みことばは食べるもの(2000年)

三 わたしが造ったたましい

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためであるわたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。」(イザヤ書57章15~16節)


今日もごいっしょに、聖書のみことばを味わいたいと思います。とくに、このみことばの中にある「わたしが造ったたましい」と神様が仰せになった、たましい、あるいは霊のことを、これからしばらくの間考えたいと思います。


大昔から人間はたましい、霊の問題はたいへんに大切なものであると考えておりました。そして霊魂というものが私たち人間に宿っており、人間にとって何か大切な役割をするものらしいということを漠然と信じていたようです。けれども霊魂は目に見えるものでないだけに、それがどこから来たのか、どのような働きをするものなのか、私たち人間のからだとの関係はどうなっているのか、あるいは死んだら霊魂はどうなるのか、などなどいろいろと考えてはみるが、どうもわかりません。


人間の考えた宗教というものが生まれた理由も、そこにあったのではないかと思います。ですから、いわゆる宗教の中心課題は、これらの問題を人々にどう説明して、安心させるかということであったといえましょう。


たましい、霊についての日本人の考え


では、日本人は昔から霊、たましいの問題について、どのような考え方をしていたのでしょうか。これについて、民俗学者の柳田国男さんの著書『先祖の話し』の中に、興味深いことが書いてありましたので、霊魂の問題に関するところだけを、ごくかんたんに紹介いたしますと、「日本人はずっと昔から、人が死んだらどこに葬っていたかというと、野辺(のベ)送りという言葉が象徴するように、近くの山に葬っていた。だから日本人は近くの山に死んだ人の霊がいる、遠くにいるのではない、と思っている。そして、このように先祖の霊が近くにいるから、時々自分の家に迎えてもてなす、という習慣ができたのであって、この習慣は仏教が日本にはいって来る前からあった。仏教では死人は極楽浄土に行くと教えるが、日本人には死人の行く先について昔からこのような信仰があるから、仏教を信じるようになっても、死人の行き先についての仏教の教えは心から信じられない。なぜなら極楽浄土というところは、西の方十万億土の彼方にあり、そのような遠いところに自分の先祖や親、兄弟が行ってしまったら、二度と帰れないと思うからだ」とありました。


元来、仏教には祖先の霊魂をもてなすという考え方はなかったのですが、日本に入ってきてから後、霊魂についてのこのような日本古来の習慣をうまく取り入れたのが、お彼岸やお盆の行事です。また日本の仏教では、亡くなった人のために何回も法要という行事を行ないます。最初は初七日法要、次いで四十九日法要、百ヵ日忌、一周忌、三回忌と続き、ある年限、たとえば三十三年目、あるいは五十年目で打ち切ります。なぜこのようにくり返して法要を営むのか、またなぜある年数で打ち切るのかというと、法要とは遺族が死者の霊を清める行事であり、くり返して法要を行なうのは、死者の霊は、はじめはまだ一人ひとり個性を持っていて汚れているけれども、遺族が法要を重ねる度にだんだんと清くなるからで、追善供養という言葉はそのような意味を持っているのだそうです。また三十三年あるいは五十年で法要を打ち切るのは、そのくらい法要の回数を重ねれば、汚れた霊も清くなり、個性も失われてきて、先祖の霊と一つに融合してしまうからなのだそうです。


人間の頭で考えつくこと、あるいは人間の作った宗教が考えることは、このようにたいへんご都合主義的な、自分勝手な解釈なのであります。私たちはこのような説明を聞いて果たして納得できるでしょうか。たましい、霊について真剣に考え、また悩んでいる人にとって、このような説明はとうてい承知できないでしょう。


霊についての創造主なる神の答え


では、人間の知恵や宗教の考えではなく、聖書の神様は霊について私たちの疑問にどう答えてくださるでしょうか。


聖書の神様とは、人間が作って祭り上げた偶像の神々や仏ではなく、人間を含めて天地万物を創造され、支配され、永遠に存在しておられる、生ける神様であります。その神様が人間の霊はどこから来たのか、どのような働きをするものなのか、からだの中ではどういう状態にあるのか、人間が死んだら霊はどうなるのかなどの、人間にとっての大問題について聖書のみことばによって明快に答えておられるのです。


まず、冒頭のみことばにあるように、霊は神から出て人の中に置いたものだと神様は仰せになっています。創世記に神様が人間をどのようにお造りになったかが記されています。


神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたそこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)


このように、神様はまず人間のからだを土地の土、すなわち有機、無機の物質でお造りになり、その後でご自分のいのちの息をからだの中に吹き込まれたのです。この神のいのちの息がすなわち霊であり、「そこで、人は、生きものとなった」とあるように、霊がからだに入ったときに、はじめて人間は神様に応答することができる生きものとなったのです。神様が人間を他の動物と違うようにお造りになったのはこの点です。動物は神様と応答できる霊を持っていません。ですから彼らは本能だけで生きているのです。しかし、人間は神様に応答すべきものとして造られ、神様を愛し、神様と交わり、神様の仰せに従うようにと霊を与えられたのです。人間が生きる意味、いのちを与えられた意味はここにあります。


霊の働きは何か


次に、いったいその霊の働きは何かということについて、もう少しくわしく考えてみましょう。家族も財産も健康もすべて失うというたいへんな苦しみに会いながら、真剣に神様と応答した結果、霊の目が開かれて「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と告白することができた旧約時代の信仰の人ヨブは次のように言っています。


人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。(ヨブ記32章8節)


私たちの中に神様が入れてくださった霊の働きは、神様からのメッセージを受けて、何が正しいか、何が正しくないか、何が善か、何が悪かという判断を正しく行なうことと、神様の深いみこころを示されて喜ぶことです。ヨブが言っている「悟り」とは神様に対して霊の目が開かれることであり、その結果、神様のみこころがわかるという意味であって、人が難行苦行をして、そこから悟りを得たとか、突然良い知恵がひらめいて物事の道理がわかったという、人から出たことではないのです。


では、すべての人の霊がこのように正しく働いているのだろうかというと、残念ながらそうではありません。どうしてでしょうか。それはその人に罪があるからです。神様に背を向けて自分の肉の思いに従って生きるという罪を犯しているからです。自分の思いに従って生きるのは何も悪いことではないと考える人はとても多いのです。けれどもこれこそ造り主である神様を無視した自分勝手な思いであり、わがままであり、罪なのです。聖書では、このような状態にある人をよく「死んでいる」と表現します。これは霊が閉ざされた状態、あるいは霊が死んだような状態を指しているのです。パウロが、


あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者・・・・(エペソ人への手紙2章1節)


と言っているのは、信者の信仰以前の姿を指しており、神様を中心として生きるのではなく、何事も自分中心という罪の中に生きていて、神様から与えられた霊が汚れて死んだようになった者のことを指しているのです。


死後の霊の行き先


では次に私たちが死んだら、霊はどこに行くのかということについて聖書は何と言っているのでしょうか。行き先は次の二つのうち一つしかありません。一つは天国であり、もう一つはハデス、すなわち神を信じない者が死後に刑罰を受ける場所です。イエス様はこの世で自分だけが贅沢ざんまいに暮らしていて、神様に目を向けようともしなかった金持ちと、日々の食べ物にも事欠いたすなおなラザロのたとえをとおして、このことをはっきり教えておられます。


さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」アブラハムは言った。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。」(ルカの福音書16章22~26節)


この金持ちは、金持ちだからハデスに落とされたのではなく、神様に目を向けずに、自分の欲を満たすことだけを考えて一生を過ごしたために落とされたのです。またラザロも貧しかったから天国にはいることができたのではなく、貧しさの中にあっても目を神様から離さず、神様にゆだね続けていた彼を神様がよしとされたからであります。イエス様はこのたとえで、死んだ後ではいくら悔い改めても、もはや手遅れであることを警告しておられます。


ではハデスに落とされた霊はどうなるのでしょうか。ヨハネはヨハネの黙示録の中に次のように書いています。


また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。(ヨハネの黙示録20章12節)


ここに書かれている「数々の書物」とは、一人ひとりの行ないがすべて記録されている書物のことであり、また「いのちの書」とは、イエス・キリストを受け入れて救われた者の名前が記録されている書物です。神様は完全な方、聖にして義なる方ですから、私たちは過去のことを忘れても、神様は私たちの行ないや心に思ったことまで、すべて記録しておられ、その記録に基づいて最後の審判のときに、一人ひとりに公正なさばきをなさるのです。そして、


いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20章15節)


と書かれているように、神様の救いの御手であるイエス・キリストを拒み続けて死んだために、「いのちの書」に名前が記されないままハデスに落とされた者の霊は、その審判で神様から見放されて永遠に火の池で苦しまなければならないという、恐ろしい宣告を受けるのです。これが聖書の示す滅びであり、これこそ人間にとってもっとも恐ろしいさばきなのです。


罪人をあわれまれる神


しかし、この義の神は、同時にあわれみの神でもあります。神様はご自分に逆らってわがまま勝手に生きた報いとして滅びるしかない人間をあわれんで、次のように呼びかけておられるのです。


わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル書33章11節)


これはイスラエルの民だけでなく、ご自分に背を向けているすべての人々に向かって呼びかけておられるのであります。親が子どもを慈(いつく)しむように、愛をもってお造りになった人間が、ご自分に背いたまま滅びて行くのを悲しんで、このように呼びかけてくださる神様のご愛がこのみことばをとおして心にしみる思いがします。


そして、神様のこの呼びかけに耳を傾け、自分の罪に気づいて心砕かれ、悔い改めて「お赦しください」と神様の前にへりくだり、立ち返る者のために、ご自分との和解の道を用意してくださっていたのです。その和解の道こそ神が人となられたイエス様なのです。パウロはこれについてテモテへの手紙第一に次のように書いています。


神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章4~6節)


しかし、私たちがこのイエス様を自分の罪の贖い主と信じることは自分の知恵によってではできません。前にも述べましたように、ただすなおになって神様の前にお赦しくださいとへりくだったときにのみ、神様が恵みによって一方的に私たちの死んでいたような霊を生き返らせてくださる、そのときに私たちははじめて信じることができるようになるのです。


生き返った霊は主との交わりを喜ぶ


このようにして生き返った私たちの霊は、神様や主イエス様との霊的な交わりを心から喜ぶことができるようになります。ダビデは、


こうして私のたましいは、主にあって喜び、御救いの中にあって楽しむ・・・・(詩篇35篇9節)


と賛美していますが、これは生き返った霊だけが知る喜びです。


また生き返った霊は、イエス様の声とサタンの声を霊の耳で聞きわけることができるようになり、イエス様の声に従って行くことこそがもっとも安全であり、いちばんの幸せであるとはっきりわかるようになります。このことをイエス様は羊飼いと羊のたとえで次のようにおっしゃっています。


まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。(ヨハネの福音書10章1~5節)


羊飼いを先頭に、羊の群れが彼の声に従ってついて行く光景が目に浮かぶようです。イエス様はその後でさらにこうおっしゃっています。


盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10章10~11節)


羊は羊飼いがいのちを捨ててまで自分たちを守ってくれることを知っていますから、彼に信頼して、彼の声だけを頼りに従順について行くのです。イエス様を信じる者もイエス様の声だけを頼りにイエス様に従います。それは、イエス様を信じる者の生き返った霊が、イエス様こそ罪の中に死んでいた自分を生かし、永遠に守り導いてくださる方であることを知っているからであります。


生き返った霊を宿すからだは死んだらどうなるか


では、イエス様を信じて霊は生き返ることができても、その霊を宿している肉体のほうはいったいどうなるのでしょうか。信じていても肉体は一度死んだら生き返らないのでしょうか。もちろん、神様はこのこともちゃんと解決してくださっています。すなわち、神様はイエス様を信じる者のからだも新しくよみがえることを、イエス様の復活によって約束してくださっているのです。パウロはイエス様の復活と信じる者のからだのよみがえりとの関係について、コリント人への手紙の中に次のように書いています。


もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一15章17~22節)


しかし、どのようなからだでよみがえるのでしょうか。コリントの教会の人たちも同じ疑問を持ちました。パウロはそれに答えて次のように言っています。


死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られたものですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。(コリント人への手紙第一15章42~49節)


「朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」「血肉のからだ」、これらはすべて第一の人、すなわち土から造られたアダムのかたちを持つ私たちの生まれながらのからだの特徴です。いっぽう、「朽ちないもの」「栄光あるもの」「強いもの」「御霊のからだ」とは、第二の人、すなわち天から来られた復活のイエス様のからだの特徴です。そして、イエス様を信じた者は、この復活のイエス様と同じからだによみがえると約束されているのです。


では信じる者のからだが復活のイエス様のからだと同じからだによみがえる、そのときはいつでしょうか。パウロはコリントの教会の人々に答えて次のように説明しています。


終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章52節)


「終わりのラッパ」というのは、イエス様が信じた者のからだをよみがえらせて天国に携え上げるために迎えに来てくださる合図でもあります。


前にも申しましたが、イエス様を信じて死んだ者の霊は、死の瞬間に肉体から離れて天に上げられ、イエス様のみそばで安らかに憩っています。やがて神様が定められた世の終わりの時の前に、その霊を空中までイエス様が連れて来てくださり、そこで朽ちたからだに代えて与えられる朽ちない、聖い、御霊に属するからだと一つにされます。またそのとき地上に生き残っているキリスト者のからだも、同じ朽ちないからだに変えられて、そのままともに天国に携え上げられるのです。


霊の問題は生と死の問題


はじめに申しましたように、霊魂の問題はだれにとっても大いに気になる問題です。なぜでしょうか。それは生と死に関わる問題、永遠のいのちと永遠の滅びに関わる問題だからです。そしてこの問題は人間が考え出した宗教では、あるいは偶像の神を信じる信仰では何の解決もできません。いっぽう、霊を吹き込んで私たちを造ってくださった、生けるまことの神様のお考え、ご計画は、何と大きく、深く、完全でありましょうか。まことに恐れるばかりです。神様は、ご自分がお造りになった一人ひとりを、私たち自身が知いるよりもはるかによくご存じです。そしてその一人ひとりを心から愛してくださっています。ですから、ご自分から背き離れた私たちのために、尊い御子のいのちを犠牲にしてまで私たちの汚れた霊とからだを聖いものに生き返らせて、ご自分との親しい永遠の交わりを回復しようと望んでくださるのです。私たちは改めてこの神様と救い主イエス様に心から感謝したいと思います。




みことばは食べるもの 前の章 次の章 メッセージ書庫