みことばは食べるもの(2000年)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ書15章16節)
今日は聖書のこの箇所から、みことばを食べるということについて、ごいっしょに考えたいと思います。ここで言っている「みことば」とは、神様のことば、あるいは聖書のことばのことです。私たちの常識では、言葉は耳で聞くものです。また、食べるというのは食べ物を食べることです。ですからこの箇所を読まれる方の中には「みことばを食べる」という表現に、たいへん奇異な感じをお持ちになる方もおられるのではないでしょうか。
しかし、神のみことばは耳で聞くものでもなければ、目で読むものでもなく、まさに食べるべきものである、ということが今日の主題であります。
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」といっているエレミヤは、神様に忠実に従った旧約時代の偉大な預言者のひとりです。歴史の話になりますが、エレミヤは紀元前六百年の前半、イスラエルの南半分にあったユダ王国のヨシヤ王の時代に生きた人でありました。このエレミヤは神様から預言者として召し出されました。預言者とは神様からメッセージを受け、それを人々に告げ知らせる者のことです。そのときの様子をエレミヤは次のように語っています。
次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ書1章4~8節)
このようにエレミヤは決して自ら進んで預言者になったのではありませんでした。神様からお召しを受けたとき、自分にはとてもできませんと尻込みしました。けれども神様はそのように気の小さいエレミヤを、生まれる前から預言者にすると決めておられたのです。神様の選びとはそのようなものであり、私たち人間の選びの基準とはまったく違うのです。
神様はエレミヤに何を語れとお命じになったのでしょうか。イスラエルの歴史を見ますと、イスラエル民族は神の民として選ばれたのにもかかわらず、神様の仰せに従って歩んだことはほとんどありません。エレミヤの時代にも神様に背いていました。そのイスラエルに対して、神様はエレミヤの口をとおして「悔い改めてわたしに立ち返れ。さもないとわざわいを受けることになる」と警告を与えられたのです。しかし、エレミヤの警告に対して彼らは悔い改めるどころか、かえって反発しました。
彼らは主を否んでこう言った。「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」(エレミヤ書5章12~13節)
イスラエルの民の傲慢(ごうまん)な態度に怒られた神様は、さらにエレミヤに次のように言えと命じられました。
万軍の神、主は、こう仰せられる。「あなたがたが、このようなことを言ったので、見よ、わたしは、あなたの口にあるわたしのことばを火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽くす。イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。――主の御告げ。――それは古くからある国、昔からある国、そのことばをあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。その矢筒は開いた墓のようだ。彼らはみなつわもの。彼らはあなたの刈り入れたものとあなたのパンを食らい、あなたの息子、娘を食らい、あなたの羊の群れと牛の群れを食らい、あなたのぶどうと、いちじくを食らい、あなたの拠り頼む城壁のある町々を、剣で打ち破る。(エレミヤ書5章14~17節)
神様の予告どおりに、やがてバビロニヤの王ネブカデネザルはイスラエルを攻略し、エホヤキン王を初め貴族、兵士、職人などの多くが捕らえられて都バビロンに連れて行かれることになるのです。これが歴史に有名なバビロンの捕囚(ほしゅう)です。
エレミヤは預言者として神様から命じられたことをそのまま率直に伝えました。しかしエレミヤの言ったことはイスラエル人にとって不愉快なこと、耳の痛いこと、腹の立つことばかりでした。そのため彼らはエレミヤを捕らえ、足枷(あしかせ)をつけて城門につないだり、地下牢にいれたり、深い穴に投げ込んで泥の中に沈ませたりというような、ひどい目に会わせました。そこで彼は、
なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。(エレミヤ書20章18節)
と嘆き悲しみ、「もう、主のことばを語ることはしない」と決心するのですが、果たしてそのようにできたでしょうか。
私は、「主のみことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。(エレミヤ書20章9節)
と告白しているように、彼は自分の意志に反して神様のみことばを宣べ伝え続けたのです。どうしてでしょうか。それは彼が神様のみことばを食べたからなのです。神様のみことばを食べることによって、彼の霊が燃え、強められたからなのです。すなわち彼のエネルギーの原動力は食べたみことばだったのです。
先ほども申しましたように、私たちが日常食べるのは肉や野菜、米などの食品です。私たちの肉体を養うこれらの食品は、肉体の口を開けなければ食べられません。では、みことばはどうでしょう。みことばは霊の糧ですから、霊の口を開けなければ食べることができないのです。
また、私たち人間はお互いに相手のことばを頭で理解することによって、相手が何を考え、何をしたいのかがわかります。しかし、神様のみことばは頭で理解しようとしてもわかりません。人間の知恵でみことばを味わおうとしてもだめなのです。長いこと教会に通って、聖書を読んでいる人でも、これを道徳の書として読んだり、歴史の書として読んだり、あるいはキリスト教神学を研究するために読んだりするかぎり、それは聖書を頭で食べているのです。いくら人間の知恵で聖書を味わおうとしても、聖書の味はまったくわからないのです。なぜでしょうか。それはみことばは私たちの頭にではなく、霊に与えられるものであるからです。そして霊に与えられたものは霊の口を開けて食べなければならないのです。では霊の口を開けるとはどういうことなのでしょうか。それは神様の前にヘりくだって、すなおになって神様に向けて心を開くという姿勢を取るということです。エレミヤが神様のみことばを食べることができたのは、彼がそのような態度を取ったからにほかなりません。
神様のみことばは食べればなくなってしまうような食べ物、限りある生命を維持するだけの食べ物と異なり、不滅の、無限の食物であり、永遠のいのちのためになくてはならない食物です。私たちは限りある生命を支える糧を得るために毎日働きますが、イエス様は肉体の糧よりも霊の糧のほうがはるかに大切であると次のようにおっしゃっています。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。(ヨハネの福音書6章27節)
イエス様は永遠のいのちに至る霊の食物は「人の子」、すなわち神様のひとり子の神、人の子としてこの世に来てくださったイエス様が与えるとおっしゃっています。ではイエス様はどのようにして永遠のいのちに至る食物を私たちに与えてくださるのでしょうか。その答えはイエス様の次のみことばにあります。
わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。(ヨハネの福音書6章48~51節)
このように、イエス様ご自身がいのちのパンとなって、ご自身を私たちに提供してくださったのです。もちろん、これはイエス様を食べるということではありません。いのちのパンを食べるとは、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために、私たちの身代わりに死んで、よみがえってくださったイエス様を心から自分の救い主と信じ、受け入れることなのです。そしてイエス様を信じた者の霊には、イエス様は助け主として聖霊を与えてくださいます。このことはイエス様の次のような約束に基づいています。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。(ヨハネの福音書14章16~17節)
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14章26節)
またパウロも、イエス様を信じた者に御霊が与えられるのは何のためであるかを次のように言っています。
神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって、神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(コリント人への手紙第一2章11~13節)
まことに聖書のみことばは、御霊に導かれ、御霊の助けによってはじめてその深い味を味わい知ることができるのです。
では私たちがみことばを食べて、その味を知ると、どのようなことが起こるのでしょうか。まず霊が強められ、元気になり、また喜ぶようになります。一つの例をご紹介します。癌で天に召された主にある兄弟がおられました。その兄弟が入院されている病室にときどきお見舞いに伺いましたが、そのときにいつもその兄弟が言われた言葉は「今日はどんなみことばがいただけますか」というものでした。すでに癌の末期であることをご存じであった兄弟は、その都度「自分はもう何も食べられないけれども、みことばは食べられます。ほんとうに御馳走です」と言っておられました。そしてこの兄弟は、みことばに支えられて安らかに天国に召されたのです。
このように、私たちが自分の身のまわりの困難な、希望のない状況は変わらなくみことばを食べると、霊が強められて元気になり、喜ぶことができるのです。パウロは、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(コリント人への手紙第二6章10節)
と言っていますが、これを頭で読めばだれでも何のことか、ぜんぜん理解できないでしょう。こんな矛盾したことは常識ではとうてい考えられないからです。もし、だれかが「自分は悲しんでいるようでも喜んでいる」とか、「何も持っていないようでも、すべてのものを持っている」と言ったとすれば、冗談か、気が狂ったと思われるでしょう。しかし、みことばを食べた人は、「ほんとうにそのとおりです。しかり、アーメン」と、このみことばを心から受け入れることができるのです。これが聖書のみことばを食べるということであります。
さて、聖書のアモス書には、みことばの飢饉(ききん)を送るという神様の警告が記されています。
見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。(アモス書8章11節)
みことばを聞くことの飢饉(ききん)とは、神様のみことばを必死になって求めても、聞こうとしても、もう手遅れだということです。その日が来るのはいつでしょうか。それは神様のさばきの日です。神様はご自分が遣わされたイエス様による救いを拒み続けた者をさばくために、イエス様をふたたびこの世に遣わすと、みことばをもって警告しておられます。さばきの日までは、愛とあわれみに富みたもう神様は、ひとりでも多くの人を滅びから救おうと忍耐をもってみことばを送り続けてくださいますから、今はまだ、みことばを十分に味わうことのできる恵まれたときであります。しかし神様はいつまでも忍耐してはくださいません。聖書に、
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(ペテロの手紙第二3章9~10節)
とあるように、さばきの日は突然やって来ます。ですから、そのときまでにイエス様の十字架による救いを受け入れていなければ、いかにみことばを聞きたくても、食べたくてももう遅いのです。
私たちが静まって自分の心の中をのぞいて見るときに、食物にかぎらず、この世のいかなるものをもってしても、決してそのようなもので心の不安や空しさを根本的に除くことはできないことがわかるはずです。この世のどんなものでも、私たちの心にぽっかり開いた穴を満たすことは決してできません。
ただ一つ、こころの空しさを満たし、満足を与えることのできるものは、みことばです。なぜなら、私たちはみことばをとおしてイエス様のかぎりない愛に触れ、みことばによって約束された永遠のいのちに、また生きる喜びに満たされるからです。
どうか、まだ聖書のみことばを頭で読んで理解しようとしておられる方は、みことばの飢饉(ききん)のときが来る前に、神様の前にへりくだって、いのちのパンであるイエス様を心に受け入れてください。神様は喜んであなたに御霊を送ってくださり、たちどころにあなたの霊の目を開いてくださり、みことばのすばらしい味を味わうようにしてくださいます。
最後に次のみことばを味わって終わりたいと思います。
あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119篇103~105節)