新しい天地と古い天地(1998年)

五 新しい天地と古い天地

見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ書65章17節)


今日は、はじめにこの壮大な天と地をお造りになった神様が、これからまったく新しい天と地を創造するご計画を持っておられるという、私たちの思いを超えたこのみことばについて、また神様の御手の中にある私たちの将来はどのようになるのか、という大きな問題について真剣に考えてみたいと思います。


神は天地を二度造られる


聖書のいちばんはじめの創世記の一章一節には、


初めに、神が天と地を創造した。(創世記1章1節)


と、たいへんに力強い神様の壮大なみわざが、この短いことばによって端的に記されています。けれども聖書の最後にあるヨハネの黙示録二十一章の一節には、


また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(ヨハネの黙示録21章1節)


とあるのです。これで神様が二度天地をお造りになるということをお示しになっていることがわかります。しかし神様が天地を二度もお造りになるとはいったいどういうことなのでしょうか。


神様が最初に造られた天地は、今私たちが住んでいるこの天地であります。ところがヨハネは神様から幻を与えられて新しい天と地とを見ており、またそれまでの天と地は過ぎ去ったと預言しているのです。冒頭のみことばにある「見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する」と神様がおっしゃったのは、ヨハネが幻で見た新しい天と地であります。しかし新しい天と地が創造されたときに、今の天地は過ぎ去るというのであれば、今の天と地に住んでいる私たちの存在はいったいどうなるのかという大問題が生じます。


神様が今の宇宙を創造されたということは、私たちが人間の乏しい知識に捕らわれずに謙虚な心で、すなおに完全な調和をもって運行している宇宙や、私たちの目の前に繰り広げられる自然の営みを観察するとき容易に理解できます。ではなぜ神様は新しい天と地をお造りになるのでしょうか。また神様がおっしゃる新しい天と地とは、いったいどんなところなのでしょうか。そこは今私たちの住んでいる世界とどのように違うのでしょうか。


はじめに神が造られたものは完全であった


そのことを考える前に、ぜひ私たちが知っておかなければならないのは、神様は完全にして永遠に存在される方であり、ご自分の造られた世界やすべての被造物を愛し、支配しておられる方であるということです。そのような完全な神様ですから、ご自分がお造りになった今の天地万物も、造られた当初は神様のお考え通りの完全な出来栄えであったのです。その証拠に、創世記には神様は被造物をお造りになりながら、一つ一つその出来栄えをご覧になって「よし」と満足され、そして最後に、お造りになったすべてのものをご覧になってたいへんに満足されたと記されています。


そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。(創世記1章31節)


人間は神様が創造のみわざの最後に、最も大きな期待を持って、しかもご自分のかたちに似た者としてお造りになった被造物であります。ですから造られた最初の人間アダムも完全でありました。創世記には次のように記されています。


神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。(創世記5章1節)


神様はご自分に似せてお造りになった人間を期待を込めて祝福されました。では神様が期待された人間とはどんな人間なのでしょうか。それは神様のみこころにすなおに従う人間であります。神様は完全に正しい方ですから、その神様に従っていれば人間は完全に正しいからであります。


罪のために不完全になった人間


ところがアダムは神様の期待を裏切り、サタンの誘惑に乗って神様のみこころに背き、神様に従うのでなく自分の欲に従って神様から心が離れてしまいました。これがいわゆる人間の原罪であります。私たち人間はみなアダムの子孫であります。アダムの子孫である以上、私たち人間は生まれながら罪の性質を遺伝子として持つ不完全な者になってしまったのであります。パウロはこのことについて次のように言っています。


ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった・・・・。(ローマ人への手紙5章14節)


アダムの子孫である人間は、ますますその数を増やして行きましたが、それは同時に神様の前にますます悪を増し加えて行くことにもなったのです。神様は人間を造ったことを後悔なさり、人間を地上から消し去る決心をなさいました。創世記には次のように記されています。


主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」しかし、ノアは、主の心にかなっていた。(創世記6章5~7節)


こうして神様はみこころにかなうノアとその家族、およびひとつがいずつの動物たちを除くすべての人間と生物を、大洪水によって地上から消し去られたのであります。しかし義人ノアも所詮(しょせん)はアダムの子孫でありましたから、ノア自身には罪が表には現われませんでしたが、ノアの中に潜んでいた罪の遺伝子はノアの子孫に受け継がれました。そのため人間は相変わらず神様に従うことをせず、神様の前に罪を犯すような生き方を続け、その罪のために人はだれでも死ななければならなくなったのであります。


さてここでお話ししておかなければならないのは、私たちはふつう死といえば肉体の死を意味しますが、肉体の死だけでなく、霊魂の死、霊魂の永遠の滅びも合わせた死が、聖書の意味するほんとうの死であるということです。


神が新しい天地を造られる理由


人間の歴史は罪人の歴史と言ってよいでしょう。神様がさまざまな方法を用いて、ご自分から心が離れた人間に対し、ご自分に目を向けるように試みられるにもかかわらず、人間の悔い改めはいつも一時的であり、神様に罪を悔い改めても、すぐにまた自己中心の考えに戻って、自分勝手に生きてしまうという罪人の歴史であります。何でも好き勝手にできると思い上がった人間は、神様がお造りになった被造物までも自分の意のままに利用します。


ご存じのように最近ますますひどくなっている環境破壊、環境汚染は、そのような傲慢な人間の行為の結果として生じたものであります。神様がお造りになった美しい自然や生物を、私たち人間は自分の所有物のように好き勝手に利用したり捨てたりしているのです。そのような人間の身勝手が今や地球全体、被造物全体に修復不可能なほどのダメージを与え、その状況の一部がようやく人間の目にも明らかになって来ました。そして、あわてて開かれたのが先頃行われた地球温暖化防止の京都会議(一九九七年)です。


人間の快適な生活は電気、ガスや車によって支えられていると言ってよいでしょう。しかし電気やガスは石油や石炭を燃やして作られます。また車はガソリンや軽油を燃料にして動きます。これらの石化燃料を燃やせば必ず二酸化炭素ができます。二酸化炭素は温室効果ガスとも言われます。なぜそう言われるかといいますと、排出された二酸化炭素が海や森林に吸収され得る量を越えると地球の上空にどんどん蓄積し、それが温室のような作用をはたし、地球が太陽から受けた熱の放散を抑えるからです。


地球上空の二酸化炭素が増加し、そのために地球の気温が僅かずつ上昇していることはすでにだいぶ前からわかっていましたが、それが人類の生存をも脅かすことになると遅まきながら気づいたのは、この温暖化現象によって地球全体の気温が上昇して南極圏や北極圏の氷が解け始め、海面の水位が上ってすでに低い陸地が水没したり、気候に大きな変化が起こって大干ばつや大洪水や大きな森林火災が世界各地に発生し、地球の砂漠化が年々進み、また熱帯地方にしか生息できなかったマラリヤを媒介するハマダラ蚊の生息地が広がって、今まで流行の見られなかった国々にもマラリヤが発生し始めた、などという具体的事実が発生したからでした。


今度の会議で決まったことは、この地球の温暖化を食い止めるために各国が具体的に温暖効果ガスの排出量を削減しようと、その削減目標を先進国平均で五・二パーセント、EU各国八パーセント、米国七パーセント、日本六パーセントという数値で示して約束したことでした。しかしこの数値は科学的な根拠によったものではなく、自国の経済に影響のある削減量を最小限にしたいという各国の自己主張、エゴがぶつかり会い、政治的な取り引きでようやく決まったものであり、この程度の削減率では将来の気温上昇を、危険回避基準である二度C以内に抑えることなどはとうてい不可能、というのが専門家の一致した見解です。この地球温暖化という問題は、人間の罪が今の世界を汚染し破壊して行くほんの一例に過ぎませんが、このようにして人間の罪によって神様のお造りになった地球は今や加速度的に汚され、損なわれて行っています。


神様はご自分の尊厳と聖さのゆえに、人間の罪によって損なわれ汚されて、不完全になった古い世界をそのままにされることはおできになりません。そこで今の世界を壊し、もう一度みこころにかなう完全な天地を創造しようと決心されました。新しい天地は、罪汚れの気配さえない、まったく聖く、完全に神様のみこころが成る国、神様のご栄光が輝く国であります。神様はこのご計画を預言者イザヤの口を通して明らかになさったのであり、それが冒頭の「見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する」とおっしゃったみことばであります。


イエス・キリストは神とともに天地を創造される


さて聖書には、また次のような驚くべきことが書かれています。それは神様が今の天地を創造されたとき、はじめから御子イエス様が父なる神様とともに創造のみわざに参加されたということであります。


御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ人への手紙1章15~16節)


多くの人々はイエス・キリストが二千年前にこの世界にお生まれになったという事実は知っていますが、それはイエス様の人としてのご生涯が二千年前に始まったという事実に過ぎません。実はイエス・キリストはこの世にご降誕になる以前は神様のひとり子としてはじめから父なる神とともにおられ、天で父なる神とともに働かれていたのであります。そして新しい天地創造のご計画のときにも、イエス様は主役を務められるのであります。


人間が新しい天地に入れるためには


では私たちは新しい天地が創造されるそのとき、今の古い天地から新しい天地へそのまま移ることができるのでしょうか。それはできません。神様は罪に汚れた古い世界を完全に破壊されてから新しい聖い世界をお造りになります。聖い世界にはそれにふさわしい聖い者しか入れません。ですから、罪に汚れた私たち古い人間はひとりとして、そのまま新しい聖い神の国に入れるはずがないのです。神様に従おうとせず、神様がお造りになった世界を汚した人間は、神様のさばきを受けて滅ぼされても当然な存在であり、新しい聖い国に入ることなど望むべくもないのであります。


しかし人間をご自分のかたちに似るものとしてお造りになったほど愛してくださる神様は、人間を滅ぼすに忍びず、何とかしてご自分の創造される新しい天地に移したいとお考えになりました。そこで罪に汚れた私たち古い人間を造り変えて新しい聖い人間にしようというご計画をお立てになり、それを実行されました。父なる神様は、神であるご自分のひとり子を人として汚れたこの世界にお遣わしになり、ご自分の御子に私たちひとりひとりの罪を身代わりに負わせて十字架につけられたのです。この驚くべき神の御子イエス様の十字架上での贖いのみわざが自分のためであったとへり下って信じ、イエス様の前に自分の罪を心から悔い改めたとき、はじめて人間は罪の汚れが聖められ、イエス様の復活にあずかり永遠に生きる新しいいのちを与えられて、アダムに属する汚れた古い霊を持った人間から、イエス様に属する新しい聖い霊を持った人間に生まれ代わることができるようになったのであります。パウロはエペソのキリスト者への手紙の中で次のように言っています。


神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ人への手紙1章4~11節)


このように神様の一方的な愛と恵みによってイエス様を救い主と信じた者は、まだ肉体は古き創造の世界であるこの世に生きてはいても、すでに聖く傷のない者として新しい神の国を受け継ぐ相続者としての資格を与えられているのであります。


新しい天地に入るためにはからだのよみがえりが必要


それでは新しい聖なる御国に入ることができるためには、聖められた霊を持っていれば肉体は古いままでもよいのでしょうか。それは許されません。新しく聖い御国に入るには肉体も新しく聖く造り変えられなければなりません。ではどのように造り変えられるのでありましょうか。イエス様はご自身の復活によって、イエス様を信じる者のからだもイエス様の復活体と同じような聖く、朽ちない、重力にも支配されない新しいからだに造り変えることができることを証明してくださったのです。そしてイエス様が天から迎えに来てくださるときに、すでに先に天に召され、その遺骨が墓の中に眠っているキリスト者のからだも、また、そのときに生きているキリスト者のからだも、一瞬のうちにイエス様の聖い復活体に似たからだに造り変えられ、イエス様とともに天に引上げられるのであります。


パウロはイエス様を信じた者のからだが新しく造り変えられるときの状況についてテサロニケ人への手紙第一の中で次のように詳しく記しています。


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4章14~17節)


こうしてイエス様を信じた者は、霊肉ともに完全にされて、新しい天と地に住むのにふさわしく整えられます。神様のご配慮は何と深く行き届いたものでありましょうか。


さてこのようにしてイエス様を信じた者が完全にされて天に引き上げられた後には、今のこの古い創造の世界は今までかつて人類が味わったことのない大患難のときを迎えるとヨハネの黙示録に記されています。そしてその期間は七年の間続くとあります。


主イエスは千年の間地上を統べ治められる


すでにイエス様が空中まで迎えに来てくださって、よみがえりのからだを与えられたキリスト者たちは天に引き上げられ、この大患難に会うことなく天に留まっていますが、大患難の終わりに、イエス様がご自分に背き続けた者をさばくために地上に再臨され支配なさるときには、天に引き上げられたキリスト者もイエス様に従って地上に戻り、千年の間イエス様とともに地上の御国を支配すると聖書に記されています。この千年間は戦争もなく、美しい自然も戻り、病気もなく、まったく平和な時代が続きます。この時代の平和に満ちた情景を預言者イザヤは次のように言い表しています。


狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ書11章6~9節)


このときまで地上で人を惑わし、神様から引き離そうとし続けた暗闇の王であるサタンは、この間縛られて底知れぬ穴に投げ込まれ封印されていますが、その後で解き放たれ、このときになってもまだイエス様に反抗する人々を惑わして、イエス様とイエス様に従う者に対して最後の戦いを挑みます。しかしイエス様は天から火を降らせ、彼らを焼き尽くし、サタンと彼に従って最後までイエス様に反抗した者は火と硫黄の燃える池に投げ込まれ永遠に苦しみを受けます。


彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(ヨハネの黙示録20章9~10節)


古い天地の破壊と新しい天地の創造


こうしてイエス様が地上の王として神様に背くサタンをはじめとしたすべての敵をさばいて滅ぼされたとき、イエス様は父なる神様に地上の御国を明け渡されます。ご自分が造られた古い創造に対する神様のご計画はこのようにして終了し、神様は古い世界を完全に破壊されます。


その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(ペテロの手紙第二3章10節)


そこで私たちが心待ちにしていた新しい天と地がようやく到来するのです。この新しい天と地がいかにすばらしいものかをヨハネはその黙示録で次のように言い表わしています。


私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(ヨハネの黙示録2章2~5節)


古い今の世界は、罪の結果として生じた死や悲しみ、叫び、苦しみに満ちており、それから逃れることはできません。しかしそれらの苦しみは神様が造られる新しい国には何一つありません。神様から霊肉ともに聖なるものとされ、新しい天地に住む者には、父なる神様、御子イエス様に顔と顔を合わせてお会いし、永遠にともに住み、仕えるという大きな栄光に満ちた喜び、楽しみだけがあります。御使いはヨハネに、「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」と保証しています。このようにイエス様を信じる者は、やがて今の世ととうてい比べることもできないすばらしい新しい天の都における祝福を味わうことが約束されているのであります。


イエス様を信じた者を主が迎えに来てくださる日が、いつかはわかりませんが、その日がそう先ではないことを今の世界の状況は明らかに物語っています。なぜなら聖書に預言されているご再臨の前兆と考えられる徴候が最近世界全体に急速に現われて来ているからです。私たちは主イエス様がいつ迎えに来てくださってもよいように、心を整えてそのときの一日も早いことを祈りつつ主を待ち望む日々を生きたいと思います。




新しい天地と古い天地 前の章 次の章 メッセージ書庫