みことばは食べるもの(2000年)

七 主との交わり

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(コリント人への手紙第一1章9節)


今日はこの聖書の箇所から、主との交わりということについてごいっしょに考えてみたいと思います。


主とは


私たち日本人にとって、主という言葉は馴染み(なじ)がなく、一般には「しゅ」とは読まずに「ぬし」とか「あるじ」と言います。そして主は主人あるいは主君という言葉で表現されるように、中心になる人、家長や支配する人などを意味しています。けれども聖書で主とお呼びする対象は人間ではなく、私たちを含めて天地万物をお造りになった神様と神の御子イエス・キリストであります。すなわち聖書では、神様や御子イエス様と私たち人間は主従の人格的信頼関係にあり、神様、御子イエス様は主人がしもべに接するように私たちを愛し、養い、守り、また私たち人間はしもべが主人に接するように、神様、イエス様に仕え、従うという関係なので、神様と御子イエス様だけを主とお呼びするのです。したがって霊の目が罪のために閉ざされているときは、神様が自分にとってどのような方かわかりませんから主とお呼びできないのはとうぜんであり、神様のあわれみによって神様に目を留めていただき、イエス様を救い主と信じる信仰を与えられて霊の目が開かれたときに、はじめて神様、イエス様を主とお呼びできるのです。


しかしイエス様を信じた者も、このことをはっきり意識しないで、習慣的に「主よ、主よ」と言っていることがあるのではないでしょうか。もしそうであれば問題です。イエス様はそれをたしなめて次のようにおっしゃっています。


わたしに向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイの福音書7章21節)


イエス様はここでご自分を口先だけでなく心から主と信頼して、神様のみこころに従う者だけが天国にはいることができると言っておられるのです。


主のしもべに必要なこと


冒頭の聖書の箇所にありましたように、恵みによって神様に目を留めていただき、召し出されて主のしもべとされた者は、それからは主との交わりに入れられて人生の歩みを歩むことになります。人生は主のしもべとされた者にとって必ずしも穏やかな日々ではありません。嵐の吹き荒れる日も多いのではないでしょうか。そのような苦難の日には主のしもべは何に頼るべきでしょうか。神様と御子イエス様を主と信じる前には自分の力や、人の知恵や、偶像の神に頼ったでしょうが、主のしもべとされた今は、そのようなものは何の頼りにもならず、主と交わり、主に頼ることこそが人生の嵐を乗り越える唯一のたしかな方法だということがよくわかるのです。


主との交わりの大切さは、潜水夫と彼に空気を送る人の関係にたとえることができます。イエス様を信じた者がこの世に置かれているのはなぜでしょうか。それは主のしもべとして働くためではないでしょうか。そしてそのためには主としっかり結ばれていることがぜひとも必要です。海底で働く潜水夫は、海上の船とホースで繋がれています。潜水夫が十分に働けるためには、このホースを通して新鮮な空気が送り込まれる必要がありますが、主と主のしもべとの関係もこれとまったく同じです。主の潜水夫は、自分の楽しみのために潜ったり、自分の宝を探すために潜ったりするのではありません。主の潜水夫は主にとって大切な宝である、失われたたましいを探して主のところに導く作業をするために、暗い海底、闇の世界で働くのです。しかし、主の潜水夫が十分に働くことができるには、主との間を繋(つな)いでいる太いホースから絶えず御霊という新鮮な空気を豊かに送り込んでいただかなければなりません。もし主とのしっかりした交わりがなくなれば、空気を絶たれた潜水夫のように、御霊を絶たれた主の潜水夫の霊はたちまち死んでしまいます。


そのようなわけで、主のしもべにとってたいへんに大切な主との交わりについて、さらに考えたいと思います。


主との交わりの基礎は人として来られたイエス・キリスト


まず最初に、人間が主と交わるためにどうしても必要なものは何かを考えてみたいと思います。それは天におられる聖い神様と地上に生きる罪に汚れた人間とを結ぶパイプではないでしょうか。そしてイエス様はまさにこのパイプになるために、神であられながら人としてこの世に生まれてくださったのです。パウロはこれについて、


神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(テモテへの手紙第一2章5節)


と言っています。またヘブル人への手紙にもパイプとしてのイエス様の役割について、


キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7章24~25節)


と書いてあります。イエス様は人間の罪を十字架の死によって贖うためだけにこの世においでになったのではありません。贖いのみわざを終えられて天に戻られた後も引き続いて主なる神様と人間の間の唯一のパイプ役、唯一の仲介者として、いつもとりなしをしてくださり、祈ってくださっているのであります。


主との交わりは御霊を介してなされる


私たちは主との交わりになくてはならないパイプがイエス様であることがわかりました。ではパイプ役であるイエス様は、実際には何によって父なる神様と人間との間の意思疎通ができるようにしてくださるのでしょうか。それは御霊によってであります。パウロがコリントの教会の信者に宛てた手紙の中で、


私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(コリント人への手紙第一2章12~14節)


と言っているとおり、主のしもべが主のみこころを正しくわきまえ知り、それに従うためには、人間の知恵によってではなく、信じる者に恵みとして神様から与えられた神の御霊に教えられ、導かれることがどうしても必要なのです。


主との交わりによって与えられる恵み


では主との交わりによって主のしもべに与えられる恵みは何でしょうか。たくさんあると思いますが、その一つは主なる神様、主なるイエス様からの励ましであります。主は主のしもべに次のように約束しておられます。


あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。(イザヤ書43章2~3節)


主のみことばによる約束は、御霊を介して苦難の中にある主のしもべに大きな励ましを与えます。


また主から平安と勇気が与えられます。イエス様は、


わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)


と約束してくださいました。イエス様を信じた者に与えられる平安とは、勇気とは何でしょうか。それは人間が手にすることができるような、目に見える一時的な平安ではなく、また自分の意思の力で奮い起こす勇気ではなく、このように語りかけてくださるイエス様のみことばの確かさを確信することから生まれる、イエス様への全き信頼による霊的な平安と勇気であります。


主との交わりを妨げるもの


しかし、主と主のしもべとの交わりを妨げようとする力は絶えず働いています。この妨げの力、妨げの原因は何でしょうか。


まず妨げの大きな原因は主のしもべが着ている肉の衣であります。イエス様を信じる信仰によって主のしもべとされた者は、古い人は死んで新しく生まれ変わります。しかし霊は信じた瞬間に生まれ変わりますが、肉が生まれ変わるのは復活して天に帰られたイエス様が主のしもべを迎えにふたたびおいでになるときであります。したがって天に召されるまでは霊は罪を犯しやすい肉の衣を着て地上に生きなければなりません。そしてこの肉が欲望を起こして人と争ったり、うらやんだり、憎んだり、ねたんだりするのです。ヤコブの手紙には主のしもべの争いについて次のように書かれています。


何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。(ヤコブの手紙4章1~2節)


そして、その欲望に弱い肉を誘惑するのがサタンです。サタンは主のしもべを主との交りから引き離すことだけを唯一の楽しみにしています。何とかしてふたたび自分の配下に入れようとあらゆる策略をもって誘惑してきます。主のしもべはそのサタンの誘惑を察知して、サタンにつけ入るすきを与えないようにしなければなりません。けれどもサタンは人間よりはるかに強く、悪賢いので、主にしっかりと結びついていないかぎり、とても自分の力でこの誘惑を察知して防ぐことはできません。ペテロの手紙第一には、


身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(ペテロの手紙第一5章8~9節)


と書かれています。「目をさませ」の目は、霊の目のことであり、私たちの脳は酸素が欠乏すると眠くなりますが、それと同じように霊も御霊が欠乏すると眠ってしまいます。「堅く信仰に立つ」とは主と堅く結びつくことであり、主から御霊を十分にいただくことであります。ですから主に堅く結びついて御霊によって霊の目をはっきり開いてさえいれば、サタンを恐れることはないのです。


主との交わりが失われたときに現われる霊的徴候


イエス様との結びつきがなくなると主のしもべの霊はとたんに衰えて眠くなることは、今申したとおりです。では主のしもべの霊が衰えて眠くなると実際にはどういうことが起こるのでしょうか。


まず霊とまことをもって礼拝することができなくなります。よく聖日礼拝にきちんと出席するか、しないかが信仰の尺度にされますが、イエス様が、


神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネの福音書4章24節)


とおっしゃっているとおり、ただ形式的義務的に礼拝に出席しても意味はありません。私たちの心の中をご覧になる主は、そのような礼拝を喜ばれません。


また霊が衰えると、とうぜんながら主に祈れなくなります。祈りは主の霊と主のしもべの霊との間でなされる霊的交流です。先ほど潜水夫のたとえをお話ししましたが、主の潜水夫がこの世の闇の海底でいろいろな問題に遭遇したときに、それを祈りとして「主よ、どうしたらよいでしょうか」と主のみこころを聞き、主から答えをいただきながら問題を解決していく、この作業が主との祈りをとおしての霊的な交流です。ところが主のしもべの霊が衰えると、そのような祈りができなくなります。祈るには祈りますが、霊が眠っている状態での祈りですから、まったく形式的な祈りになってしまいます。そのような祈りには主はお答えになりようがないのです。


さらにまた霊的衰弱の徴候として正しい霊的判断ができなくなります。主のしもべには主のみこころを知り、それに従うことが求められています。主のみこころは主から日々みことばによって、また祈りによって与えられます。イザヤ書に、


あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。(イザヤ書30章21節)


とありますが、このように主の仰せを正しく聞き取って、示された道を選択することができるためには、霊の耳がはっきり開かれていなければなりません。主は絶えず主のしもべの霊の耳元で「これが道だ。これに歩め」と語ってくださるのですけれども、主との交わりが失われると、霊の耳が閉ざされて主の声が聞こえなくなり、肉的な判断しかできなくなります。そうなれば光か闇かの区別もつかなくなり、どんどん誤った方向に迷い込んでしまうのです。


霊的衰えに気づいたら


では自分にこのような霊的な徴候があることに気づいたら、そのときどうしたらよいのでしょうか。なすべきことはただちに主に心から悔い改めて、主のもとに立ち返ることです。イエス様は主なる神様と人間との関係を父親と放蕩息子のたとえでお話しになっていますが、放蕩息子は放蕩ざんまいをして父を悲しませていたことに気がついたとき、心から悔い改めて次のように決心しました。


立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。(ルカの福音書15章18~20節)


ここで私たちはこの中に大切なことが含まれていることに注意したいと思います。それは心からの悔い改めは、口先だけのものではなく、この放蕩息子のように自分の霊の足で立ち上がってイエス様のもとに立ち返るという行動が伴わなければならないということです。ほんとうの悔い改めには行動が伴うはずであります。このようにして主に立ち返れば主はよく帰ってきたと喜んでその悔い改めを受入れてくださり、ふたたびご自分との交わりを回復してくださいます。しかしそれがどうしてわかるのでしょうか。それは霊に喜びと平安が戻ってくることでわかります。これは体験なさった方ならどなたでもよくご存じでしょう。そしてそのとき、私たちの祈りは感謝と賛美の祈りに変えられるのです。


主との交わりのゴール


これまで述べましたように、主のしもべと主との交わりは、主から心が離れては、それに気づいて悔い改めて主に立ち返るというくり返しです。しかしただくり返すだけではなく、その間に次第に主のしもべの霊は御霊によって成長させられ、聖められて行き、ついに主とお会いできるときを迎えるのです。主のしもべが潜水夫としてこの世の海底に置かれて働く意味はここにあるのだと思います。主のしもべはいつまでも海底で働くのではありません。御霊を送り続けてくださった主と、やがてかならず海上で、すなわち天国で、潜水服を脱いで顔と顔を合わせてお会いできるのです。パウロはそのときの状況を次のように言い表しています。


今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(コリント人への手紙第一13章12節)


そのときには、主と主のしもべとの間には、もはや交わりを妨げるものは何一つありません。主のしもべは主と一つになって喜び楽しむことができます。主との交わりのゴールがそれであります。


主のしもべとされた者は、自分を愛してくださり守ってくださり、天国にまで迎え入れてくださる主と顔と顔を合わせてお会いできるという、すばらしい希望が実現する日がまもなく来ることを確信して、その日を待ち望みながら、この世という海底の旅路を、御霊をとおしての主との交わりをいよいよ強めながら歩み続けて行きたいと切に思います。




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