様のみこころとは違った方向へ人を導いたり、また自分の考えによって神の愛ではなく人間愛、すなわちヒューマニズムの実践こそが正しい信仰の行ないであると錯覚してしまうのです。このように、いったん神のしもべとされながら霊の目がふさがれた者は、自分がやみの中を歩んでサタンの仕かけた穴に落ち込むばかりか、人までも道連れにするということになるのです。
ではこの暗やみから脱出するにはどうしたらよいのでしょうか。それには自分がイエス様から離れていたことを心から悔い改めて、光の主であるイエス・キリストに立ち返ることであります。そうすればイエス様は直ちに聖霊の目薬を注いで失明した霊の目を癒してくださり、ふたたび光そのもののイエス様を仰ぎ見ることができるようにしてくださるのであります。イエス様はキリスト者に対して、次のようにおっしゃっています。
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(ヨハネの黙示録3章15~19節)
キリスト者は、このイエス様のみことばを忘れないようにしなければなりません。そしてせっかくイエス様に癒していただいた霊の目がまた盲目にならぬように、いつもイエス様から聖霊の目薬を点眼していただくように心がけることが必要であります。パウロはキリスト者に次のように勧めています。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ人への手紙5章8節)
「主にあって光となる」ということは、自分が光り輝くことではありません。やみの世を照らす光であるイエス様にしっかり結びついたときに、そのイエス様の光を反射することができるということです。以前は暗やみの子であった者が、イエス様の愛によってこのような恵みをいただいたキリスト者は、またとやみに戻らぬようイエス様に聖霊の目薬を点眼していただきながら、光の子としてイエス様の光を反射する燭台としての歩みを続けることができるように祈ることが大切であります。
また、イエス様をまだ信じておられない方は、どうか光がある間にイエス様を信じてイエス様からいのちの光をいただいて光の子となってくださるよう心からお祈りいたします。