新しい天地と古い天地(1998年)

八 オリーブ油のつぼ一つ

預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」(列王記第二4章1~7節)


今日は主に全き信頼を置くことの大切さと、主はその信頼に必ず応えてくださるという事実について、旧約聖書の中のこのエピソードからごいっしょに考えてみたいと思います。


エリシャは紀元前九世紀に活躍した預言者エリヤの後継者であり、エリヤと並んでイスラエル初期の二大預言者のひとりと言われています。エリシャは「神の人」と呼ばれるように、心から神様に仕え、また神様から知恵と力をいただいて数々の奇蹟を行なった人ですが、このエピソードもエリシャの奇蹟の一つであります。


エリシャの時代にはほかにも何人かの預言者がいましたが、そのうちのひとりが天に召されました。主のみこころを伝えるために労して召されたこの預言者の後には負債だけが残りました。貧しい預言者の家にはもはや負債を支払うために処分できるような金目のものは何も残っていません。そこで債権者は預言者の妻に、ふたりの子どもを奴隷として売って負債を返せと要求しました。愛する夫を失い、ふたりの子どもを抱えてこの先どのように生きていったらよいか途方にくれていたときに、大切な子どもまで売れと迫られた彼女の気持ちはどんなだったでしょう。追い詰められた彼女は他のだれにも相談することなく、まっすぐに亡き夫が信頼していたエリシャに救いを求めました。エリシャに叫んで言ったという言葉から、彼女の切迫した心の動きを窺い知ることができます。


相談を受けたエリシャが彼女に命じた処置は、冒頭のみことばにあるようなまったく常識外のものでした。しかし彼女はエリシャに言われた通り、家にたった一つ残ったオリーブ油のつぼから、子どもたちが隣近所から借りられるだけ集めて来た空のつぼに次々とオリーブ油を満たしました。彼女から、借りて来たすべてのつぼに油が満たされたという報告を受けたエリシャは、彼女に「その油を売って負債を返しなさい。その残りであなたと子どもたちは十分に生きて行けます」と言ったのです。


このエピソードにはイエス様とイエス様を主と信じる私たちの関係についてのたいへん大切な事がらが含まれているのではないでしょうか。これからその一つ一つについてごいっしょに考えてみましょう。


オリーブ油の入ったつぼ一つの意味するもの


まずこの預言者の家に残されていたのは、オリーブ油の入ったつぼ一つだけであったということであります。オリーブ油は当時灯火用に、薬用に、食用に、あるいはまた王や祭司を聖別つときのしるしに用いるものとして欠くことのできない油でありました。預言者の妻はすでに負債を返済するために、家の中の少しでもお金になるものはすべて売り払っていましたが、最後まで一つぼのオリーブ油だけは売らずに残しておいたのです。この世的にみればたった一つぼのオリーブ油にどれだけの価値があるでしょうか。しかし彼女はこれを大切に残しておいたのです。もしこのオリーブの一つぽがなかったなら、エリシャは彼女に何もしてやれなかったし、負債を返すために彼女は子どもを売らなければならなかったことを考えると、いかにこのオリーブ油の一つぽに価値があったかがわかります。私たちキリスト者にとって一つぼのオリーブ油とは何でしょうか。それはイエス様を信じた私たちの中に注がれた聖霊であり、信じる私たちの中に宿ってくださっているイエス様であります。そして私たちはその聖霊を、イエス様を入れているつぼ、器であります。パウロは次のように言っています。


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(コリント人への手紙第一6章19~20節)


私たちは、一つぼのオリーブ油が預言者の妻にとって最も価値のある宝となったこのエピソードから、イエス様を信じた者にとって、この世のどんな宝よりも大切な宝は、私たちの中に住んでくださる聖霊であり、イエス様であることを改めてしっかりと覚えている必要があります。パウロはイエス様のすばらしさに比べたら、ほかのものはすべて取るに足りないものだと次のように言っています。


私の主であるイエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ人への手紙3章8節)


全き信頼を置くことのできる方はどなたか


次に預言者の妻はエリシャの指示が常識を越えたものであったのにもかかわらず、少しも疑わずに、その指示にすなおに従ったということです。なぜ彼女はエリシャを疑わなかったのでしょうか。それは彼女がエリシャに全き信頼を置いていたからではないでしょうか。彼女はエリシャが神の預言者として自分を顧みることなく、心から神様と人々に奉仕している姿を身近に見てきました。彼女はその姿を通してエリシャの人格に全き信頼を置くことができました。この人ならば窮地に陥っている自分たちを救ってくれる、自分たちのために最善のことをしてくれるという確信を持っていたのです。


このことは私たちにマタイの福音書の八章に記されている、イエス様のみことばに信頼したローマの百人隊長の信仰を思い出させます。


イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」(マタイの福音書8章5~8節)


イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」(マタイの福音書8章10節)


それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。(マタイの福音書8章13節)


預言者の妻は身も心も神にささげているエリシャを見て彼を信頼しました。ローマの百人隊長はイエス様のうわさを聞いただけでイエス様を信頼することができました。いっぽう私たちは御霊の啓示によって、ご自分のいのちを私たちの罪を贖うために神様にささげてくださったイエス様によってイエス様がどんなに私たちを愛してくださっているかを知ることができました。しかしそのような恵みをいただいている私たちは、はたして預言者の妻がエリシャの言葉に少しの疑いも抱くことなく信頼したように、また百人隊長がイエス様を信頼したように、イエス様に信頼しているでしょうか。


私たちの罪の負債は何によって支払われたか


三番目は、預言者の妻はオリーブ油を売った代価で負債を払うことができ、さらにその残りで生きて行けたということであります。彼女には債権者に負債を返済する力はまったくありませんでした。そのことを知っていた彼女は、ただ信頼する神の人エリシャに救いを求めるだけでした。しかしそれが最善の方法であったのです。このことは神様に犯した人間の罪の負債はどのようにして返済できるのだろうかという問題に対する解決の道を指し示しています。


罪とは神様のみこころ、ご意思に背くことです。神様のご意思は律法や良心によって具体的に私たちに示されているのですが、私たちが心を謙虚にして「自分は形式的、表面的にではなく、心から律法に、良心に従うことができるだろうか」と考えたときに、どうしても自分の意志の力では律法や良心に従うことはできないことを知ります。パウロが次のように言っている通りです。


律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ人への手紙3章20節)


このように人間の力ではどうすることもできない神様に対する罪の負債は、罪咎のまったくない神の御子イエス様が十字架の上で流された尊い血潮とその死によってのみ返済することができるのであります。


神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)


預言者の妻がオリーブの油で負債を返済することができ、さらにその残りで生きて行けたということは、私たちがイエス様のいのちによってのみ罪の負債を神様に返済することができること、さらにイエス様のみわざによって罪の負債を返すことができた者の中に住んでくださるイエス様は、ご自分を信じる者が生きるのに必要なものはすべて与えて養ってくださる方であることを示すものであります。パウロが、ピリピ人への手紙の中で、


私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ人への手紙4章19節)


と言っている通りです。


空のつぼになることの必要性


四番目は、エリシャに言われた通りに預言者の妻は子どもたちに次々に空のつぼを運ばせ、空のつぼがなくなるまで最初のつぼからオリーブ油を注ぎ、オリーブ油はそのすべてのつぼを満たしたということであります。空のつぼとは聖霊を満たしていただくために霊的に整えられたキリスト者の姿を意味します。霊的に整えられた者は自分の器の中を自分の思いでふさいでしまわず、空にして、そこにイエス様が、聖霊が、満ちてくださることを願います。そのように整えられた器こそ主が用いてくださる器であり、聖霊の油が注ぎ満たされるつぼであります。そして神様はそのように満たされた器から次々と神様を求める人々の心に御霊を注ぎ、救いへと導かれるのであります。


オリーブ油は当時のイスラエル人にとっては灯火用に、食用に、薬用に、聖別用に使うために必要な油でした。しかし霊的なオリーブ油はそれとは比較できないほど必要であります。なぜならイエス様および聖霊は、霊的な灯火の油として、霊的な食用油として、霊的ないやし油として、霊的な聖別の油として、私たちにとって最も必要だからであります。そしてこの預言者の妻の取った態度は、とりもなおさず私たちキリスト者にイエス様のしもべとして取るべき態度を示しているのだと思います。イエス様は次のようにおっしゃっています。


イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。(ヨハネの福音書7章37~33節)


私たちはいつも自分という器を聖霊によって満たしていただいているでしょうか。私たちは私たちの中のイエス様、聖霊の働きを妨げないように、イエス様、御霊をお入れしているただの器に過ぎないものであることを自覚して、主の御前にへり下っているでしょうか。もしそうであればイエス様ご自身が、聖霊自らが、器としての私たちを通して豊かに働かれ、多くの飢え渇いたたましいを永遠のいのちの水で潤し、満たしてくださるのです。


最近の世の中に起こっているあらゆる徴候から、私たちは聖書が言っている通りにイエス様のご再臨が迫っていることを感知することができます。このときこそ私たちはイエス様を満たすつぼ、器としての自分をイエス様におささげして生きるべきではないでしょうか。




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