みことばは食べるもの(2000年)

一 聖書はすべて神のみことば

聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(ペテロの手紙第二1章20~21節)

聖書は初めから終わりまですべて神のことば


今日は冒頭の聖書の箇所から、聖書は神様のことばである、ということをごいっしょに考えてみたいと思います。


今、聖書は神様のことばであると申しましたが、それは聖書の中に神様のことばが含まれているという意味ではありません。もしそうならば、聖書のすべてが神様のことばではなくて、聖書の中に部分的に神様のことばがはいっているということになります。そして聖書をそのように考えている人がたいへんに多く、牧師や神学者の中にもそのように考えている人が少なくないのです。


しかし、それが誤りであるということを冒頭のみことばははっきり示しています。聖書は初めから終わりまで、すなわち、創世記の一章一節からヨハネの黙示録の二十二章二十一節までの、一言一句すべてが神様のことばです。これが聖書です。では、どうしてそのようなことが信じられるのでしょうか。


御霊の導きによって信じる


私たち人間のからだは、生きているかぎり外から刺激を与えれば必ず何らかの反応を示します。それを生体反応と言い、生きている証拠と判断します。しかし死ねばどんな刺激を与えても反応しません。人間の霊についても同じことが言えます。もし霊が死んでいれば霊的な刺激を与えても、それに反応しないのです。聖書では罪人の霊は死んでいると言っています。そのことをパウロはエペソ人への手紙の中で、


あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者・・・・(エペソ人への手紙2章1節)


と書いています。これはとうぜん肉体的には生きている人に語られているのですから、からだの死を言っているのではなく、霊の死を指しているのです。しかし、たとえ罪のために死んだ霊を持っていても、その霊は神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって生き返ることができるのです。先ほどのエペソ人への手紙の中で、続けてパウロは、


しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・・・(エペソ人への手紙2章4~5節)


と書いていますが、「私たちをキリストとともに生かし」とあるのは、私たちの霊を生かすということです。私たちがイエス様の救いのみわざ、すなわちイエス様の十字架の死と復活は、自分を永遠の滅びの死に至る恐ろしい罪から救い出し、永遠のいのちを与えてくださるためであったと、ただすなおに信じた瞬間に、あわれみ豊かな神様はイエス様が私たちに代わって支払ってくださったこの尊い犠牲のみわざに免じて私たちの罪を赦し、死んでいた霊を生き返らせてくださるのです。


こうしてイエス様を信じることによって神様の霊を受け、霊的に生き返った者は、


私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(コリント人への手紙第一2章12~14節)


とパウロが言っているとおり、御霊のことをわきまえるようになります。聖書のみことばは、まさに神様の御霊に属することでありますから、この御霊の導きによって、はじめて生き返った私たちの霊が聖書のみことばを、そのまま神様のみことばとして受け取ることができるようになるのです。


預言者たちの証言によって信じる


聖書に、


神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました・・・・(ヘブル人への手紙1章1節)


とありますように、神様は昔は預言者たちの口をとおして、ご自身のみこころを示しておられました。その例をいくつか挙げてみましょう。


王であり、かつ預言者であったダビデは次のように言っています。


主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。(サムエル記第二23章2節)


ダビデは自分の語ることばが神様ご自身の霊によるものであることを、このように言い表しています。


また預言者エレミヤは、


次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――(エレミヤ書1章4~8節)


と言っています。エレミヤはこの神様のみことばに勇気を得て、神様に命じられたみことばをすべて命じられたままに伝えたのです。


また預言者エゼキエルは次のように言っています。


その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」(エゼキエル書3章1~4節)


巻き物とは聖書のことです。エゼキエルは神様の仰せに従って聖書のみことばを食べて霊の腹を満たしました。みことばを霊で味わった彼は「みことばは蜜のように甘かった」と告白しています。彼の霊は蜜のように甘いみことばによって元気になり、神様から告げられたすべてのみことばを、そのままイスラエルの人々に伝えました。私たちの生き返った霊はこれら預言者たちの証言によっても、聖書がすべて神のことばであることを確信するのです。


イエス・キリストの宣言によって信じる


イエス様はご自身で聖書に何が書かれているかを語っておられます。


それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。(ルカの福音書4章16~22節)


イエス様が朗読されたイザヤ書のこの箇所は、神様がやがて神の御子をこの世に遣わして、滅びの死に至る恐ろしい罪に束縛されて苦しんでいる人々を救済するという、神様の救いの約束が語られているところですが、イエス様は神様のこの救いの約束は今、自分によって実現したと自ら宣言なさっているのです。霊的に生き返った者は、人となってこの世においでになった神の御子イエス様ご自身の宣言によって、聖書はすべて神のことばであることを確信するのです。


聖書の預言の成就によって信じる


聖書の最も大きな預言が成就された事実は、先ほどイエス様が自ら宣言されたように、二千年前にこの世に来られた御子イエス様が、神様の人間救済のご計画を十字架と復活のみわざによって成就されたということであります。驚くべきことに、聖書はある歴史的な事実が起こるはるか前に、そのことが起こると預言しています。ということは預言そのものが歴史になるということです。これは聖書に語られている預言が神様のことばであるという証拠でなくて何でしょうか。聖書の預言が成就したという例は、先ほど挙げました神が人となられた救い主イエス様を頂点として、ほかにも多くありますが、その良い例にユダヤ民族の離散と集合があります。


ユダヤ民族の離散について聖書は次のように預言しています。


主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。(申命記28章64~65節)


この預言のとおり、神様に選ばれた民でありながら、神様に不従順の罪を犯し続けたユダヤの民は、紀元七十年にローマ皇帝ティトゥスによって預言どおりエルサレムが完全に滅ぼされてから世界中に散らされました。それだけではありません。今日も彼らは聖書の預言どおり世界中の民族に嫌われ、迫害されているのです。


主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。(申命記28章37節)


世界の歴史の中でユダヤ民族が尊敬された時代は見当たらないといってよいでしょう。むしろどこの国に行っても迫害されるのです。ユダヤ民族の歴史は迫害の歴史と言ってもよいでしょう。どうしてなのか私たちには理解できません。しかし聖書のみことばから私たちは生き返った霊で、このような事実は彼らが神様の選びの民であるにもかかわらず、神様からくり返し、くり返し警告されても耳を傾けず、神様に逆らって偶像を崇め、礼拝し、自分勝手な道を歩んで来たことに対する神様のさばきの結果であると知ることができます。そして今日でもユダヤ民族が世界中から事あるごとに疎まれているのは、この預言が成就しているからなのです。


またユダヤ民族の集合については、神様は預言者エゼキエルによって次のように預言しておられます。


わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。(エゼキエル書34章13節)


この預言のとおり、世界中に散らされていたユダヤ人たちは集められ、一九四七年にイスラエルの国は独立国として再建されたのです。人類の歴史上、一度国を滅ぼされた民族が二千年を経た後に国を再建した例はいまだかつて無く、まさに神様がなさった奇蹟としか言いようがありません。イスラエル国の再建はユダヤ人自身の力によるものではなく、ただ主なる神様のみことばに基づくものであったことがよくわかります。


自分自身の信仰の体験をとおして確信する


聖書がすべて神様のみことばならば、聖書の中で神様、イエス様を信じる者に約束されたことは、信じる者の霊にその約束がわかるような形で示されるはずです。そして事実信じる者はそれぞれ自分自身の体験をとおして聖書にある神様のみことばの約束が自分の身の上に成就されたという多くの証拠を挙げることができるのです。たとえばイエス様は、


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)


と約束なさっています。そしてこのイエス様のおっしゃった約束を信じた結果、約束どおりイエス様に自分の重荷を担っていただいて重荷から解放され、ほんとうに楽になったという体験をお持ちになった方々も多いのです。また、


わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)


というイエス様のみことばに信頼した結果、自分の上におおいかぶさって来るいろいろな恐れや思い煩いから解放されて、現実の問題は何も解決されていないのにもかかわらず、イエス様が与えてくださったこの世の平安とはまったく違う平安に心が満たされたという体験をお持ちになった方々も多いのではないでしょうか。


また聖書に約束されている、


主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒の働き16章31節)


というみことばを確信して祈った結果、このみことばどおりに自分だけではなく、家族も霊の目を開かれてイエス様を救い主と信じることができたという体験をお持ちの方々も多いと思います。このように私たちの生き返った霊は自分自身の信仰の体験をとおして、ほんとうに聖書が神様のことばそのものであることを確信するのです。


神のみことばである聖書に手を加えてはならない


聖書がすべて神様のことばであることは、これまで述べて来たさまざまなことをとおして私たちの生き返った霊が確信します。ですから聖書に語られていることを人間の知恵で考えたり、神学者の説に解決を求めてもわかるはずがないのはとうぜんです。とくに科学に基礎を置いている現代神学では、聖霊によるのではなく科学的理論を物差しにして聖書を解釈しようとするので、神様のなさった奇蹟やイエス様の奇蹟はすべて否定されます。たとえば天地創造も、処女懐妊も、復活も科学的にはあり得ないからと否定します。しかし科学は本来神様が創造された被造物とその仕組みを調べることによって、いかに神様のみわざが偉大なものであるかを知って、神様を恐れ、神様を賛美するために人間に与えられたものです。その科学を神様のみわざの真偽を測るために使うのは、まったく見当違いであるばかりか、神様を恐れぬ傲慢(ごうまん)な態度と言うべきでしょう。最近の英国BBC放送の調査によると、英国の聖職者の八割は天地創造を否定し、また四分の一はイエス様の処女降誕を否定し、いっぽう大部分の聖職者は復活は信じているという矛盾した結果を報告していますが、これこそ聖職者が霊によって聖書がすべて神のことばであることを信じないで、人間の知恵で聖書を解釈した結果生じた混乱と言えるのではないでしょうか。


聖書には復活のイエス様に会った多くの弟子たちの証言が載っています。弟子たちは復活のイエス様に出会ったことを証ししたために迫害され、殺されてもそれが事実であることを証しし続けました。イエス様を信じて生き返った霊は、科学ではなく、人間の知恵でもなく、いのちをかけた彼らの証言によってイエス様の復活を事実として確信することができるのです。


聖書が神のことばである以上、人間が勝手にこれに手を加えて、つけ足したり、削除したりすることは決して許されません。聖書のいちばん最後にあるヨハネの黙示録に、神様はヨハネの口を用いて次のように厳しく戒めておられます。


私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(ヨハネの黙示録22章18~19節)


神様のこの警告を厳粛(げんしゅく)に受け止めて、聖書を批判的な思いで読むのではなく、また自分で勝手な解釈を加えて読むのではなく、神様の前に謙虚な気持でへりくだって「神様のみことばを私にください」という心で聖書に向かえば、神様はどなたにでも惜しむことなく霊の目を開いて聖書のみことばをとおしてご自身のみこころを示してくださり、私たちの霊にあふれるような永遠のいのちの喜びと、慰めと、励ましと、平安、そしてまことの希望を与えてくださいます。




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