みことばは食べるもの(2000年)
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。(ヘブル人への手紙11章7節)
今日は聖書のこの箇所から、信仰に基づく決断ということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。
私たちは神様の愛とあわれみによって神の御子イエス様を自分の罪の贖い主と信じることができ、今までの罪にまみれた自分はイエス様とともに十字架につけられて死んだことを知りました。そしてその結果、サタンの奴隷、罪の奴隷から解放され、復活されたイエス様のいのちに与かって新しく生まれ変わり、主のしもべとしてイエス様とともに生きるという恵みに与かりました。パウロはこれについて、
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ人への手紙6章4~8節)
と言っています。しかしながら、主のしもべとされても、なお地上に生かされている間は日々いろいろな問題が次ぎ次ぎに起こりますから、その都度どうすべきか決めなければなりません。この世の人であれば、どうすべきかの決断はとうぜんながら人間の知恵や経験に基づいてされます。けれども主のしもべとされた者は、このような場合に右に行くか、左に行くか、進むか、止まるかの決断は、人間の知恵によってではなく、信仰に基づいてされなければなりません。にもかかわらず、ややもすれば私たちはうっかり自分の思いや自分の肉の知恵で物事を決めてしまい、後になって後悔することが多いのではないでしょうか。そこで今日は信仰に基づく決断は、何のためにするのか、またどのようにしたらよいのかを、聖書から考えてみたいと思います。
その一 自分のためでなく、主のためになされる
まず信仰に基づく決断は自分のためではなく、主のためにしなければならないことを、わきまえ知ることが大切です。この良い例は次のソロモンの願いの中に見ることができます。
「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。(列王記第一3章7~12節)
ソロモンは自分のためにではなく、神様に選ばれた民であるイスラエルの人々の訴えを王として正しく判断することができるために、言いかえれば神様ご自身のご栄光のために、正しい判断力をお与えくださいと願い求めたのです。ソロモンのように、自分のためではなく、神様のために正しい決断をしたいと心から願う者には、神様はご自分の知恵と判断力をお与えになり、みこころに適う正しい判断をすることができるようにしてくださるのです。
その二 祈りによってなされる
また、信仰に基づく決断は祈りによってなされることが大切です。その良い手本はイエス様のゲッセマネの祈りに見られます。
父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(ルカの福音書22章42節)
神様であられながら人としてこの世に来てくださったイエス様は、私たち人間と同じ肉の痛みの感覚をお持ちになっていました。ですからできることなら十字架のたいへんな苦しみは避けたいと思われたのはとうぜんのことでした。もちろん死人をよみがえらせる力をお持ちのイエス様は、十字架の刑から逃れることはたやすいことでした。しかしイエス様はご自分の肉によって決断をすることはなさらず、どうすべきかを父なる神様に祈られました。そして祈りによって示された十字架への道を父なる神様のみこころとして選択する決断をなさったのです。祈りは主のしもべと神様、イエス様とのたいへんに重要な霊的通信手段であると言えましょう。私たちがまずイエス様と呼びかけて、自分が直面している問題について、
私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇143篇8節)
と心からイエス様に祈れば、イエス様は必ずみこころを私たちの霊に示してくださるはずです。このように私たちもイエス様にならって、みこころに基づく決断をしたいと思います。
その三 みことばに基づいてなされる
また信仰に基づく決断は聖書のみことば、すなわち神様のみことば、イエス様のみことばに基づいてなされることが大切です。なぜなら神様、イエス様は聖書のみことばによってみこころを私たちに示してくださるからです。
あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。御名を愛する者たちのために、あなたが決めておられるように、私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。(詩篇119篇129~133節)
この詩篇の作者は、みことばがわきまえのない者に悟りを与えることを知っており、みことばによって自分の歩みを確かなものにしたいと願いました。私たちも決断する前にはまずみことばを祈り求め、みことばによってみこころにかなう正しい判断をすることができるようにしたいと思います。
その四 決断したら持続すること
最後に信仰に基づいていったん決断したら、決断したことを持続することが大切です。詩篇一一九篇の作者は次のように神様に堅く約束しました。
私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。(詩篇119篇112節)
信仰によって示された決断は、主のみこころなのです。「私はあなたのおきてを行なうことに心を傾けます」というところを、「私はあなたのみこころを行なうことに心を傾けます」と読み替えてもよいと思います。心を傾けるということは一瞬だけではありません。持続することです。
いったん神様のみこころが示されて決断したならば、私たちは少々の試練や困難に遭たからといって、勝手に方針を変えたり、中止したりしてはなりません。では行き詰まったときはどうしたらよいのでしょう。そのときはまず信仰に基づいて決断したと思っても、実は自分の思いであったのではないかと自分自身の心を吟味し、もしそうであったことが示されたなら、すぐに悔い改めてから、さらにイエス様に祈り、みこころを問い、ふたたびみことばと御霊に導かれて決断をすればよいのです。
イエス様を信じる者が信仰に基づいて決断をしなければならない理由はどこにあるのでしょうか。それは主のしもべとされた者のこの世における日々の霊的歩みが、常に生きるか死ぬか、祝福かのろいか、言いかえれば神の側か、サタンの側かの選択に立たされているからです。前にも申しましたが、私たちは主のしもべとされた後も、この世にある間はサタンの誘惑に弱い肉の衣を着ていますから、日々の歩みの中でいかに自分が愚かで弱い者であるかということを痛いほど思い知らされます。世界一賢い人ソロモン王も次のように言っています。
人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(箴言20章24節)
ですから、そのような者が主のしもべとして歩むためには、何事も信仰に基づいて決断する必要があるのです。
聖書の中には信仰に基づいて決断された例がたくさん記されていますが、その中から三つの例をご紹介します。まず冒頭の聖書の箇所にあるノアの信仰に基づく決断の例です。
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。(ヘブル人への手紙11章7節)
創世記の六章から八章にかけては有名なノアの箱舟のエピソードが記されています。地上に人間の悪が増大し、その心に計ることがいつも悪いことだけに傾くのをご覧になった神様は、洪水によって地上から堕落した人間を消し去ろうと決心されて、神様に従って神様のみこころにかなう正しい歩みをしていた唯一の人ノアに次のように仰せになりました。
すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。(創世記6章13~14節)
わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。地上のすべてのものは死に絶えなければならない。しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟にはいりなさい。(創世記6章17~18節)
しかしノアが神様の仰せを聞いたとき、彼の住んでいる地上にはまだ何の変わったところはなく、まして洪水の気配などまったくありませんでした。ですから世の中の人々は、平和だ、平和だと言って、飲んだり食べたり、のんきに楽しく暮らしていました。そのようなときに神様は箱舟を造れとノアに命じられたのです。
創世記に記されている箱舟の大きさは、長さが一三二メートル、幅が二二メートル、高さが一三メートルという非常に大きなものです。ノアはこの巨大な箱舟を造るにあたって、なぜこんな大きな舟を苦労して造らなければならないのかと少しも疑わず、信仰に基づいて神様のみこころにただ「恐れかしこんで」従い、決断して造りました。人々はみな彼のしていることを見て嘲笑(ちょうしょう)しました。しかし笑われようと、嘲(あざけ)られようと信仰に基づくノアの決断は変わらず、揺るがなかったのです。その結果、神様のお約束通りにノアと彼の家族だけが大洪水による滅びから救われました。
二つ目の例はアブラハムがわが子イサクを神様にささげた例です。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。(ヘブル人への手紙11章17~19節)
これは創世記二二章に記されているエピソードです。アブラハムも神様を恐れる人であり、神様に愛される人でした。そのアブラハムに神様は「あなたの愛しているひとり子のイサクをいけにえとしてわたしにささげなさい」と仰せになったのです。以前にアブラハムは神様から「イサクの子どもがあなたの子孫と呼ばれる」という約束をいただいていたので、ふつうならば「神様のあのときの約束はいったい何だったのか、愛するたったひとりの子イサクを神様にささげたら、神様の約束が実現するという希望も失せ果ててしまうではないか」と神様を恨むところですが、アブラハムはそうは思いませんでした。彼は「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」というように神様に堅く信頼していたのです。その信仰に基づいてアブラハムはイサクをささげるという大きな決断をし、その決断をまさに実行しようとしたのです。そのとき神様はどうなさったでしょうか。創世記には次のように記されています。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22章10~12節)
アブラハムは信仰に基づく決断をしただけではなく、それをひるがえすことなく実行しようとしました。神様は彼の信仰が堅いかどうかを知ろうと彼を試みられたのです。
三つ目の例はモーセの信仰に基づく決断です。
信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(ヘブル人への手紙11章24~25節)
これは出エジプト記二章に記されているモーセの信仰に基づく決断のエピソードです。イサクの子ヤコブの一族がエジプトに移住してから三百年以上経った当時のエジプトではイスラエルの民の数がおびただしく増え広がり、そのために脅威を感じたエジプトの王パロはイスラエルの民に過酷な労務を課し、また生まれた男子はみなナイル川に投げ込んで殺すように命じました。モーセもとうぜんそのようにして殺されるはずでした。ところが神様のみこころによって彼はパロの娘の子として育てられることになったのです。これについて出エジプト記二章に次のように記されています。
パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです。」と言った。そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。(出エジプト記2章5~10節)
モーセはこのようにして不思議な神様のお導きによってエジプトの王女に子として育てられました。このまま行けば彼はこの世の富と権力を手にすることができたのです。しかしそのようにはなりませんでした。彼は神様によって霊の目を開かれ、イスラエル人として信仰に基づく決断をすることができ、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選択し、その道を歩み続けることになったのです。その結果、モーセは大きな祝福を神様からいただき、神様のみこころを成し遂げる器として大いに用いられたのです。
私たちキリスト者が信仰に基づいて決断をくだそうとイエス様を仰ぐとき、イエス様はそれを喜んでくださり、みこころにかなう正しい決断ができるように助けてくださいます。
わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。(詩篇32篇8節)
しかし、イエス様はなぜ助けてくださるのでしょうか。それは十字架の上で流されたご自分の血によって罪を聖めてくださり、主のしもべとされた私たちを心から愛してくださっているからです。
あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ書30章21節)
このようにイエス様はいつも主のしもべの耳元で助言をしてくださっているのです。主のしもべは絶えず霊の耳をすまして、イエス様のみ声を聞き漏らすことなく、イエス様から知恵と力をいただいて常に信仰に基づく正しい決断をすることができるように心から祈りたいと思います。