何を求めて生きるか(2000年)

一 何を求めて生きるか

わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく。(箴言8章35節)


今日は、かぎりある人生に何を求めて生きていけばよいのかという、たいへんに大きくかつ深刻な課題について、ごいっしょに考えていきたいと思います。実はこの問題提起は、最近ある女性、仮にNさんとお呼びしますが、その方からいただいた手紙にありました。まずNさんの手紙をご紹介します。


Nさんの手紙


突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。私はK市に住む二人の子どもを持つ三十九才の看護婦です。今年のはじめ頃から生きることの空しさを強く感じ、聖書の伝道者の書の「空しい、空しい」は私のことでした。生きる意味、生きる目標を求めてまいりました。友人の導きから「光よあれ」(注:キリスト集会発行のキリスト者による証し集)を読む機会も与えられました。すべてのことを神様に尋ね、頼り、ゆだねていけばよいことも友人に教えてもらいましたが、私にはできません。現在私は育児休業中ですが、十月から職場復帰をし、看護婦の仕事をしなければなりません。重田様が医師であることを「光よあれ」で知りました。的はずれな質問をしてしまいますが、同じ医療に携わる者として助言をしていただけたらと思い、思い切って手紙を書きました。


一・・・・すべてのことに神の時がある・・・・産まれる時から死ぬ時まで、すべて、すべて神の支配(愛?)の下で人間は生き、いつ笑い、いつ泣き、いつ結婚し、出産し、何の病気で何年何月に死ぬのかも、すべて、すべて決まっている。しかし、それは神の愛であるから、神が定めたのだから、悪いようにはなされないのだから、定められた時を神に感謝し、神に口答えすることなく、喜べなくても喜び、生きていくべきなのでしょうか。


二・・・・すべては神から発せられた・・・・人間も動物も草も花も神が造られたもの、人間の最大の敵である死の原因となり得る病原菌も神が造られたのでしょうか。病も神が造られたのでしょうか。死さえも神の愛なのでしょうか。永遠のいのちがあるにしろ、ないにしろ、人間はかならず死んでしまいます。いくら病気が治っても死ぬ。交通事故でも死ぬ。かぎりあるこの世の生活に何を求めて生きていけばいいのでしょうか。職場に復帰しても、このままの状態でいると、どうせ死んでしまうのに、おそかれ早かれ同じなのにという、心の奥底から湧いてくる気持ちに負けて仕事ができそうもありません。どういう気持ちで患者さんに接していけばいいのでしょうか。どうしたら、どうせ死んでしまうのだから、何をしても空しい、何もかも空しいという気持ちから解放されるのでしょうか。


身勝手で支離滅裂なお手紙を差し上げ申し訳ありません。お時間のある時にぜひお返事をいただきたいと存じます。


Nさんへの返事


このように率直かつ真剣に人生の空しさについて訴えておられる手紙をいただいたのははじめてでした。文面からはNさんが必死で求めておられるのが伝わってくるようでした。


私は次のような返事をお出ししました。


お手紙拝見しました。あなたの疑問は、まじめに人生を考えるとき、また真剣に聖書を読むときに起こってくるたいへん重要な問題です。どの程度あなたの質問にお答えできるかわかりませんが、イエス様に祈りながら示されたことをお書きします。


あなたが挙げた二つの疑問、すなわち、すべてのことに神の時があるなら、定められた時を感謝し、喜べなくても喜んで生きていくべきか、そしてすべては神から発せられたのなら、死も病も神が造られたのか、死さえも神の愛なのか、という問題はどちらもイエス様を信じる信仰の基本に関連している大切な問題であると思います。


喜べないことでも神の定めとして感謝すべきか


まず、喜べないことでもこれを神の定めとして感謝すべきか、という問題です。結論から先に言えば、その答はお手紙の最初のほうで、あなたの友人が言われた「すべてのことを神様に尋ね、頼り、ゆだねていけばよい」ということに尽きます。しかし、あなたは自分にはできないと言われます。そのとおりです。それは自分の頭で理解しよう、自分の力で無理にしようとするからで、できないのがとうぜんなのです。そしてここに信仰の奥義が隠されているのです。どうしてできないのでしょうか。それはあなたが、まだ聖書の神様、すなわち天地万物の創造主であり、全知全能の唯一まことの生ける神様と、その神様からこの世に遣わされた神のひとり子イエス様との霊的な出会いをしておられないからなのです。ではイエス様との出会いとはどういうことでしょうか。


知ることと信じることの違い


あなたは聖書を読んでおられますし、その内容もよく理解しておられるようです。ですからイエス様がキリストであることも知っておられると思います。しかし、いくら聖書を知っていても、イエスがキリストであることを知っていても、それはイエス・キリストを信じていることとは違うのです。知識として知るということは頭で理解するのであり、頭で理解しようとするかぎりはイエス様に出会うことはできません。


イエス様を信じるのは頭ではなく、心に信じ受け入れることなのです。そしてそのためにまずなすべきことは、あなたが心を閉ざしたり、あるいは自分やこの世に向けるのではなく、意識して天に向けて、すなわち神様に向けて大きく開けることが必要です。次に今あなたの心にいっぱいになっている、いろいろな思い煩いを空にすることです。もちろん、それも自分の努力でできるものではありません。しかし、ちょうど水に溺れそうになって、もがけばもがくほど沈むそのとき、もがくのを止めてからだの力を抜けば、からだがすうっと浮くのと同じように、思い煩いにあがくことを止めて力を抜けば、すうっとあなたの心は空になります。


こうして心を神様に向けて開き、心の中を空にしたとき、イエス様は心の中に入ってくださり、あなたと出会ってくださいます。そのとき、あなたははじめて開かれた心の目で、霊の目でイエス様が自分のために何をしてくださったか、また今も何をしてくださっているかということを見ることができ、心からイエス様に感謝し、これからこの方に信頼して生きようという思いが与えられます。すなわち、あなたは、それまではイエス・キリストの十字架と復活を知識として知っていたのが、イエス様との霊的な出会いによって、それはほかならぬあなたを愛してくださるがゆえに、あなたの罪を贖い、永遠のいのちをくださるためにしてくださったみわざであるということを、すなおに心に受け入れることができるようになります。これがイエス様に出会ってイエス様を信じるということです。イエス様を信じればもう安心です。


神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(コリント人への手紙第一1章9節)


と聖書にあるように、あなたはあなたを罪から贖い出してくださった救い主イエス様との霊的な交わりに入れられ、イエス様はあなたとともにいてくださって、これからずっと導いてくださるからです。


イエス様と交わるには


しかし、私たちはイエス様と、どのようにして交わることができるのでしょうか。それは祈ることと、神様のみことばを食べることによってです。祈りはイエス様との会話です。空をつかむような、とらえることのできない対象に向かってではなく、あなたを愛してくださり、あなたの傍らにおられる生けるイエス様に対して、正直に自分の思うことをお話しすることが祈りです。ですから祈りには形式はありません。ただ祈るときには他のことに気を散らすことなく、聞いてくださるイエス様に心を集中して真剣に祈ることが大切です。はじめに「イエス様」と呼びかけてから祈ると、イエス様が身近に感じられます。そのように祈るとき、イエス様はあなたの祈りを聞いてくださいます。そして、かならず答えてくださいます。もしあなたの祈りがイエス様のみこころにかなう祈りであれば、そのようになるでしょう。けれどもかならずしもあなたの願いどおりにはならないこともあります。しかし、それはイエス様があなたの祈りを聞いてくださらなかったからではなく、あなたを愛しておられるがゆえに、あなたの願っていることとは別のことで、あなたをもっと、もっと恵もうと考えておられるからです。聖書に、


何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章6~7節)


とありますが、これが祈りの秘訣です。イエス様に真剣に祈るとき、イエス様は聞いておられる証拠に、あなたに平安な思いを与えてくださいます。


また、みことばを食べるとは読むこととは違うのです。読むというのは頭の働きによりますが、みことばを食べるのは心で、霊でしなければなりません。あなたが心でみことばを食べ、みことばを味わうならば、みことばによって心が、霊が養われます。みことばは心が、霊が生きるのに必要な、なくてはならない大切な栄養源なのです。イエス様は聖書のみことばによってご自分のお考えをあなたに示されます。あなたはみことばによって慰められ、元気づけられ、励まされ、喜びと平安と希望が与えられます。そして、もっとみことばを食べたいと思うようになります。エレミヤという預言者は次のように言いました。


私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ書15章15節)


このように、イエス様に出会って、イエス様と祈りをとおして、またみことばをとおして霊的な交わりを持つようになれば、あなたはもう、お手紙の中でおっしゃっていた「喜べなくても、神の定めとして感謝しなければならないのか」という悩みから解放されている自分に気がつくと思います。


いのちと死について


次にあなたが投げかけられた、「死も神の愛なのか」という問題について考えてみたいと思います。これは言いかえればいのちと死の問題であります。イエス様はご自分を羊飼いに、ご自分を信じる者を羊にたとえて次のようにおっしゃっています。


わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネの福音書10章27~28節)


ご自分のいのちをかけてあなたを狼から守ってくださるイエス様が、みことばによってこのように約束してくださっていますから、イエス様を信じる者は安心してイエス様に自分をゆだねることができるのです。ですから死をも恐れることはなくなるのです。


私たち人間が考える死とは、からだの死であり、生物学的な死です。しかし、聖書で言うところの死はからだの死に留まりません。神様から永遠に見捨てられ、滅びるという肉体と霊の死を指します。


罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)


と聖書にあるように、死は人間の原罪、すなわち私たち人間を造り、愛してくださっている神様に背を向けて自分の思いを満たした最初の人アダムの罪を受け継いだ私たちが、ひとり残らず生まれつき持っている罪に与えられた報いなのです。しかし、神様はそのような私たちをなおも顧みてくださり、滅びることのないように御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、イエス様を信じる者に神様の賜物として罪の赦しと永遠のいのちをくださったのです。イエス様を信じていても、汚れているからだは神様が定められた時が来れば、病や事故や老いによって一度は死にますが、霊はただちに天国のイエス様のもとに帰り、そこで安らかに憩うことができます。しかも死んだからだはそのまま墓の中で朽ち果ててしまうのではなく、


わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネの福音書11章25~26節)


とイエス様が約束してくださったとおり、イエス様を信じて天国の国籍を与えられた者は、復活され天に戻られたイエス様が信じる者を迎えにふたたび来てくださるそのときに、イエス様の復活のからだに似た、決して朽ちない聖いからだによみがえらせてくださるのです。ですから、この希望を持つ者は、


私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3章20~21節)


と確信をもって待ち望むことができるのです。


イエス様によって生きる意味と目的を見い出す

聖書の中の伝道者の書にある「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、聖書の中の伝道者の書にある「空の空。すべては空。日の下で、それが人に何の益になろう」という言葉は、この世だけがすべてであると思っている人、この世のいのちがすべてだと思っている人にとっては真理です。このように思えば、生きる意味も、生きる目的もなくなって当然です。しかし、イエス様を心から自分の救い主と信じた者にとっては、この世は天国への旅路に過ぎず、自分はほんとうの故郷である天国への道をたどる旅人であることを知るのです。そしてこの世に生きる意味は、自分を救ってくださったイエス様とともにこの世の旅路を天国まで歩むことであること、この世に生きる目的は、生きる意味も目的も失って絶望している人々に、このイエス様を紹介すること、自分をとおしてイエス様の愛を提供することであることを示されるのです。


あなたは「すべてのことに神の時がある」ということが、また「すべてのことが神から発せられた」ということが、どうも納得がいかないようでした。納得がいかない大きな原因は、すべてのことという中には自分にとって、人間にとって好ましくないようなことが含まれるからです。しかし、それは人間を中心とした考え方に基づいているのです。人間中心の考え方とは、天地万物の創造主であり、全知全能の神が、すべての被造物の主としてこの世を支配しておられるのにもかかわらず、自分を中心として宇宙が回っている、神様も自分のために存在していると思って疑わないことです。ですから自分にとって好ましくないことはどうしても受け入れたくないのです。


しかし、イエス様を信じ、イエス様を心に受け入れるとその考え方は一変します。自分に与えられた神様の愛と恵みがどのように大きいかを知るからです。聖書に、


私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう(ローマ人への手紙8章3節)


また、


神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章2節)


とありますが、これがイエス様を信じた者のイエス様と神様に対する信頼です。ちっぽけな私たち人間にはほんの目先の幸せしか理解できませんが、神様は私たちのために私たちの考えも及ばぬはるか先の幸せまで考えてくださっているのです。この確信があれば、神様が定められたものはすべて、神様から来るものはすべて、私たちにとって好ましくないと思われる病も、老いも、死でさえも、すべて益と変えてくださると、感謝して受け入れることができるのです。だからこそ、すべてのことは神様におゆだねしていけばよいのです。


長くなってしまいましたが、あなたの疑問に対する答になったでしょうか。どうかあなたが、あなたを愛しておられるイエス様に出会うことができ、イエス様とともに生きることこそが生きる意味であることを知り、そこに生きる目標を見い出すことがおできになるように心から祈っております。


このような内容の手紙に添えて、私の書きました福音メッセージ集「私たちはキリストに会った」という本をお送りしました。その後Nさんのことを祈っておりましたら、少しして次のようなお手紙をいただきました。


お返事ありがとうございました。「私たちはキリストに会った」拝読させていただきました。ご本までいただきありがとうございました。この空しい人生を何とかして頑張って充実したものにしなければ・・・・ともがき、もがき生活しておりました。重田様がお手紙に書いてくださったように、もがいて、もがいて沈んでいってしまいました。何かをつかまなければと、聖書を読んだり、証しやメッセージのテープを聞いたりしておりました。もがき、苦しみ、必死になるのを意識してやめるようにしました。イエス様のことを心から信じることがどんなことなのか、まだ私にはわかりませんが、「神様、あなたがほんとうに全知全能の神で、御子イエスがほんとうに私の救い主であるのなら、そのことを私にわかるようにしてください」と正直に祈るようにしました。いただいたご本とお手紙を何度も何度も読ませてもらっています。読んでいると心が落ち着きます。ほんとうにありがとうございました

私はイエス様が確実にNさんの心に働いておられることを、この手紙をとおして確信することができ、


求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(ルカの福音書11章9~10節)


わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく。(箴言8章35節)


というイエス様のお約束がそのとおりであることを覚えて心から主に感謝しました。


Nさんはお手紙で「イエス様が自分の救い主であることがわかるようにしてください」と祈っておられますが、イエス様は私たちにご自分が救い主であることを啓示される場合、私たちの閉ざされた霊の目を開くために神の御霊を送ってくださいます。御霊によってはじめて私たちはイエス様に出会うことができるのであります。イエス様は十字架にお架かりになる前に、弟子たちに次のようにおっしゃっています。


わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネの福音書15章26節)


またパウロも御霊の働きについて次のように書いています。


「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。(コリント人への手紙第一2章9~12節)


「恵みによって神から賜わったもの」、すなわち私たちに対する神様の恵みの賜物のなかで最大、最高の賜物はイエス様であります。Nさんにかぎらず、どなたでもイエス様のことを知りたいと心から願うときに、イエス様は御霊を助け主として送ってくださり、神の賜物であるご自身に出会わせてくださいます。そしてその方はイエス様によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちをいただき、自分の知恵や力に頼って生きることの空しさから解放されて、イエス様に頼って生きることを喜ぶ人に変えられます。


最後にイエス様のみことばをお読みして終わります。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章28~30節)




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