みことばは食べるもの(2000年)
そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」(ヨハネの福音書18章37~38節)
今日は真理とは何かという、少々堅い、しかしながらたいへん重要な問題について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
ここに名前が出てくるピラトはローマ帝国の総督です。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ピラトはその総督としてエルサレムに赴任していました。そしてイエス様が捕らえられてピラトの前に引き出されたとき、イエス様とピラトの間に取り交わされた問答の一部が聖書のこの箇所です。
イエス様はピラトの質問に対して、ご自分がこの世においでになった目的を説明なさいましたが、ピラトにはさっぱり理解できませんでした。「わたしは真理のあかしをするために来た。真理に属する者はみな、わたしに聞き従う」とイエス様がおっしゃった意味が何のことか、彼にはまったくわからなかったのです。
多くの人はその人生において、一度はいったい真理とは何だろう、ほんとうのことは、いったい何なのだろうと考えることがあるのではないでしょうか。真理という言葉は一般に哲学、あるいは自然科学で使われることが多いようですが、哲学では「真理とは、ある現象に覆い隠されている、その背後にある物事の本質、永遠に変わらない正しい道理をいう」のだそうです。そして人間は昔からその隠された本質とは何か、永遠に変わらない道理とは何かということを、いっしょうけんめいに考えて来ました。哲学者にとってはそれが仕事であると言えましょう。では真理が哲学者の知恵でわかったでしょうか。その結果は、求めれば求めるほどわからないという空しさではなかったのではないでしょうか。そのために、ある有名な哲学者は絶望して死にました。
けっきょく、人間が考え出す観念的な真理は、つかまえようがなく、これこそ真理だという確かな手応えを得ることはできないのです。ですから人間は人それぞれに考え出したものを、これが真理だと主張するので真理がいくつも出てくるのです。しかし、真理というものは本質的には一つしかないはずです。いくつも真理があるということは、それらが真理ではないということの証明ではないでしょうか。
しかし、イエス様がおっしゃった真理とはそのような観念的な真理ではありません。イエス様がおっしゃっている真理は、唯一の真理であり、絶対的な真理であり、もし人が心から望めば手にすることができ、それによってほんとうの幸せを得ることができるという真理なのです。そして神の御子イエス様は、まさにその真理を証しするために、そしてその真理を自ら成就されるために、人としてこの世界においでになったのです。しかし、ローマ総督のピラトには、その意味がわかりませんでした。ですからピラトはイエス様に「あなたの言う真理とは何ですか」と尋ねることしかできなかったのです。
では、これからピラトにはわからなかった、イエス様がおっしゃる真理について、ごいっしょに聖書からさらにくわしくみていきたいと思います。
まず第一に、イエス様がおっしゃった真理とは神様のことばであります。イエス様は最後の晩餐のとき、父なる神様に祈られた祈りの中で、
あなたのみことばは真理です。(ヨハネの福音書17章17節)
とおっしゃっています。御子イエス様の父なる神様は、天地万物をお造りになり、それらを支配しておられる主権者の神であり、聖そのもの、義そのものの生ける神です。ですから、この神様のおっしゃるみことばは、永遠に正しく完全であり、まさに真理なのです。では私たちはどのようにして神様のみことばを知ることができるのでしょうか。それは聖書によってであります。多くの著者たちによって何世紀にもわたって書かれ、編集された旧約三十九巻、新約二十七巻からなる聖書は、著者も時代も異なるにもかかわらず、最初の創世記一章一節から最後のヨハネの黙示録二十二章二十一節までが、一貫した神のみこころを示しているのです。それは私たち人間に対する遠大なる救いのご計画と成就についての神様のみこころであります。神様はこのみこころを私たちにお示しになるために多くの著者の心に働かれ、彼らの手を用いて聖書を著されたのです。したがって、聖書はすべて神のみことばであります。詩篇の一一九篇は、その神のみことばが真理であると賛美している詩であります。
あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、なんと真実なことでしょう。(詩篇119篇138節)
みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。(詩篇119篇160節)
みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119篇130節)
これらの賛美の詩からもわかるように、人間は聖書に示されている真理のみことばから、何が正しいか正しくないか、何が善か悪か、何が義か不義かということを正しく判断することができるのです。
昔から倫理学という学問があります。倫理とは何が正しいか、何が正しくないかをわきまえ知ることです。しかし、何が正しいか、正しくないかということをどうして判断するのでしょうか。倫理学ではその判断は倫理学者がします。しかしその判断は学者によって異なるので、ある一つの物事が正しかったり、正しくなかったりというような矛盾が起るのです。医学の分野でも、研究や治療を行なう上で、何はしてもよいか、何はしてはならないかという問題がたくさんあります。たとえば、安楽死、臓器移植、人体実験、遺伝子組み替えなどもそうです。そしてこれらの問題を考え、判断するのが医の倫理あるいは生命倫理の役目です。しかし、人間の知恵によって考えられた基準によって判断するかぎり、絶対に正しいといえる判断はできません。というのは、時代が変わるとともに社会の価値観も変わるからです。
ですから、私たちは人間に与えられている、永遠に変わらない真理である神のみことばを絶対的な基準として、物ごとの善悪、正不正を判断していかなければならないのです。
二番目には、イエス様の言われた真理とはイエス様ご自身であるということです。イエス様が地上を去られるときが迫った日、弟子たちに対して「わたしはあなたがたのために住まいを備えに天国に行って、また迎えに戻って来ます。わたしの行く道はあなた方も知っています」とおっしゃいました。しかし彼らはイエス様のおっしゃった意味がわかりません。弟子のひとりトマスは、
主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。(ヨハネの福音書14章5節)
とイエス様に聞き返しました。それに対してイエス様がおっしゃったのが、
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければだれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)
という、たいへん有名なみことばであります。
「わたしが真理です」とイエス様はずばりとおっしゃいました。そのお言葉にはだれも異論をさしはさむことができない威厳があります。はじめに真理は神のことばだと申しましたけれども、ヨハネの福音書に、
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネの福音書1章1節)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書1章14節)
と記されているように、神様のことばが人となって私たちのところへ来てくださった方こそイエス・キリストであり、その真理そのものの方が、神様のお考えとは何か、神様に至る道とは何か、まことのいのちとは何かを自らお示しになるために、この世においでになったのです。
ではイエス様が真理であることが私たちにはどうしてわかるのでしょうか。それは人間の理解をはるかに超えたことですから、私たちの頭ではとうてい知ることはできず、ただ御霊の助けによってのみ知ることができるのです。イエス様は捕らえられる前に、自分は天に戻るけれども、代わりに神様は真理の御霊をあなたがたに遣わすと次のようにおっしゃいました。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネの福音書15章26節)
真理の御霊とは、人となってこの世に来られた、私たちの目に見える真理であるイエス様に対して、目に見えない真理であるイエス様の霊であるということができます。イエス様は地上におられた間は、直接私たちに神様の真理のみことばを語ってくださいましたが、贖いのみわざを成就されて天に戻られた後は、今度は真理の御霊として来てくださり、私たちの霊の目を開いてご自分が神様の真理のことばそのものであることを啓示してくださったのです。パウロはこれについて次のように言っています。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。(コリント人への手紙第一2章9~10節)
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないもの」とは神様のことばであり、それは人類に対する十字架による罪の贖いのご計画であり、またそのご計画を成就するためにこの世に来られた神の御子イエス様であります。しかし、この真理は決して人間の知恵で知ることはできません。パウロは、
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(コリント人への手紙第一1章18~21節)
と言っており、さらに、神様が人間の知恵で神様のこの真理を知ることがないようにされたのは、
神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙第一1章29節)
とその理由を説明しています。私たち人間はだれでも、大きなこと、小さなことに関わりなく、自分が考えて何かがわかったとき、あるいは自分の努力で何かを成し遂げたとき、口には出さなくても、内心自分の知恵や、力や、行ないを誇るのではないでしょうか。ですからもし人間が自分の知恵で神様の真理を知ることができたら、それこそ自分を神様と同じレベルに置いて、自分の知恵で神を知ったと誇るに違いありません。これこそ聖書でいうところの罪であります。神様はそのような高慢な者には決してご自分の真理をお示しにはならないのです。神様の真理は人間が自分の知恵で手に入れられるものではなく、ヘりくだる者に恵みとして与えられるものなのであります。イエス様はこのことを次のようなたいへんわかりやすいたとえで私たちに教えてくださっています。
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書18章9~14節)
神様はパリサイ人のように自分を高くする者、自分を義人として誇る者にではなく、取税人のように心砕かれて自分を罪に汚れた者として神様の前にあわれみを請う者に、恵みとして真理であるイエス様のいのちをお与えになり、義と認めてくださるのです。
ヨハネの福音書の中でイエス様は、
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネの福音書8章32節)
もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネの福音書8章36節)
とおっしゃっています。これまでごいっしょに考えて来ましたことから、私たちは真理とは神様のことばであり、神の御子イエス・キリストであることを知ることができました。そのイエス様が「もしわたしがあなたがたに自由をあたえるなら、あなたがたはほんとうに自由になる」と約束しておられるのです。
よく社会的自由とか、政治的自由と言います。それは社会的に、あるいは政治的に、何の束縛も受けないで生きること、活動することを意味します。そのような自由はみな肉体的な自由、あるいは精神的な自由であり、また一時的に自由になっても状況や環境が変わればたちまち失われてしまうような自由です。しかし、ほんとうの自由はそのような不確かなものではなく、どんな状況の中にあっても変わることのない、いつまでも続く自由であります。そしてその自由は肉体的な自由でも精神的な自由でもなく、神様がくださるたましいの自由、霊的な自由なのです。では霊的な自由とは何からの自由なのでしょうか。それは罪の束縛からの自由、罪の奴隷からの解放であります。これについてパウロは次のように言っています。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。(ローマ人への手紙6章6~7節)
罪とは私たちを愛してくださっている天地万物の造り主である神様に従わずに、常に自分を中心として生きることであり、これは神様の仰せに背いて、自分の欲を満たしたアダムの血を受け継いだ私たち人間すべてに生まれつき染みついた性質です。ですから人間は自分の力でこの罪の性質を直すことができません。罪の束縛からの脱出は自分でどんなに努力してもできないのです。この罪からの解放はパウロが言っているように、イエス様を救い主と信じる信仰によって、罪のからだがイエス様の十字架とともに死に、イエス様のよみがえりのいのちをいただいて新しく生まれ変わることによって、はじめて達成されるのです。このように、罪からの自由は真理が人となられたイエス様だけが与えてくださる恵みの賜物なのであります。
四世紀に、アウグスチヌスという信仰の厚い人がいました。彼は「人を幸福ならしめるのは、真理の探求ではなくして、真理の所有である」という有名な言葉を残しました。前にも申しましたように、昔から人間は幸福になるためには真理を探り求めなければならないと考えて、自分の頭でいっしょうけんめいに真理を探求して来ました。しかし、それは無駄な努力であって、空しさが残るだけでした。そうではなく幸福になるためには真理を所有することであるということを、アウグスチヌスは自らの信仰によって確信することができたのです。真理を所有することとは、もうおわかりのようにイエス様を信じてまことのいのちを持つことであります。そのためにイエス様が私たちの住む世界に来てくださり、真理の証しとして尊いご自分のいのちを私たちに与えてくださったのです。私たちは改めてイエス様に心から感謝したいと思います。