みことばは食べるもの(2000年)
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。(ヨハネの黙示録22章14節)
今日は、聖書のこのみことばから、イエス様を信じる者の幸せについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。ここに「自分の着物」とありますが、これは私たちがからだにまとっている衣服ではありません。これは私たちの霊の着物のことです。この霊の着物は、私たちの曇った目にはたとえどんなに清潔に見えようとも、聖い神様からご覧になると、神様に背を向けて自分勝手に生きる罪というしみに染まって真っ黒に汚れているのです。この汚れは私たち人間がどのように努力して洗っても決して白くすることはできません。そして罪に染まった着物を着ているかぎり、私たちは天国の門を通って天の都にはいり、豊かに実をつけているいのちの木から実を食べることはできないのです。
では天の都でいのちの木の実を食べられるにはどうしたらよいのでしょうか。それには自分の着ている、罪がしみついた着物を、イエス様が十字架の上で流された血潮で洗い聖めて白くしていただくほかないのです。そのために私たちがまずしなければならないことは、へりくだって自分の罪を神様の前に悔い改めることであります。そうすれば神様はその悔い改めを受け入れてくださって、御子イエス様の尊い血によって罪に汚れた着物を洗い聖めて、天の都に入れてくださり、いのちの木の実を食べる権利を与えてくださるのです。イエス様を信じるとは、この御子イエス様こそ尊い血潮を流して自分の罪を聖めてくださった救い主と信じ、受け入れることであります。ではこのイエス様を信じる者の幸せとは何かをこれから考えてみたいと思います。
ふつう、私たちが幸せとか、幸福と思うのは、物事が自分の思いどおりに運んでいるとき、自分が満足しているときではないでしょうか。ですから、それと反対の状態、すなわち、自分の思いどおりにならないとき、不満を感じているときにはだれでも幸せとは思わないし、また思うこともできません。けっきょく、この世の幸せ、幸福というのは「自分の肉にとって」という言葉がかならず前に付くのです。この「自分の肉にとって」というのがこの世の幸、不幸を計る基準になるのです。
けれども聖書は、この世の基準、人間の基準では計れない別の幸い、幸福、あるいはふしあわせ、不幸があると言っています。イエス様はこの世の幸せとは別の幸せについて次のようにおっしゃっています。
この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイの福音書5章1~12節)
これは九つの幸福の教えとして有名ですが、イエス様が言われた幸せが、この世の幸せとはまったく違うということが直ぐにわかります。ここで注意したいのはイエス様はこれをだれに向かっておっしゃったかということであります。最初のところを注意して読みますと、イエス様は集まってきた群衆にではなく、弟子たちにおっしゃっていることがわかります。どうしてでしょうか。それはイエス様の言われた幸せは、イエス様を信じた結果、物事の価値基準がまったく変えられた者がはじめて知り得る幸せだからであります。ですからイエス様はこの世の人にではなく、ご自分を信じた者に向かって、神の子ども、神のしもべとされた者の幸せとはどういうものか、イエス様の弟子とされた者の幸せとは何かということを、具体的に九つの幸せという形に表わしておっしゃったのです。
神様はイエス様を信じた者には神の子どもとされる特権をお与えになりました。
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネの福音書1章12~13節)
神様の恵みによってイエス様を信じて神の子どもとされた者は、この世に属する者から、神様に属する者に生まれ変わったといえます。そうであれば価値基準も違ってくるのが当然です。たとえばイエス様を信じているために人々から謗られたり、敬遠された非難されたり、迫害されたりするような事態が起こるとしても、神の子どもとされた者にとっては、それは不幸ではなく幸いなのであります。どうしてでしょうか。ペテロは、
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(ペテロの手紙第一4章14節)
と、そのわけを説明しています。イエス様を信じる者が神の子どもとして、恐れずにイエス様を証しする生き方をしたために世の人々から非難されれば、神の御霊が神の子どもの上に止まって、助け主として守ってくださるのですから幸せなのであります。すなわち神の子どもとされたイエス様を信じる者にとっての幸いとは、自分の肉が喜ぶこと、自分の肉の幸せではなく、信仰によって生まれ変わった霊が喜ぶことであり、試練に会うことにより、ますますイエス様との霊的な交わりが深められることの幸せであります。パウロはイエス様を信じる者の霊的な幸せについて、
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二4章18節)
と言っていますが、イエス様を信じる者は、目に見えるこの世的、肉的な幸せが一時的なもの、空しいものであり、目には見えませんが霊的な幸せこそが永遠に続く、ほんとうの幸せであることをイエス様から教えていただけることを心から感謝したいと思います。
では、この幸せとはどのようなものでしょうか、もう少しくわしく聖書から見ていきたいと思います。
イエス様を信じる者の霊的な幸せは、まず神様に選ばれたという幸せでありましょう。パウロはエペソの信者に送った手紙に、
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1章3~5節)
と書いています。ここでたいへんに大切なことは、神様の選びは私たち人間がりっぱであるとか、善行をしたからということに関係なく、もっぱら神ご自身のご意思によるものであるということです。パウロは神様が選ばれた者がどのような者かということをコリントの教会の信者への手紙に書いています。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。(コリント人への手紙第一1章26~28節)
そのように、愚かな、弱い、取るに足りない、無に等しいような者が、神様の目に止まり、イエス様によって神の子どもの対象に選ばれていたということは、何と言う幸せでありましょうか。
次にイエス様を信じる者の大きな霊的幸せは、神様に義と認められているという幸せです。パウロはローマの信者への手紙で、
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」(ローマ人への手紙4章5~8節)
前に申しましたように私たちは神様を敬い、その神様に仕えるどころか、その逆を行く生き方をしていた者です。しかしそのような者が自分の罪に気がついて悔い改め、イエス様を罪の贖い主と信じれば、神様はその信仰を喜んでくださり、ご自分に対する私たちの不義を赦し、義と認めてくださるのです。自分は何一つ善い行ないができなくても、このようにして神様ご自身が罪を認めないとおっしゃってくださり、罪が完全に赦されているということは、何と幸せなことではないでしょうか。
三つ目にイエス様を信じる者の霊的な幸せには、神様に戒められるという幸せがあります。詩篇の作者は、
主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに、戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。(詩篇94篇12節)
と、神様に戒められる人の幸いを賛美しています。近頃、家庭や学校でさまざまな痛ましい事件が次々に起こっていますが、その大きな原因は、この世の中で愛するがゆえに叱るということが、親子の間でも、教師と生徒の間でも失われつつあるからではないかと思います。しかし、イエス様を信じた者は神様から戒めを受けます。それは神様が子どもとして愛してくださっている証拠です。神を恐れる人であったソロモン王は、彼の書いた箴言の中で、
わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(箴言3章11~12節)
と言っています。また、ヘブル人への手紙にはさらにくわしく、
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル人への手紙12章5~11節)
と説明しています。たしかに神様の鞭はイエス様を信じる者の肉に痛くはありますが、その懲らしめはご自分の聖さにあずからせるため、神の子どもの霊を成長させるための愛ゆえであることがわかれば、懲らしめも幸いと思うことができます。詩篇の作者は、
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119篇71節)
と賛美していますが、これこそイエス様を信じて神の子どもとされた者だけが味わい知ることのできる幸せであります。
四っつ目にイエス様を信じる者の霊的な幸せには、神様、イエス様とともにいることができるという幸せがあります。イザヤ書には神様がどんなときでもイエス様を信じる者とともにいてくださると次のように仰せになっています。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。(イザヤ書41章10節)
御子イエス様の尊いいのちの代価を支払って罪から贖い出し、ご自分の子どもとしてくださった神様が、このように約束しておられるのです。ダビデは「神様がいつもともにいてくださるのを見ているので、喜びに満たされた」と次のように言いました。
私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。(使徒の働き2章25~28節)
イエス様を信じる者は罪のために閉ざされていた霊の目が開かれ、その目でイエス様がともにいてくださり、何が起こっても動揺することのないように守ってくださっているのを知ることができます。ですからその主に拠り頼んでさえいれば、どんなに嵐が吹き荒れても心はいつも平安であり、喜びで満たされるのです。これもまたイエス様を信じる者の幸せであります。
五つ目にイエス様を信じる者の霊的な幸せは、この世の旅路をイエス様に信頼し、おゆだねして、イエス様から力をいただいて天の御国目指して日々歩むことができるという幸せであります。詩篇に、
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。(詩篇84篇5~7節)
という箇所があります。イエス様を信じる者にとって、この世に生きる日々は決して楽しいものではなく、むしろ辛いこと、悲しいことが多いと言えましょう。なぜならこの世がサタンの支配する世界であり、神様に背を向けている世界であって、サタンはそのような世の中に生きるイエス様を信じる者を憎み、いろいろな手段を使って苦しめ、イエス様から引き離そうと試みるからです。しかしイエス様を信じる者の日々の歩みはイエス様が支えてくださいます。ダビデが、
人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩篇37篇23~24節)
と言っているように、イエス様を信じる者がイエス様に信頼していさえすれば、たとえ苦境に陥っても完全に挫折することはありません。たとえ涙の谷を過ぎるときも、イエス様によってその場所を喜びの、希望の泉の湧くところに変えることができます。嘆きの雨の場所もイエス様によって祝福におおわれます。そのようにしてイエス様に信頼し、イエス様から力をいただきながら天国への道を歩み続け、やがて天国で神様の御前に出ることができるのです。このようにイエス様を信じる者は、イエス様に信頼することによってこの世の旅路を希望をもって生きる幸せを与えられています。
これまでごいっしょに考えて来たことからわかりますように、ほんとうの幸せというのは、空しい肉的な幸せとはまったく違う、神様に祝福された霊的な幸せです。冒頭の聖書の箇所には、
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。(ヨハネの黙示録22章14節)
とありましたが、さらに、同じヨハネの黙示録の二十一章三、四節には、
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3~4節)
とあります。そのように、私たちがイエス様を信じる信仰によって、これまで述べて来ましたような数々の幸せに加えて、涙も、死も悲しみも、苦しみもない天の御国において、神様やイエス様からあふれるばかりの祝福を受ける者とされているということは、何という喜びおどるような霊的な幸せではないでしょうか。