みことばは食べるもの(2000年)
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル人への手紙10章28~38節)
今日は正しい信仰という問題について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
信仰とは何か、ある大きな辞書を調べましたら「信仰」の項目に次のように書いてありました。「信仰とは、自分にとって究極的な価値や意味を持っている対象と、全人格的な関係を持ち、その対象に無条件に依存し、献身することをいう」
少し堅苦しい言葉ですが、信仰とはまさにそういうものなのです。しかし、ここでたいへん重要な問題は、「自分にとって究極的な価値や意味を持つ対象」を何に置くかということです。というのは、もし信仰の対象を間違えると、とんでもない、恐ろしいことになるからです。このことは先頃わが国のみならず、世界中を震駭(しんがい)させた「オウム真理教」の例を見てもわかります。彼らは正しくない、誤った対象に無条件に従い、依存し、献身した結果、あのような恐ろしい事件を起こしてしまったのです。
しかし、その前に私たちが知っておかなければならないのは、信じることと、信仰とは同じではないということです。よく、「私は神様がいることは信じているけれども、信仰はしていません」とおっしゃる方がいます。この言葉は矛盾しているようですが、まさにそのとおり、神様を信じているのと、神様を信仰しているのとは違うのです。聖書にもそういう例が書かれています。
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。(ヤコブの手紙2章19節)
日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。(ルカの福音書4章40~41節)
悪霊というのは、サタンの手下です。彼らは全能の神様と神の御子イエス様が、やがてこの罪に満ちた世界を終わらせて、新しい、聖い天地を造られるときに、自分たちをきびしく罰せられることをよく知っています。だから身震いするほど恐れているのです。では彼らが悔い改めて神様やイエス様に仕えるかといえば、その反対なのです。彼らは神様やイエス様に仕え、従うという信仰は決して持とうとはせずに、かえって逆らうのです。このことからもわかるように、信じることと信仰とは別であります。
では、信仰にとって最も重要な問題、すなわち「自分にとって究極的な価値や意味を持っている対象」はだれかという問題ですが、それは申すまでもなく神の御子イエス・キリストであります。しかし、そのことに反感を持たれる方も少なくありません。先頃、私が書きました「医者に治せない病気」を読まれたある方から、次のような手紙をいただきました。
「本を読んで、随所に書かれている、イエス・キリストだけが罪を癒してくださるただひとりの方という部分に抵抗を感じます。キリストは当時の間違った信仰態度を持つ宗教指導者たちが多くいた中で、民衆に正しい道を示すために、そう言ったのです。釈迦も日蓮上人も当時の乱れた宗教に惑わされないために、同じことを言っています。ある個人が、私はイエス様だけを想って精進するというのなら、なんら批判の余地はありませんが、イエス・キリストだけが罪を癒してくださる、ただひとりの方という考え方や、釈迦をはじめとする他の聖者・賢者をとおして神につながろうとする人たちを邪教扱いし、否定する価値観は、結果的に神の教えに反する行為となるのです」というものでした。
この方に限らず、このような批判をなさる方は多いと思います。しかし、それは罪がいかなるものか、罪の赦しというものがどういうものかが、残念ながらまだおわかりになっていない方の考えです。そしてその方は正しい信仰の対象がだれかもご存じないのです。罪とは何でしょうか。それは自分を愛し、恵もうと手を伸ばしてくださる、唯一にして全能の神のみこころに背を向けて、自分勝手に生きることです。そしてこの罪はいかなる宗教を信じても消すことはできないのです。というのは神様に犯した罪は、神様だけが赦してくださることができるものだからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。それはただ一つ、自分が神様に背を向けていたことを認め、心から悔い改めて「神様ごめんなさい」とあやまることです。それが神様に悔い改めるということです。神様は直ちに御子イエス・キリストによって、罪を赦してくださいます。では、そのイエス・キリストとはどんな方なのでしょうか。先ほどの方のように、よくイエス・キリストは釈迦や、孔子のような聖人と同列視されますが、このような比較はまったく見当外れです。というのは、釈迦や孔子は私たちと同じ人間ですが、イエス・キリストは神であり、私たち人間と父なる神様との唯一の仲介者となるために、神の御子でありながら人となられた方であるからです。そして仲介者の役割とは、私たち人間の罪を御子ご自身が身代わりに負って、神の罰としての十字架の刑を受けて死んでくださることであったのです。これについてパウロは次のように言っています。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(テモテへの手紙第一2章5~6節)
もし釈迦や孔子が私たちのために死んでくれても、私たちの罪は依然として残ります。それは彼らがいくら聖人であっても、やはり私たちと同じ人間である以上、罪を最初に犯した人間アダムの血を受け継いで、生まれつき罪の性質を持っている者だからです。
この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(伝道者の書7章20節)
と世界一の知恵者と言われるソロモンが言っているのはこのことであります。
しかし、イエス様は神様ですから、お生まれになってから一度も罪を犯されたことがなく、完全に聖い方です。だからこそ私たちの罪を身代わりに負ってくださることができたのです。聖書に、
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)
とあるとおりです。
信仰とは、このイエス様を罪から贖い出してくださった救い主として受け入れるだけでなく、このイエス様と人格的な交わりを持ち、そのイエス様に心から信頼し、従うことです。
では、このような信仰は、どのようにして私たちに与えられるのでしょうか。その入り口はまず福音、すなわち、イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、それを信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられる、という良き知らせを聞くことから始まります。パウロは次のように言っています。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ人への手紙10章13~17節)
ここに「信仰は聞くことから始まる」とあります。では、だれから聞くのでしょうか。それはイエス様を信じ、イエス様に従う者からです。その者をイエス様はご自分を証しする使者として、信仰を求めていながらも、まだ信仰の対象がだれか、おわかりにならない方々のところにお遣わしになるのです。先にイエス様を信じた者は、そのような大切な使命が与えられていることを忘れてはならないと思います。
次に、福音を悔いた、砕かれた心で聞くことです。神様は次のように仰せになっています。
わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ書66章2節)
イエス・キリストの十字架の死が、人間の罪を赦すための身代わりの死であるという良き知らせ、福音を聞いても、それを自分の問題として受け取れなければ、たんなる知識で終わってしまいます。イエス様がこの世におられた時代にも、イエス様の教えに耳を傾け、それを知的に正しく理解する者はいました。次の律法学者もそうでした。
律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。」そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない。』と言われたのは、まさにそのとおりです。また、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する。』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」(マルコの福音書1章28~34節)
この箇所の最後の「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。』」というところが大切です。イエス様は彼の返事から、彼が聖書をよく理解している賢い人であることはおわかりでした。だから「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃったのです。しかし、ここで注意しなければならないのは、イエス様は「あなたは神の国に、はいることができる」とはおっしゃらなかったことです。イエス様は「あなたにとって神の国は遠くはない、近くに来てはいるけれども、それだけではまだ神の国に、はいれない」ということを彼に示唆されたのです。彼に欠けていたものは何だったのでしょうかこれは砕かれた、悔いた心でした。福音を自分の頭で聞くか、悔いた、砕かれた心で聞くかが、正しい信仰を持つことができるかどうかのわかれ目であります。私たちが悔いた、砕かれた心で福音を聞いたときに、はじめてイエス様の死を自分の問題として受け止めることができるのです。
では砕かれてイエス様を信じた者のそれからの歩みは、どうしたらよいのでしょうか。冒頭のみことばの中でイエス様は、「わたしを信じる信仰によって、わたしが義人と認めたあなたは、たとえどんな試練に会っても信仰によって生きなさい。もし、そのときに恐れ退くなら、わたしはあなたを喜ばない」とおっしゃっています。イエス様に喜んでいただける歩みが信じる者の生き方です。そして、それはイエス様が命じておられる「信仰によって生きる」ことであります。ダビデは、
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。(詩篇16篇8節)
と言っていますが、このように、イエス様はいつも、どんなときでも自分とともにいて守ってくださるという信頼に立った生き方こそが、信仰によって生きる生き方であると思います。けれども、このような生き方は自我が砕かれてはじめてできるものではないでしょうか。ダビデも自我が砕かれ、霊の目が開かれて、その目で主がいつも自分の右におられることが見えたのです。またパウロは信仰によって生きる自分の生き方について次のように証ししています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)
彼も自らの体験から「自我を持っている古い自分は、イエス様といっしょに十字架につけられて死んだのだから、もう生きてはいない。だから今の自分は自我によって生きているのではなく、イエス様を信じる信仰によって、イエス様と一つにされた者として生きているのだ」と言うことができたのです。
イエス様は信じる者とご自分の関係をぶどうの木と枝にたとえて、ご自分に結びついていることの大切さを諭(さと)しておられます。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネの福音書15章5節)
私たちイエス様を信じる者が正しい信仰の歩みをするためには、このイエス様のみことばのように、自分がたんに枝に過ぎないこと、そして枝は木から離れれば枯れてしまうことをしっかり心に刻んでいなければなりません。そして、イエス様という木にしっかりと繋(つな)がって、日々みことばと祈りによってイエス様から力と知恵とをいただいて歩む者となりたいと思います。
はじめに、「信仰というのは私たちにとって究極的な価値や意味を持っている対象と、全人格的な関係を持って、その対象に依存し、献身することである」と申しましたが、これまでに聖書をとおして私たちは、私たちを愛し、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストこそ、私たちにとって究極的な価値と意味を持つ方であることを知りました。そしてこの方と全人格的な交わりを持ち、この方に信頼し、仕えることこそ、唯一の正しい信仰であることを改めて覚えることができました。
私たちはこの信仰に堅く立って、パウロが、
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二4章18節)
と言っているように、肉の目に見えるものによってではなく、肉の目には見えませんが、イエス様によって開いていただいた霊の目で見ることのできるものにしっかりと目を留めて、希望をもって信仰の歩みを続けたいと心から思います。