新しい天地と古い天地(1998年)

四 心に書かれた肩書

主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(サムエル記第一16章7節)


今日はこのみことばから、人のうわべを見る私たちと、人の心をご覧になる主なる神様について、ごいっしょに考えてみたいと思います。


人間はうわべで人を評価する


私たちはふつう人をどのような基準で評価しているでしょうか。私たちが「あの人は立派だ」とか、「あの人は偉い」とか言うとき、私たちの目で見えるもの、たとえばその人の風貌、言動、服装や身分、職業、地位、業績などを基準にして、つまり人のうわべだけを見て、その人を評価してしまうことが多いと思うのです。


人をうわべで評価する習慣は、名刺に肩書を入れることからも窺われます。学校を卒業して社会に出ると、ほとんどの人はまず名刺を作るでしょう。名刺は初対面の人に自分を紹介するために仕事の上で必要なものだからです。そのため名刺にはふつう氏名、住所のほかに身分や地位や職業を示す肩書が印刷されています。しかし、私たちは名刺に刷られた肩書によって、知らず知らずその人の価値を評価し、その人に対する態度を変えてしまうのではないでしょうか。もしその人が自分よりも上の身分、地位であるとわかれば、へり下ったような態度を取り、反対に自分よりも下と知れば、意識してではないにせよ高圧的な態度を取ったりしがちなのではないでしょうか。


温泉場の湯の中で知り合い、お互いに親しく対等に話し合った後で、湯から上がって名刺を交換し、相手の肩書を見たとたんに態度が変わってしまったという笑い話をよく聞きます。また高い役職に就いていたときには恐れ敬われていた人が、退職したり左遷されたとたんに挨拶もされなくなったという話も聞きます。このような話を聞くと、世知辛いこの世で生きるために自然と身に着けた処世術がそうさせたと思ういっぽうで、肩書という、


うわべのものに振り回される人間の悲しさ、愚かさを覚えざるを得ません。しかし、これはわが国だけに見られる現象ではないようです。ヨーロッパのある国々では、今でも貴族という身分を持っているだけで人は一目を置くそうですし、貴族のない米国では、その代わりに学歴をもって身分を作ろうという風潮があります。司馬遼太郎氏は著書「アメリカ素描」の中でこのことに触れ、子どもに有名な大学を卒業して高い学歴を身に付けてもらいたいという願望が昂(こう)じて、「ハーバード、プリンストン、イェール」という欲張った名前をつけた母親がいるという嘘のような話を聞いたと記しています。


神様は人の心を見て人間を評価される


しかし、このように目で見えるものによって人を評価してしまう習慣は、何も今に始まったことではありません。時代を超えて昔から人間に共通してあったことでした。冒頭でお読みした聖書の箇所からもそれを知ることができます。紀元前千年、主なる神様はユダヤの初代の王サウルがみこころに反したために、彼を退けてみこころにかなう王を選ばれました。神様は預言者サムエルに、ユダ族のエッサイという人の七人の息子たちの中にみこころにかなう王を見つけたとおっしゃいました。サムエルはエッサイの息子たちの中で背が高く、すぐれた容姿の長男エリアブを見て、彼こそ神様に選ばれた者と思いました。しかし神様のみこころはサムエルの評価とはまったく異なりました。神様は彼に「人はうわべを見るが、わたしは心を見る」とおっしゃり、長男のエリアブではなく、主に全き信頼を置いていた忠実な羊飼いの末っ子ダビデをみこころにかなう者として王にお選びになったのです。私たちはここに人間の選びの基準と神様の選びの基準の根本的な違いを見るのであります。神様は人間の価値を外見や肩書ではなく、その人間の心によって評価するとおっしゃっているのです。


心に書かれた肩書


このように申して来ますと、「いや自分には人に威張れるような肩書などないし、また外見や肩書で人を見てはいない」と言う方があると思います。しかし、その方も立派に肩書を付けておられるのです。それは自尊心、プライドという心の肩書であります。「私は自分の力で立派に生きて来た」「私は大した者ではないが、それでも人より多少はすぐれたところがある」「私は人に陰口を言われるような生き方はしていない」などと自らを評価して高ぶる心、おのれを誇る心、言いかえれば自分を義とする心、このような自尊心はだれにでもあるはずです。この自分を義とする心、自尊心は人間の自己中心、自己愛から発しています。ですから人からさげすまれたり、馬鹿にされたり、疎外されたり、軽蔑されたり、無視されたりすれば腹が立ちます。ところが人の心を問題になさる神様は、心に書かれたこのような肩書をみこころにかなわぬとおっしゃるのです。


神のみこころにかなう心の肩書、かなわない心の肩書


では、神様のみこころにかなう心の肩書、あるいはかなわない心の肩書とは、どのようなものなのでしょうか。聖書にその答があります。


イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカの福音書5章27~33節)


自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書18章9~14節)


このエピソードの中には二つの正反対の心の肩書を持った人たちが登場します。一つは自分の心に「義人」という肩書を付けているパリサイ人と律法学者たち、もう一つは自分の心に「罪人」という肩書を付けている取税人であります。当時、パリサイ人や律法学者はユダヤ人の指導者として社会的な身分が高く、彼ら自身もこのエピソードにあるように自分は律法を正しく守っているという自負心が強い人たちでした。しかしイエス様は彼らについて次のように厳しく非難されています。


律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちは人一倍きびしい罰を受けるのです。(ルカの福音書20章46~47節)


忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいのように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイの福音書23章25~26節)


いっぽう取税人は社会的な身分が低いだけでなく、不正な税の取り立てをして私服を肥人々から嫌われているために、自分は神様の前に正しいとは言えない罪人であるということを自ら認めて、砕かれた心を持っている者が多かったようです。人の心をご覧になる神様は、心の中に義人の肩書を持つ、高ぶった心のパリサイ人ではなく、このような罪人の肩書を持つ、砕かれた心の取税人をご自分のところに招かれたのでした。


いったい私たちはどちらの肩書を持つ者でしょうか。自分自身の心の中を吟味したときに、このエピソードに出て来るパリサイ人のような、内側は汚いのに外側だけを取り繕って正しく見せたいというパリサイ人的な義人の肩書を付けているのではないでしょうか。


イエス様はたびたびパリサイ人や律法学者の心の中を見抜かれ、鋭く指摘されています。たとえばマルコの福音書の中で、イエス様が中風の病人に「あなたの罪は赦されました」と言われたのを聞いた律法学者たちが、心の中でイエス様を非難した言葉をイエス様はお聞きになって次のように反論されています。


その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。・・・・」(マルコの福音書2章6~8節)


このように、神の御子であるイエス様は私たちが心の中で何を考えているのかをすべて見抜かれる方であります。したがって、私たちの心の中を全部ご存じのこのイエス様の御前に、私たちは裸になって「主よ。あなたはすべてをご存じです。私の中には何一つ良きものはありません」と心砕かれ、へり下って出るほかないのです。ダビデは、


主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。(詩篇34篇18節)


と言っていますが、神様は義人ではなく心の砕かれた者、自尊心の高い者ではなく、へり下ってたましいの砕かれた者を救い出すために、ひとり子イエス様をこの世にお遣わしになったのであります。


イエス様は、


心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイの福音書5章3節)


とおっしゃいました。「心の貧しい者」とは心が砕かれ、自分の愚かさ、弱さを知った者であります。イエス様はそのような者は幸いである、なぜならば天国はそのような人のためにあるから、とおっしゃったのです。心のへり下った者はイエス様の招きに応じて自分の罪を悔いてみもとに行くことができ、その結果イエス様の十字架の贖いのみわざによって罪が赦され、天国の国籍を与えられるからです。


パウロはテモテへの手紙第一の中で次のように言っています。


私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。(テモテへの手紙第一1章13~16節)


パウロはイエス様に救われる前は熱狂的なユダヤ教信者であり、自分の信じているユダヤ教が正しく、イエスをキリスト(救い主)と信じる人々を神を汚す者として迫害し、殺害の手助けさえしていました。その当時、彼自身の心の肩書は「義人」でした。しかし復活されたイエス様との劇的な出会いによって、彼は自分を正しいと信じていたのがまったくの間違いであり、神様の御子であり救い主であるイエス様を憎んでいた自分の大きな罪がはっきりと示され、心が砕かれて「自分は罪人のかしらであり、神のあわれみの見本である」と告白するようになったのです。イエス様に出会ってから後の彼の心の肩書は「罪人のかしら」、「神のあわれみの見本」と変わりました。


さきほども申しましたように、私たち人間は自分を義とし、自分を誇るという生まれつきの罪の性質があります。そのためにうわべを飾り、うわべを取り繕うことに心を遣ってしまいます。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とおっしやったイエス様は、さらに


心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイの福音書5章8節)


ともおっしゃっています。自分を義とするような心を持つ限り、心の目は閉ざされ、私たちは神様を見ることはできません。心が聖められてはじめて、その聖められた心の目で神様を見ることができるようになるのです。ではどうしたら心が聖められるのでしょうか。私たちは自分自身で自分の心を聖めることは決してできません。さきほどの取税人のように砕かれた心で神様の前に行き、「神様、私のような心の汚れた者をあわれんでください」と心の底からお願いすれば、神様はひとり子のイエス様が十字架の上で流された聖い血によって汚れた心を洗って聖くしてくださり、「あなたはもう聖い」と言ってくださるのです。パウロはコロサイ人への手紙の中で次のように言っています。


あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1章21~22節)



このように御子イエス様の血による贖いのみわざによって聖められた私たちの心の目は神様を見ることができるようになるのであります。


救われた者の心に書かれた肩書


こうしてイエス様によって罪赦され、罪から救い出された者は、もはや自分を誇ることはありません。自分には誇るべきものは何一つなく、欠け多き土の器に過ぎないことを知ったからであります。しかもそのような器をイエス様が愛し、ご自分のものとしてくださっていること、またそのような器の中にイエス様という、私たちにとって何よりも高価な尊い宝を入れていることを知り、そのイエス様に心から感謝し、器を誇るのではなく、器の中に住んでくださるイエス様を誇るようになります。パウロはコリント人への手紙第二の中で次のように言っています。


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)


また詩篇の中でダビデは次のように言っています。


今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20篇6~7節)


私たちは救われる前、イエス様に出会う前は、みな心に「私は義人」とか「私は立派な人」という肩書を持つ者でした。しかし、救われた後、イエス様に出会った後は、その肩書は「私は罪赦された者」、「私は土の器」、「私はキリストのもの」、「私は主を誇る」というように書き替えられたのです。イエス様はそのような者をご自分のしもべとして、ご自分の栄光を現わされるために、イエス様を証しするために、この世の中にお遣わしになりご自分の尊い救いをひとりでも多くの人に宣べさせようとなさるのであります。


私たちはイエス様を人々に紹介するとき、まず自己紹介しなければなりませんが、そのとき「私はイエス・キリストを信じている立派な者です」と自分を誇るでしょうか。そうではなく心から「私はイエス・キリストという宝を入れている土の器に過ぎません。私はキリストのものです」と自己紹介するのではないでしょうか。そのときイエス様は私たちを通して働いてくださり、このような土の器を用いて救いのみわざを達成してくださり、ご自身の栄光を現わしてくださるのであります。




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