みことばは食べるもの(2000年)
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜します見つかりません。そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。(マタイの福音書12章43~45節)
今日は、イエス様を信じたにもかかわらず、心がイエス様から離れたらその人はどういう状態になるのか、またそのようなことが起こるのはどうしてなのだろうかという、信じる者にとって深刻な問題について、これからごいっしょに考えてみたいと思います。
まずイエス様から心が離れると、その人はどのような行動や態度を取るようになるのか、またどんなときに心が離れてしまうのかについて考えてみたいと思います。
一つには、その人はイエス様を信じる前に愛していたこの世を、ふたたび愛するようになってしまいます。イエス様を滅びに至る自分の罪を贖ってくださった救い主と信じたとき、私たちはこの世のものからは決して味わえない霊的な喜びを与えられ、イエス様に心から感謝と賛美をささげたはずです。ところがイエス様から心が離れると、その感謝の思いは薄れ、ふたたびこの世のもの、目に見えるもの、肉的なものに心を奪われ、それを愛するように戻ってしまいます。
パウロは弟子のテモテに宛てた手紙の中で、自分とともに主のしもべとして苦労しつつ福音を宣べ伝えていた弟子デマスが、イエス様から心が離れてこの世を愛してしまいウロのもとから去っていったことを嘆いて、
デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい・・・・(テモテへの手紙第二4章10節)
と書いています。ヨハネがその手紙に、
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。(ヨハネの手紙第一2章15節)
と警告していますが、イエス様から心が離れてふたたびこの世だけを愛するようになってしまった者の心の中からは、もはや神様やイエス様に対する愛は消え去ってしまっているのです。
また、イエス様から心が離れると、ある人はふたたび律法の奴隷になってしまいます。そのような人に対してパウロはガラテヤ人への手紙の中で次のように戒めています。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。(ガラテヤ人への手紙4章9節)
「あの無力、無価値の幼稚な教え」とは、ユダヤ人がモーセをとおしてお示しになった神様の律法のほんとうの意味を解さずに、いろいろな規則を作ってそれを形の上だけでも守りさえすれば、それで義とされるというユダヤ教の誤った教えを指しています。そしてその教えを守ることに縛られて苦しんでいる人のことを律法の奴隷といいます。またユダヤ教だけではなく、善行や慈善などの行ないや人間の作った戒律を守ることによって義と認められようとしているすべての人も律法の奴隷です。イエス様を信じた者はこのような無価値なものの束縛からイエス様の贖いのみわざによって解放されているにもかかわらず、まだ心の中に行ないによって神様、イエス様にではなく、人から義と認められたいという的はずれな思いのかすが残っている人は、イエス様から心が離れると、ふたたびこの律法の奴隷となってしまうのです。
イエス様から心が離れると、とうぜんのことながらその人からは熱心な信仰が失われます。イエス様はヨハネの黙示録の中で次のようにおっしゃっています。
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(ヨハネの黙示録3章15~16節)
はじめに自分の力ではどうしても逃れられない恐ろしい罪を、イエス様がご自分のいのちの代価を払って清算してくださったことを知ったとき、私たちはどんなに喜び、イエス様に感謝したことでしょうか。そしてこれからはどんなことがあっても、このイエス様を愛し、イエス様に付き従って信仰の歩みを続けようと決心したのではないでしょうか。しかし、時が経つにしたがって、その熱い霊的な思いはだんだんと冷えて、イエス様から心が離れ、信仰の歩みもなまぬるいものになってしまう者が多いことをイエス様はこのように警告しておられるのです。
いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(コリント人への手紙第一4章7節)
ユダヤ人は自分たちは神様に選ばれた民族だという強い自負があります。それは彼らが特別に優れた民族、強い民族であったからではありません。申命記に、
主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。(申命記7章7~8節)
と記されているように、神様の選びというのは、ユダヤ人の側に選ばれるだけの何の理由もなく、ただ一方的な神様のご意思によるものなのです。同じようにイエス様を信じた者にも心ひそかに自分は他の人とは違い神様に選ばれた者だという優越感を抱く場合があります。しかし、パウロが言っているとおり、私たちには神様の前に何の誇るべきものも持ってはいないのです。私たちは自分が優れているから、立派だから、救われたのではないのにもかかわらず、イエス様の愛とあわれみを忘れて、あたかも自分が救いの対象に選ばれるだけの素質があるから信仰を持つことができたのだという高ぶった思いを持つ恐れがあります。このような高慢な思いが主イエス様から心が離れる原因となります。
また、イエス様を信じても、自分が思っていたようなご利益が得られないことに失望すると、イエス様から心が離れてしまいます。イエス様はご自分のいのちに代えて罪から救い出してくださった者に、ご自分の永遠のいのちを与えてくださり、また天国に住む住まいを用意してくださいます。これこそ人間がどんなに努力しても絶対に手に入れることができないすばらしい恩恵ではないでしょうか。パウロはコロサイ人への手紙の中でコロサイの教会の信者に、
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ人への手紙3章1~2節)
と書いているのは、イエス様を信じることによって、イエス様とともに十字架の上で死に、イエス様のよみがえりとともに生まれ変わった者は、すでに神様に属するものとされたのだから、肉に属する地上のものに心を奪われずに天にある宝にだけ心を向けなさいという戒めであります。しかし、もしイエス様の与えてくださる霊的な恵みのすばらしさがわからず、イエス様を求める心の中に、この世のご利益を求めたいという肉の願望が少しでも残っていれば、その人は期待していたご利益がないと失望してイエス様から心が離れるのです。
また、この世の富を得ることもイエス様から心が離れる原因になります。申命記には神様を信じて従う者に対して、
あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(申命記8章12~14節)
という警告が与えられています。また、イエス様は信じる私たちに、
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイの福音書6章19~21節)
とおっゃっています。「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」というイエス様のみことばは、まったくそのとおりです。イエス様が私たちのために朽ちない宝を天に備えてくださっているにもかかわらず、肉の目に見えるこの世の富に心がうばわれるとき、私たちの心はイエス様から離れるのです。
さらに、信じた者でもいつもイエス様に心から信頼し、おゆだねしていないと、試練や迫害に会えばすぐにイエス様から心が離れます。イエス様は種蒔きのたとえで私たちに注意してくださっています。
岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイの福音書13章20~21節)
イエス様はここで、もし私たちの心がかたくなで岩地のように自我が強ければ、主のみことばを受け入れてもイエス様にしっかり根づくことができないために、信仰がゆすぶられるような試練が起これば、すぐにご自分から心が離れてしまうことをこのたとえで私たちに教えてくださっているのです。
ではイエス様から心が離れた人はどのような結末を迎えるのでしょうか。イエス様はご自分から離れた者の結末について、次のようなたとえで説明しておられます。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネの福音書15章5~6節)
私たちの信仰はイエス様にしっかりと繋(つな)がっているときにのみ、実を結ぶことができます。しかし、イエス様から心が離れていれば、実を結ぶどころか、信仰は枯れ果てて燃えてしまい、その結果イエス様からいただいた愛も、希望も、平安も消え失せてしまいます。ここで冒頭のみことばをもう一度見てみましょう。
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、「出て来た自分の家に帰ろう。」と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。(マタイの福音書12章43~45節)
イエス様を信じた者の霊は、イエス様の血によってきれいに洗い聖められ、イエス様によって満たされています。ところがイエス様から心が離れると、そこは空き家になります。するとイエス様に追い出された悪霊、すなわちサタンの手下どもが、またきれいになったその空き家に喜んで入り込んで来て住み着いてしまいます。そうなると、その人の霊の状態はイエス様を信じる前よりもさらに悪くなり、サタンの手下どもに翻弄(ほんろう)されて、以前にも増して争い、怒り、憎しみ、苦しみ、悲しみ、不安、恐れなどでいっぱいになってしまい、サタンを喜ばせるだけの日々を送るようになってしまうとイエス様はおっしゃっているのです。
ではイエス様から心が離れてみじめな状態になった者をイエス様は見放されるのでしょうか。イエス様はそのような者をすぐには見放されません。むしろあわれんで「悔い改めてわたしに帰れ」と呼びかけてくださいます。
あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(ヨハネの黙示録2章4~5節)
「初めの愛」「初めの行ない」とは、イエス様を信じた当初のイエス様に対する愛であり、愛するイエス様に仕え従うという信仰に基づく行ないのことです。そしてイエス様はイエス様に対する愛から心が離れてしまった者にも、なお愛をもって、「あなたはどこから落ちたのか思い出して悔い改めなさい」と熱心に呼びかけてくださっているのです。しかし同時にイエス様はその呼びかけにも耳をかさず、いつまでもかたくなに悔い改めをしない者に対しては、イエス様がはじめに灯してくださったまことの光である、イエス様を灯す燭台を取り外すと警告しておられるのです。
私たちはイエス様のこの警告を謙虚に受け止めなければなりません。そして、すなおに自分の心の中を吟味したとき、この世を愛するようになっている自分に気がついたら、あるいは偶像や律法に仕えるようになっている自分に気がついたら、また霊的になまぬるい状態になっている自分に気づいたら、それはイエス様から心が離れている徴候であることを認めて、少しでも早く心からの悔い改めをもって、イエス様のもとに立ち返ろうではありませんか。そうすればイエス様は放蕩息子の父のように、喜んで私たちをふたたび迎え入れてくださいます。最後に、放蕩息子のたとえの中から一か所お読みして終わります。
立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。(ルカの福音書15章18~20節)