みことばは食べるもの(2000年)
主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。(申命記33章12節)
おはようございます。阪神大震災のたいへんな試練をくぐり抜けられた主にある兄弟姉妹がたの平安なお顔を拝見できて心から嬉しく思っております。今日は、この聖書の箇所から永遠の安全保障というテーマについてごいっしょに考えてみたいと思います。
安全が守られる、保障されるということは、人間だれでもいちばん望むことではないでしょうか。ですから個人のレベルだけでなく、企業も、地域も、国家も、世界も、安全の保障については知恵をしぼって、どうしたら確実な安全を確保できるかを考えています。というのは安全の保障は私たち人間の生存にかかわるたいへん重要な問題であるからです。
けれどもどんなに知恵をしぼっても、いかに科学の力に頼っても、あるいはどんなに人間が互いに助け合っても、悲しいことにそのような確かな安全は保障され得ないばかりか、一瞬先の安全もおぼつかないということを、三か月前の阪神大震災を通して私たちは身にしみて感じたのです。
しかし、イエス様はすでにとうの昔から人間の力に頼っても何の安全の保障もないことを、たとえによって私たちに教えてくださっています。
ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」そして言った。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカの福音書12章16~20節)
私たちもこの金持ちと同じように、いくら自分で考えて万全と思える備えをしても、それは役に立たないのです。ではあきらめるほかないのでしょうか。いや、あきらめることはありません。それは私たちに永遠の、絶対的な安全を与えると保障してくださる方があるからです。その方は神様であります。
永遠の絶対的な安全保障を確実に与えてくださることができる方は、唯一まことの神様だけなのです。この神様は人間が頭で考え出した観念的な神、偶像の神ではありません。そのような神は案山子のようなもので何もできません。唯一まことの神様はそのような私たちが造った神ではなく、反対に私たちを造ってくださった創造主にして全知全能の神、主権者であられる生ける神です。この神様が私たちに「永遠の安全を保障しよう」とおっしゃっているのです。何というありがたい感謝なお約束ではありませんか。
ではどうしたら私たちはその約束をいただけるのでしょうか。これからそのことをごいっしょに考えてみたいと思います。
神様から安全を保障していただくためには一つ大切な条件があります。それは神様と自分との関係を正しく回復するということです。しかし神様と人間との正しい関係とは何でしょうか。やさしく言えば、それは親と子のような関係、もう少しくわしく言えば親と子の間に見られる人格的な信頼関係と言ってよいと思います。父と子のような関係が神様と自分との間にあること、これが神様と自分との正しい関係です。神様が人間を造ってくださったときは、神様と人間はまさにその関係にあったのです。けれども悲しいことにアダムをはじめとして、その子孫であるすべての人間は、子として愛してくださる神様に背いて神様から離れてしまいました。親から背き離れた子どもは何をするでしょうか。ろくなことはしません。自分の欲だけを追い求めるわがまま勝手な生き方をして親を悲しませる放蕩息子のような子どもになってしまうのです。私たちもそれと同様に神様に対して放蕩息子のように生きて来ました。人類の歴史を見ればそれがよくわかります。人間の間には争いが絶えません。殺し合い、憎しみ合いの連続です。その原因はすべて神様から背き離れた結果であります。神様との正しい関係を失った人間の姿こそが人類の歴史であり、また私たち一人ひとりの人生であります。
このように神様から背き離れた人間は、生きてはいても死んでいるようなものなのです。パウロは次のように言っています。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2章1~3節)
ここに「罪の中に死んでいる」とありますが、それはどういうことなのでしょうか。私たちが生きているとか死んでいると言うとき、それは肉体の生死を言っているのここで「死んでいる」と言っているのは肉体の死ではなく霊の死のことなのです。
では霊的な死とはどういうことなのでしょうか。神様は人間をお造りになったときに、まず土地のちり、すなわち有機物、無機物からなる物質で肉体をお造りになり、その後でそのからだの中にいのちの息、すなわち霊を吹き込まれました。この霊は神様との交わりにぜひとも必要なものであり、霊が生き生きと働くときに、人間ははじめて神様のみこころを知ることができます。このように神様のみこころに従って生きることこそ神様が造られた人間本来の生き方であり、人間が人間として生きるというのは、そのように生きることなのであります。ところが神様に罪を犯すと、霊はその働きを失ってしまい、そのため神様のみこころがわからなくなり、盲人のように手探りで歩むようになります。このような状態の人間を死んでいると言うのです。
しかし、神様は霊が死んで肉の欲のおもむくままにわがまま勝手に歩んでいる放蕩息子のような私たちを、なおあわれみをもって愛してくださり、ご自分のもとに立ち返るように祈ってくださっているのです。そして放蕩息子が自分がわがまま勝手に生きたことに気づいて、父親のもとに許しを求めて立ち返るのと同じように、私たちが神様に自分の罪を悔い改めるときに、神様はその罪を御子イエス様に身代わりに負わせることによって赦してくださり、イエス様を信じる信仰によって義と認めてくださり、私たちの間の父と子の関係を修復してくださるのです。
ここまで述べましたように、もし私たちが一時的ではなく永遠の安全の保障を心から願うのなら、それは神様から保障していただくほかなく、そのためには、まず第一にイエス様によって神様との関係を正しく修復すること、イエス様によって義とされることがどうしても必要なのです。
それでは次に、神様はどんなみことばによってイエス様に義とされた者に安全保障を約束してくださるのでしょうか。その一例としてイザヤ書には次のように書かれています。
あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしがあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」(イザヤ書43章1~3節)
神様との正しい関係を回復した者に、神様は私たちが自分の子どもを名前で呼ぶように、「わたしはあなたの名を呼んだ」と仰せになり、たとい火の中、水の中を通るような苦難に会っても「わたしはあなたとともにいるからあなたは安全です。だから安心しなさい」と約束してくださっているのです。このように神様の約束のみことばによって、神様に義とされた私たちは心から安全を保障されているという確信を持つのです。
また神様の安全保障は、十字架のみわざによって贖い出してくださったイエス様のみことばによっても約束されています。イエス様は次のように約束しておられます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネの福音書10章28節)
イエス様はご自分のいのちに代えて罪から救い出した者に永遠のいのちを与え、さらにこのいのちはだれも奪うことはできないと約束してくださいました。永遠のいのちとは永遠に死ぬことのないいのちです。私たちは医学がいくら進歩しても、人間の力では決して永遠のいのちを手にすることができないのを知っています。しかしイエス様は人となられた神ですから、人間ではとうてい勝利することができない死にも打ち勝って、そのよみがえりのいのちをご自分を主と信じる者に与えてくださり、信じた者をだれにも奪われないように守るとはっきり保障してくださっているのです。
またイエス様はご自分を信じる者に、この世が与えるのとは違う平安を与えるとも約束しておられます。
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)
この世が与える平安とは一時的なものであり、いつなくなるかわからないようなほんとうに頼りない平安です。そのようなこの世の平安には何の保障もありません。しかしイエス様が信じる者に与えてくださる平安はそういう空しい平安ではありません。イエス様がおっしゃったぶどうの木と枝のたとえのように、ぶどうの木であるイエス様に信頼し、イエス様から離れないでいるかぎり、イエス様からご自身の平安が枝である私たちの中に注ぎ込まれます。ですから、たといどのようなことが起こったとしても、それによって失われるような平安ではないのです。
また永遠の安全保障は、神様と人間との間をとりなす唯一の仲介者イエス様のとりなしの祈りによって保障されています。
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7章24~25節)
祭司は民のために民に代わって神に仕えるという、神様と人との仲立ちの役を務めます。しかし人間の祭司は私たちと同様に罪ある身ですから、直接聖い神様の前に立つことができず、その職務もごく限られたものになります。けれども人となってくださった神であられるイエス様はそのような不完全な祭司とは違います。神であると同時に人であるイエス様だけが十字架による贖いのみわざによって神様と人間との間をとりなしてくださることができる唯一の仲介者なのです。
またイエス様を信じる信仰によって義と認められた者も、まだ信仰が弱いので、何か少しでも困難が起こると心の平安を失って、うろたえたり、悲しんだりしてしまいがちです。人となって私たちと同じ骨肉と血をお持ちになったイエス様は私たちの弱さをよくご存じであり、そのような弱い者のためにいつも父なる神様にとりなしの祈りをしていてくださるのです。イエス様は父なる神様に次のようにとりなしの祈りをしておられます。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。(ヨハネの福音書17章14~15節)
「この世のものではない」ということは、かつてはこの世の支配の下にあった者も、エス様によって罪から贖い出されれば神様に属するものとされているから、もうこの世のものではないという意味です。このように神様に属する者の安全が、イエス様のとりなしの祈りによって確実に保障されることについて、パウロは次のように証ししています。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章33~35、37~39節)
イエス様によって罪赦され、神様に義と認められた者は、この世のどんなに強大な力によってもイエス様にある神の愛から引き離されることはなく、死にも打ち勝つ圧倒的な安全が保障されていると、ここでパウロは確信を持って言い切っているのです。
最後に、永遠の安全保障は神様に義と認められた者に与えられる神の御霊、聖霊によって確信することができます。パウロが神の御霊について、
私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。(コリント人への手紙第二1章21~22節)
あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1章13~14節)
と言っているように、神様はイエス様を信じた者の心にご自身の約束を成就されることの保証として神の御霊を与えてくださいます。この神の御霊によって、
私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。(コリント人への手紙第一2章12節)
とパウロが言っているように、私たちは恵みとして神様からいただいた永遠の安全保障を感謝して確信することができるのです。
これまでごいっしょに考えてきましたように、神様は御子イエス様によって義とされた者に永遠の安全を保障してくださいます。最近はまさにヨハネの黙示録に記されているような、世の終わりが近いことを私たちに啓示する出来事が次々に起こっています。しかしそのような時代にあっても、主から安全を保障されていれば、いつも心に平安があり、喜ぶことができます。希望を持つことができます。詩篇の作者は、
あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。(詩篇4篇7~8節)
と神様に感謝しています。この詩篇の作者は「神様が与えてくださっているものは、この世から得る一時的な安全保障ではなく、何者も取り去ることのできない主から与えられた安全保障ですから、私はいつも喜びと平安に満たされています。神様だけが私を安らかに住まわせてくださるのです」と、その感謝を賛美の詩にしないではいられなかったのです。私たちもこの詩篇の作者とまったく同じ思いで主に感謝します。
私たちは、永遠の安全保障は人間が自分の力で手に入れることは不可能であり、全能者である生ける神様だけが恵みとして与えてくださるものであることを知りました。次のような聖書のみことばがあります。
主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。(エレミヤ書6章16節)
ちょっと読んだだけでは何のことかよくわかりませんが、たいへん含蓄のあるみことばです。神様は「もし、あなたがたがほんとうの幸せ、ほんとうの平安、ほんとうの安全を求めるなら、昔からの通り道、幸いの道を尋ね求めなさい」と仰せになっているのです。
では「昔からの通り道」とは、「幸いの道」とは何でしょうか。それはイエス様ご自身のことなのです。イエス様は次のようにおっしゃいました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)
前にも申しましたが、私たちが自分の知恵や力によって開拓した道を通っても決して神様のみもとに行くことはできません。神様のみもとに通じる道はただ一つ、イエス様という道だけです。そして神様は「その道は二千年の昔からあなたがたのために用意してある、わたしのひとり子イエスという道です。だからあなたがたはその道を通って、あなたがたの憩い、安全、すなわち永遠のいのちを見いだしなさい」と仰せになっているのです。何と言う愛にあふれたみこころではないでしょうか。
もう一度冒頭のみことばを見てみましょう。
主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。(申命記33章12節)
私たちは幼な子だったときに、親の背中に背負ってもらった記憶があります。幼な子にとって親の肩の間は、広くて暖かくて居心地がよくて、安全な場所です。こんなに安全なところは子どもにとってほかにありません。けれども、そうかと言って私たちはいつまでも親の背中に背負われ続けることはできません。しかし、イエス様によって義とされた者は永遠のいのちを与えられて、永遠に父なる神様とともに住むのですから絶対に安全なのです。神様に愛されているとは、こういうことなのです。
私たちは、主の肩に背負われているという恵みをいつも覚えながら、このすばらしい永遠の安全保障の恵みを与えてくださった主に、喜びと感謝をもって日々従って行きたいと心から切に思います。