新しい天地と古い天地(1998年)

六 神の選びに与かる者

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1章4~5節)


キリストのうちに選ぶ


今日はこのみことばから、神様の選びに与かるということはどういうことかをごいっしょに考えたいと思います。このみことばには、神様が私たちが生まれるはるか前から、神の御子キリストによって罪に汚れた私たちを聖めてご自分の子にしようと予め選んでくださっていたという、驚くべき事実が語られています。イエス・キリストによって聖くされるとはいったいどういうことなのでしょうか。ここで次のみことばを味わってみましょう。


彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章5~6節)


神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5章21節)


もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10章9~10節)


この三つのみことばの中には、なぜ神様が私たちを聖めてくださるのか、その聖めはどのようにしてなされるのかが、よく記されていると思います。そしてこの事実を心からすなおに信じ受け入れた者を、神様は御子イエス様が十字架の上で流された尊い血によって聖めて救ってくださるのです。まさにこれは人知をはるかに越えた神様の愛のご計画であります。


なぜ多くの人の中から救いに選ばれたのか


しかし、すでにイエス様を救い主と信じている方々の中にも、今改めてなぜ多くの人の中から自分が救われたのか、多くの人の中から自分がイエス様を信じるようになったのかと不思議に思われる方が多いのではないでしょうか。私たちが回りを見まわしたときに、自分よりも先に神様に選ばれるに相応しいと思われる高潔な、善良な、寛容な、親切な方々がたくさんおられます。自分よりも人格において、行ないにおいてはるかに勝れた人々がたくさんおられるのに、その方々がイエス様をまだ信じておらず、いつも自分のことばかり大切にしたり、良くないことを考えたり、行なったりして来たような私たちのほうが先に救われている、ということはどうしてなのか私たちにはまったくわかりません。しかし聖書には、だれが先に救われるかという選択は人間の基準によるものではなく、まったく神様ご自身の意思によるものであると書かれているのです。


冒頭のみことばの中に、


神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1章5節)


とあります。このように私たちが他の人々よりも先に救われたのは私たちに何か良い点があったからではなく、また私たちが神様を愛していたからでもなく、一方的に神様がみこころのままに愛をもって罪人である私たちを予め選んでくださったからなのであります。


神の選びは一方的な神の意思による


しかし、なぜ神様に愛されるのに相応しくない私たちのような者を神様が愛されるのでありましょうか。私たちにはわかりませんがパウロは神様のあわれみについてローマ人への手紙の中で次のように言っています。


神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ人への手紙9章15~16節)


パウロが言っているように、神様はただ一方的にご自分の意思であわれもうと思う者をあわれんでくださり、そのあわれみの対象に自分が選ばれたとしか言いようがないのです。


また神様は預言者マラキに次のようにおっしゃいました。


「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。」(マラキ書1章2節)


ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の兄弟の弟であります。そして神様はヤコブがエサウの弟であることをご承知の上で、ヤコブを愛し、イスラエル民族の指導者として選ばれたのであります。神様はふたりがまだリベカの胎内にいるとき、リベカに兄のエサウが弟のヤコブに仕えるようになるとおっしゃっています。


イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言った。そして主のみこころを求めに行った。すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」(創世記25章21~23節)


聖書にはエサウとヤコブのふたりの行状が詳しく記されていますが、それによると、ヤコブは奇計を用いて兄や父をだましたりするような、ずる賢い性質を持っていた人間であるように思えます。そのようなヤコブをどうして神様がお選びになったのか私にはわかりません。しかし、私自身が救いの対象に選ばれたことを考えたときに、ヤコブを選ばれたのも、ただ神様の一方的なご意思によったとしか考えようがないのであります。


主権者は神


私たちは人間中心にものを考える習慣がついています。人間に主権があると考えています。しかし聖書は主権は人間にあるのではなく、万物をお造りになり、それを支配しておられる神様にあるとはっきりと言っています。ですから神様が「わたしはヤコブを愛する」とおっしゃれば、その神様の仰せに従うのが正しいことなのであります。聖書では神様と人間の関係を陶器師と陶器にたとえている箇所がいくつかあります。ローマ人への手紙の中には次のような記述があります。


人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。(ローマ人への手紙9章20~21節)


イエス様を信じた私たちは、ヤコブのように神様の一方的なあわれみの対象として選ばれたからこそ救われたのであります。そこで次のような疑問が出て来ます。それはまだイエス様を信じていない人々は神様に選ばれないのだろうかという疑問です。しかしそうではありません。神様のみこころはすべての人が救われることであると聖書は言っています。


神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(テモテへの手紙第一2章4節)


ここで言っている真理とは、イエス・キリストであります。


神の選びの基準


では神様はどのような基準で先に救おうとする人をお選びになるのでしょうか。その答えも聖書にあります。


神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神はすべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。(ローマ人への手紙11章29~32節)


これはイスラエル民族の救いは、異邦人と言われているイスラエル民族以外の民族の救いよりも後になる理由が記されている箇所の一部であります。すなわち、今イスラエル人が、神様が救い主としてこの世に遣わしてくださったイエス様を救い主として認めないというかたくなな態度を取っているのは、彼らより先に異邦人があわれみを受けて救われるためであり、その後にイスラエル人もあわれみを受けて救われるのであると言うのです。しかし、イスラエル民族と私たち異邦人の関係は、先に神様に選ばれて救われたキリスト者と、まだイエス様を受け入れていない方々の関係と同じであり、今まだ救われていない方々がいるのは後に救われるためであり、今神様に不従順なのは後に神様のあわれみを受けるためであると考えることができるのではないでしょうか。なぜなら聖書はまた次のように言っているからです。


神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(テサロニケ人への手紙第一5章9節)


このみことばのように、神様は私たちを怒りに会わせようとお定めになったのではなくひとり子のイエス・キリストによって救いを得させようとお決めになっておられるのであります。


先に選ばれた者は神の計画のために召されている


そうすると、私たちが先に選ばれた理由は何でしょうか。それは神様のご計画の一端を担うためであります。そのご計画とは次のようなものであります。


それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ人への手紙1章9~11節)


神様のご計画とは、このように神様の定められた時が来たとき、すでに天に召された預言者たちも、まだ地上にいる者やすべての被造物も一つに集められて、キリストをかしらとして統一されることであります。そのご計画をみな実現される神様の目的のために私たちは予め選ばれて、救いに与かっているのであります。


人の人生は神のご計画の中にある


こうして考えてみますと、私たちの人生に起こって来るすべてのことは、私たち人間の意思に基づくものは何一つなく、みな神様のご意思によるものであることに気づきます。私たちは人生が自分の計画によってではなく、神様のご計画によって、自分の力や知恵の働きによってではなく、神様の力が働いて、運命ではなく、神様のご意思によって進行して行くということを知るのであります。人間は自分を主権者として自分の人生の意義や目的を考えている限りは、少しうまく行けばすぐにうぬぼれて傲慢になり、また少し思うように行かなくなればたちまち失望してしまう、そのような繰り返しを行なっているに過ぎない者なのではないでしょうか。しかし、自分の人生を神様のご計画の一部として捕らえたとき、はじめて生き生きとした意義を自分の生涯に見出だすことができるのであります。聖書に、


人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。(箴言1章2節)


とある通り、いくら私たち人間が限りある知恵と力でああしよう、こうしようと自分の計画を立てても、その通りにならないことは多くの方々も体験なさったことでしょう。実際に自分の人生の中で成るのは、神様のご計画だけなのであります。


私たちの信仰が実を結ぶために


さて、私たちキリスト者は、とかく自分が救われたことをもって満足してしまい勝ちですけれども、私たちを御子キリストの十字架によって神の子どもとして選んでくださった神様のお考えは、ただ個人の救いに止まるだけではありません。私たちは神様がご自身の遠大なご計画である神の国の完成のため、神様のご栄光が現わされるためのご計画の一部を神の子どもとされた私たちに担当させようとお考えになり、そのために選ばれているのだということを救われた者として心にしっかりと覚える必要があります。これは考えられないほど光栄なことであります。イエス様は次のようにおっしゃっています。


あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、・・・・。(ヨハネの福音書15章16節)


イエス様は、父なる神様から遣わされて滅び行く人々を救い出すという尊いご自分の仕事の一部を担当させようと、まず私たちを選び、神様のみこころを宣べ伝えるように任命したとおっしゃり、さらに私たちを任命したのは私たちの伝道が実を結び、その実が残るためであるとおっしゃっています。またペテロの手紙第一には、


あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(ペテロの手紙第一2章9節)


とあります。私たちはイエス様のすばらしい救いのみわざを宣べ伝えるために選ばれたのであります。そんなことは自分にはとてもできないと思う方はたくさんいらっしゃるでしょう。そう思われるのは当然です。私たちの知恵や力でできるものではありません。しかし私たちがイエス様に信頼し、イエス様におゆだねすれば、イエス様ご自身が実を結ばせてくださいます。イエス様はぶどうの木と枝のたとえで、そのことを約束してくださっています。


わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネの福音書15章4~5節)


神の招待に与かる者


さきほども申しましたように、神様のご計画の目的は神の国を完成し、そこで神様のご栄光がたたえられることであります。そして神様はその目的のために、ひとりひとりをお選びになり、招待し、神の子どもとして神様のご計画を遂行する任務の一端を与えてくださるのです。神様に選ばれたときに、招待されたときに、自分の自由意思によって感謝してこのご招待にお応えする決心をすれば、神様は私たちにキリストの義の衣を着せてくださり、私たちをご自分の子どもとしてくださって、ご計画に参加する光栄ある任務を与えてくださいます。しかし、もし自分の意思で神様のご招待を拒めば、神の国の相続者にはなれず、その人の救いは先に延期され、あくまで拒み続けた者は永遠の滅びに至ります。そして神様は代わりに他の人を選んで神の国に招待されるのです。イエス様はたとえをもって神様に招待される者のことを次のようにお話になっています。


イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、ある者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイの福音書24章1~14節)


神様がはじめに招待された人々は、みな自分の都合で招待を断ったり、神様の招待状を持って神様から遣わされた預言者や、最後には神様の御子でさえ殺してしまったので神様はそれらの人々を滅ぼされます。そこで神様はもっと多くの人々を宴会に招待されました。しかし招待に応じたたくさんの人の中で婚礼の礼服を着ていない人、つまりイエス様の十字架による義の衣を着ていない者は外に放り出されてしまう、というたとえであります。神様はただ愛だけの方ではありません。全き愛と同時に全き義の神であります。神様はあわれみと恵みに富む方であると同時に厳しさに富む方でもあります。神様が私たちを恋い慕ってお選びになった理由は、私たちの能力や知恵がすぐれているから、あるいは行ないが良かったからではなく、むしろその逆であって、私たちが愚かで、弱く、良い行ないなどできない自分を知っている者だからだったのであります。パウロはこれについてコリント人への手紙第一の中で次のように言っています。


この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙第一1章28~29節)


すなおに神様の前に立ったとき、ほんとうに自分が弱い者、知恵も力もない者、誇るに足りない者であると思う方は、すでに神様に選ばれる資格を持っておられるのです。どうか、おひとりでも多くの方が、ご自分が神様の選びの対象とされていることに感謝し、「イエス様が与えてくださる救いの衣を着せてください」と神様のもとに出ていただきたいと心から願う次第です。また先に神様のあわれみを受けて救われた私たちも、高ぶって神に選ばれた自分を誇るのではなく、私たちのためにいのちを捨てくださったほど私たちを愛してくださるイエス様を誇り、いつも神様の前にへり下り、神様、イエス様だけがご栄光を現わされるように、またそのためにすばらしい選びのご計画を宣べ伝える力が与えられるように、祈りながら歩むことこそ最も大切なのではないでしょうか。




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