新しい天地と古い天地(1998年)

九 報われる忍耐

あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ヨハネの黙示録3章10節)


この世の人の忍耐とキリスト者の忍耐


今日はイエス様のおっしゃったこのみことばから、信仰生活における忍耐とはどのようなものかということについて、ごいっしょに考えたいと思います。


私たちは、昔から忍耐しなさい、我慢しなさい、しんぼうしなさいという言葉を、自分が生きてゆく上で必要な教訓として教えられて来ました。この忍耐は自分の力で頑張って耐え忍ぶというもの、また何のたしかな希望もないままにただ耐え忍ぶというものであります。このような忍耐は私たちの人格を形成する上においてたしかに大切なことであり、必要なことでありましょう。しかし忍耐にはもう一つ大切な別の忍耐があります。それはこの世の人の忍耐ではなく、神に属している者の忍耐であります。


イエス様を、自分の罪を贖ってくださった救い主として信じ受け入れた者は、イエス様が、


わたしがこの世のものではないように、彼らもこの世のものではありません。(ヨハネの福音書17章16節)


とおっしゃった通りに、それまで属していたこの世から、神に属するものへと移されます。


イエス様は神様でありながら人となって、父なる神の御座からこの世に来られた方ですから、当然この世に属するものではありません。そしてイエス・キリストの十字架の救いを信じる者も、イエス様の御力によって、この世に属するものから神に属するもの、イエス・キリストに属するものに移されたので、もはやこの世のものではないのです。


しかし、もはやこの世のものではなく、神に属するもの、キリストのものとされた者がどうしてまだ、この世に置かれているのでしょうか。それはイエス様が父なる神様に、


あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(ヨハネの福音書17章16節)


とおっしゃったように、キリストのものとされた私たちは、父なる神様がイエス様をこの世に遣わされたように、福音を伝えるためにイエス様によってこの世に遣わされているからです。


またパウロは、キリストを信じる者は自分のためではなく、自分のために死んでくださったイエス様のために生きることであると、次のように言っています。


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(コリント人への手紙第二5章15節)


もし、私たちが心からこのように思うことができれば、私たちの生きる目的はもはや自分のためではなくなり、主のために、主からこの世に遣わされた者として生きるようになります。


けれども主のために生きると、口で言うのは簡単ですが、実行することは決して容易ではありません。むしろ主に忠実に従おうとすればするほど、自分の肉にとっては厳しく、自分に対しても他人に対しても、忍耐することの多い日々であることを覚悟しなければならないでしょう。しかも主のしもべである私たちの忍耐はイエス様が必要とされていることなのであります。ではイエス様が私たちに忍耐を必要とされるのは、どんな理由からでありましょうか。


一、主のしもべの忍耐は信仰の成長のために必要


第一は、私たち主のしもべの信仰の成長のためにであります。ペテロは次のように言っています。


罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(ペテロの手紙第一2章20~21節)


「善を行なう」とは、主のために生きることであり、具体的にはイエス様のしもべとして、主に従って福音を宣べ伝えること、イエス様の証人として生きることであります。「主のしもべはそのために苦難を受けることがあっても、主イエス様を模範として忍耐しなさい」とペテロは言っているのです。またヤコブは、


私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブの手紙1章2~4節)


と言っています。イエス様は主のしもべである私たちの信仰を成長させ、ご自分に似た者に育てようと、さまざまな試練を与えて、忍耐する訓練をしてくださるのです。しかし、ただ単に忍耐だけを要求しておられるのではありません。その忍耐によって、主のしもべである私たちは勝利すると約束してくださっています。イエス様は次のようにおっしゃいました。


わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。(ルカの福音書21章17~19節)


「髪の毛一筋も失われることがない」という意味は、肉体のいのちが失われることがないということではなく、霊的いのちのことであります。主イエス様のために生きる者は、そのためにどんなに迫害を受けることがあっても、主からいただいた永遠のいのちは決して奪われることはないとイエス様は約束なさっているのです。


わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネの福音書10章28~29節)


このようなたしかな約束をいただいているからこそ、私たちは忍耐することができるのです。


二、忍耐はご再臨を待ち望むために必要


第二は、私たち主のしもべが主のご再臨を待つためであります。ヤコブは次のように言っています。


こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。(ヤコブの手紙5章7~8節)


また、ヘブル人への手紙の中には次のように書かれています。


あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」(ヘブル人への手紙10章36~37節)

主のしもべの忍耐は、無限になされなければならないのではありません。主イエス様が私たちを迎えに来られるそのときまでのことであります。そして私たちはその日がいよいよ迫っていることを、最近の世界の情勢から知ることができます。このように私たちには主のご再臨という大きな希望があるがゆえに試練を、迫害を耐え忍ぶことができるのです。イエス様もヨハネに次のように約束しておられます。


見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。(ヨハネの黙示録22章7節)


主のしもべが忍耐するための原動力


では信仰の歩みにおける忍耐は何の力によってなされるのでありましょうか。主のしもべである私たちは、何に忍耐の原動力を求めたらよいのでしょうか。


一、新しく生まれ代わった霊


第一に、新しく生まれ代わった霊が必要です。主のしもべの忍耐は、信じる前の自分が持っていた古い肉の力でするのではありません。イエス様を救い主として信じる者は、イエス様の十字架の贖いによって、罪のゆえに死んでいた霊を生き返えらせていただいたことを知っています。その新しい霊の力で忍耐するのであります。イエス様は、このことを良い地に落ちた種にたとえて、次のようにおっしゃいました。


良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。(ルカの福音書8章15節)


ここにある正しい良い心とは、信仰によって生まれ代わった霊のことであります。生まれ代わった霊は、みことばをしっかりと守り、それによって忍耐することができるのです。


二、霊の訓練


第二に、主のしもべの忍耐には、患難、試練を通しての霊の訓練が必要です。


「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル人への手紙12章5~7節)


生まれ代わったばかりの私たちの霊は、このみことばのように主の愛に満ちた訓練によって育てられ、強くされ、成長します。私たちの忍耐は、こうして訓練され、強められた霊によってなされるものです。


三、からだのよみがえりの希望


第三に、主のしもべの忍耐には、主のしもべのからだのよみがえりの希望が必要です。パウロはこれについて次のように言っています。


御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。(ローマ人への手紙8章23~25節)


ここで言っている「まだ目で見ていないもの」とは、からだの贖われること、すなわちからだのよみがえりを指しています。からだのよみがえりは、主のしもべの大きな希望であります。パウロはからだのよみがえりについて、次のように言っています。


私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(コリント人への手紙第一15章49~52節)


私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3章20~21節)


私たちの朽ち果てるべきからだが、やがてキリストの復活のからだと同じような朽ちない、聖いからだによみがえらされること、そして、その日は間近いというたしかな希望はこの世に置かれた私たちの忍耐に大きな力を与えるものであります。


信仰における忍耐の手本


信仰における忍耐の手本は聖書にたくさん見られますが、ここにその何例かを挙げてみようと思います。


一、イエス様


まず第一に、私たちの主イエス様であります。ヘブル人への手紙には次のように記されています。


信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル人への手紙12章2~3節)


私たちが信仰の試練に遭ったとき、私たちの霊が元気を失わないためには、イエス様が神の御子でありながら私たちの罪を贖い、永遠に生きる者とするためにどんなに忍耐してくださったか、そしてまた私たちのためにどんなに十字架のはずかしめを忍んでくださったかを思い起こすことです。そしてその主イエス様から霊の目を離さないでいることです。パウロは私たち主のしもべのために、このキリスト・イエスの忍耐を持つようにと祈っています。


どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。(テサロニケ人への手紙第二3章5節)


二、預言者たち、ヨブ、モーセ


また、ヤコブは多くの預言者たちやヨブの忍耐も、私たちの忍耐の模範であると言っています。


苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブの手紙5章10~11節)


ヨブの忍耐とは、神様からヨブに試練を与えることを許されたサタンによって、ヨブが子どもたちや財産のすべてを失い、その上自分も体中悪性の腫物に侵されるという試練に遭ったときの彼の忍耐を指しています。ヨブは災いを受けたとき、次のような態度を取りました。


このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。(ヨブ記1章20~22節)


ヤコブは「見なさい。耐え忍んだ人は幸いである」と言っています。なぜなら、神様がヨブになさったことの結末を見れば、神様は慈愛に富み、あわれみに満ちた方で、ただ単に忍耐だけを求めておられるのではなく、忍耐には報いてくださる方であることがわかるからであります。ヨブは忍耐の報いとして、主なる神様を霊の目で見ることができました。それまで自分は神様の前に義人であると自認していたヨブは、そのとき次のように言いました。


私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ記42章5~6節)


モーセの忍耐も私たちの模範です。


信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。(ヘブル人への手紙11章27節)


なぜ彼は忍び通すことができたのでしょうか。彼の忍耐の原動力は何なのでしょうか。今のみことばの少し前から読みますと、


信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル人への手紙11章24~26節)


と記されています。モーセが「報いとして与えられるものから目を離さなかった」とあるように、信仰における忍耐には報いが約束されているのです。ではその報いとは何でしょうか。それは永遠のいのちという冠であります。


試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブの手紙1章12節)


主に背負われ、抱かれながら行なうキリスト者の忍耐


ここで私たちがはっきりと覚える必要のあることがあります。それは主を信じる者が忍耐するとき、主は必ずともにいてくださるということです。主は私たちの弱さをもよくご存じですから、私たちの忍耐の限度を越えてまで忍耐することを求めてはおられません。パウロが次のように言っている通りであります。


あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(コリント人への手紙第一10章13節)


預言者イザヤは、主のしもべが苦しむときに、主はどうしてくださるかを次のように記しています。


彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ書63章9節)


主の愛とあわれみの何と深く大きいことでしょうか。このように主のために生きるしもベは、忍耐のときにもイエス様という完全な脱出の道が与えられ、そのイエス様の深い愛の中に包まれ、背負われ、抱かれながら、忍耐の訓練を行なうのであります。


以上に述べて来ましたように、信仰における忍耐とは、主のしもべとされた者が主のために生きるために迫害や試練に遭っても、心を乱すことなく、絶望することなく、自分を守ってくださる主イエス様に堅く信頼して、希望と勇気を持ち続けて耐え忍ぶことであります。ダビデは次のように言っています。


私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62篇1~2節)


主のしもべの忍耐は、この世に属する人々のように、自分の力で、たしかな希望もなく、ただただ我慢するという、つらい忍耐ではありません。ですから冒頭のみことばにあるように、「全世界に来ようとしている試練のときにも守る」と約束してくださるイエス様に信頼し、拠り頼むことによって、何があっても報われる忍耐の道を目指す天の御国のゴールに向かって歩んで行きたいと思います。




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