新しい天地と古い天地(1998年)

三 「わたしにつまずかない者は幸いです」

さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(マタイの福音書11章2~6節)


聖書を読んだり、福音のメッセージを聞いたりした方々の中に、神様はわかるけれどもイエス・キリストはわからない、という方がたくさんいらっしゃいます。そればかりか洗礼を受けた人の中にさえもイエス・キリストがわからない、という方が少なくありません。そこで今日は、この聖書の箇所からイエス様がおっしゃった「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」というみことばの意味について、またどうすればつまずくことなくイエス様を知ることができるかという大切なテーマについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。


ユダヤ人はどのようなメシヤ(救い主)を待望していたか


まずはじめに、ユダヤ人がどのようにしてイエス・キリストにつまずいたかについて考えてみましょう。冒頭に引用した聖書の箇所に名前が出ているヨハネは、バプテスマのヨハネであります。このヨハネについては、聖書に次のように紹介されています。


そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。(マタイの福音書3章1~3節)


ヨハネはその頃ヘロデ王によって牢に入れられていましたが、牢の中で聞いたイエス様のうわさは、彼を含めたすべてのユダヤ人が待望していたメシヤのイメージとはまったく違うので、自分の弟子たちを遣わしてイエス様が来るべき救い主かどうかを聞きにやったのです。では、ユダヤ人が頭に描いていたのはどんなメシヤだったのでしょうか。旧約聖書の中で神様はユダヤ人に対して、来るべきメシヤについて次のようにおっしゃっています。


見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義。」と呼ばれよう。(エレミヤ書23章5~6節)


当時の歴史的背景を考えてみますと、ダビデ王によって統一されたイスラエルは、その子ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、その後アッシリヤ、バビロニヤ、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリヤなどの強国に次々と支配され、バプテスマのヨハネが伝道していた当時は、ローマに征服され、その支配下にあったのです。したがって、ユダヤ人は自分たちを支配者の手から解放し、ユダヤの国を救い出してくれる王を、神様が約束されたメシヤとして長いこと待ち望んでいました。


神様が預言者エレミヤの口を通して預言されたメシヤは霊的なメシヤなのですが、彼らは肉の思いから自分たちの国を救ってくれる正義の王、強い人としてのメシヤ像を頭に描いていたのです。そのことについてはバプテスマのヨハネも同じでした。ですから彼の耳に入ってくるイエス様の外見や言動が、彼の頭にある堂々としたメシヤのイメージとはほど遠いばかりでなく、むしろ反対にみすぼらしい姿で、弱い者、貧しい者、病んでいる者、悲しんでいる者と親しく交わっておられるというイエス様のうわさに当惑し、いったいこの人が果たして自分たちが待望していたほんとうのメシヤであろうかと、つまずき疑ったのであります。


聖書で預言されているメシヤ


しかし、聖書は預言者を通してはっきりと、メシヤは見映えのしない姿をとって来られる、あるいは柔和な方として来られると記しています。イザヤ書には次のように記載されています。


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53章2~3節)


このようにはっきりと預言されていたにもかわらず、イエス様の姿を見た者はバプテスマのヨハネに限らずだれでも、この方こそ救い主、メシヤだということがわからなかったのであります。私たちはイエス様の姿をすぐに目に浮かべることができます。それは多くのヨーロッパの有名な画家たちが描いた、肌の色の白い神々しい気高い肖像画から想像するイエス様の姿です。しかし、聖書にはイエス様はそのような姿、形をとって来られるのではないと記されています。しかもゼカリヤ書には、


シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9章9節)


と書かれています。これも私たち人間の常識から考えれば理解できません。人間のイメージにある王は大きな逞(たくま)しい馬に乗り、剛然とあたりをはらう姿ですが、神様が遣わされる王メシヤは、柔和で雌ろばの子ろばに乗られるような、へり下った姿で来られるとはっきり預言されていたのです。


このように、神様が預言者を通して私たちにお示しになっていたのにもかかわらず、バプテスマのヨハネのような信仰のある人ですら、自分の思いに捕われて肉の目に見えるイエス様につまずいてしまったのであります。


人間はイエス・キリストのどこにつまずくのか


しかし今日の私たちもユダヤ人と同じようにイエス様につまずくのではないでしょうか。では私たちはイエス様のどのようなところにつまずくのでしょうか。もう少し詳しく考えてみたいと思います。


一、貧しい生まれのイエス・キリストにつまずく


一つには私たち人間は、イエス様の貧しい生まれにつまずきます。マタイの福音書に次のように記されています。


それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」こうして、彼らはイエスにつまずいた。(マタイの福音書13章54~57節)


イエス様の郷里のユダヤ人は、イエス様がほかの兄弟たちと同じに大工の子として生まれ、育ったのをよく知っているので、どうしても貧しい大工の子としてしかイエス様を見ることができず、そのためイエス様が神の子としての権威をもって聖書の説き明かしをされたり、病人を癒されたりすることにつまずきました。もし私たちが彼らと同じ立場に置かれたらどうでしょうか。やはり同じようにつまずくのではないでしょうか。


二、罪を赦すイエス・キリストにつまずく


二つ目にはイエス様が、罪を赦すと言われたことにつまずきます。


イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。(マタイの福音書9章1~3節)


イエス様は、ご自分が罪を赦すことのできる権威を持つ者であることをお示しになるために、このような発言をなさいました。しかし罪を赦すことのできる方は、神様のほかにはいないことを知識として知っている律法学者たちは、人としてこの世においでになったイエス様を神の子と認めることはできませんでした。ですからイエス様が言われたことは神を冒涜するものだと、イエス様の言葉につまずいたのです。イエス様を人として見た場合には、この律法学者に限らずだれでも同じように聖書の中でおっしゃっているイエス様の言葉につまずくのではないでしょうか。このように私たちがイエス様につまずく場合はほとんどと言ってよいくらい、イエス様を人として見ているからであります。


三、聖書を教える権威を持つイエス・キリストにつまずく


三つ目にはイエス様が宮で教える権威を持っておられることにつまずきます。イエス様が神の宮で天の御国に入れる者はどんな人か、入れない者はどういう人かということを、たとえをもって教えておられたときに、祭司や民の長老がイエス様を次のように非難しました。


イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」(マタイの福音書21章23節)


イエス様は人間から授かった権威によってではなく、神の権威によって宮で人々に教えておられました。しかし人間は神から権威を与えられるということを理解することができません。人間が人間に対して何らかの権威を与えることができるということしか理解できません。神の宮で人に教えることができる者は、祭司や律法学者などのような、聖書の知識を持つ専門家として権威が認められた者に限られていると考えていた人々は、聖書について正式な教育を受けもせず、したがって資格も権威もないイエス様が堂々と神の国について教えておられたことにつまずいたのです。しかしその道の専門家の権威しか認めないのは何も彼らだけではありません。私たちも同じようにつまずきます。


四、神を父と呼ぶイエス・キリストにつまずく


四つ目には、イエス様が神様を父と呼び、ご自分と神とは一つであると言われたことにつまずきます。これも大きなつまずきであります。神様を父と呼び、自分と神様とは一つであるというのは、とんでもないことと思います。


「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。(ヨハネの福音書10章27~31節)


ユダヤ人も私たちもイエス様を人として見ている限り、イエス様のおっしゃった「自分の父は神である」という言葉につまずきます。


五、罪人と親しく交わるイエス・キリストにつまずく


五つ目には、イエス様が罪人と親しく交わられることにつまずきます。


イエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。(ルカの福音書19章1~7節)


当時、取税人はローマ帝国の税金をユダヤ人から取り立てる請負人の手先で、できるだけ人々から税金を多くしぼり取って、余分の金を自分の懐に入れることが多かったので、人々から憎まれ、ユダヤ人社会の仲間入りすることもできず、友人となることさえもいやがられ、犯罪人や売春婦と同じ扱いを受けていました。ところが神の子と称するイエス様がそのような社会的に軽蔑されている人々の友として彼らと親しくされたということは、ユダヤ人から見れば不可解なことだったのです。ふつう人間は友人や仲間によってその人の属している社会階層を判断しますから、そのために意識して自分よりもはるか下の階層の人々とは付き合わぬようにする人が多いのではないでしょうか。ある国々では今でもそれが非常にはっきりとしています。そのような人間の目から見れば、イエス様のなさったことがつまずきになるのは当然でしょう。


六、律法を守らないイエス・キリストにつまずく


六つ目には、イエス様が律法を守らないことにつまずきます。


ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(マルコの福音書2章18節)


律法にはいろいろなときに身を戒める目的で断食することが定められていますが、パリサイ人は週に二度断食をしていました。イエス様は断食を否定されたのではなく、ただそれが単に形式的に行われることを戒めておられるのです。断食に限らず、イエス様は律法を形式的に守ることは偽善的なことだとおっしゃっているのです。


断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。(マタイの福音書6章16節)


イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか。それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。(マルコの福音書3章1~5節)


イエス様はこのように律法を正しく守るというのはどういうことか、どのような心掛けが大切であるか、ただ目に見える形で守るのはほんとうの守り方ではないということをおっしゃっているのです。けれども彼らは「神を恐れよ」と説きながら一見律法を守っていないように見えるイエス様を、社会的秩序に反するものとみてつまずいたのです。私たちも聖書を表面的に読む限りはイエス様のなさったことが理解できません。


七、神の子と称しながら、無抵抗で敵の手に捕えられたイエス・キリストにつまずく


イエス様は、水の上を歩かれたり、死人を生き返らせたりするような、人間にはとうていできない力を示されましたが、そのような力を持ったイエス様がいとも簡単に捕えられ十字架に架けられたのはどういうことか、おかしいではないか、このことに弟子たちをはじめ多くの人はつまずきます。しかしイエス様は弟子たちやユダヤ人が自分につまずくとご自身で次のようにおっしゃっていたのです。


そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。(マタイの福音書26章31節)


「わたしが羊飼いを打つ」とは、神様が羊である人間の罪を、羊飼いである神の御子イエス・キリストに負わせて罰するという神様のご計画のことを指しています。イエス様のおっしゃった通り、弟子たちもユダヤ人もつまずきました。イエス様が十字架に架けられたときユダヤ人たちは次のように言いました。


民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」(ルカの福音書23章35節)


聖書のこの箇所を読んだとき、同じように「どうして神の子であれば自分を救えないのか」と疑問に思われる方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。


イエス・キリストが神の姿を取らず、貧しい人として来られた理由


イエス様は、ご自分が神の御子でありながら、なぜ神々しい神としての姿でこの世においでにならなかったのか、なぜユダヤ人をはじめとして私たちをもつまずかせるような貧しい者の姿でおいでになったのか、という理由を次のようにはっきりおっしゃっています。


人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・・。(マタイの福音書20章28節)


神の御子であるイエス様が人の子として貧しく生まれてくださった目的は、王として私たち人間が仕えるためではなく、反対にしもべとして私たちに仕えてくださるため、そして私たちの罪を贖うためにご自分のいのちを与えてくださるためである、とおっしゃっているのです。パウロは、これについて次のように言っています。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2章6~8節)


聖霊によって開かれた霊によりイエス様を知る


キリスト者の中にもイエス様の道徳的な教訓にだけ目を留めて、その教えを守ることが信仰であると信じている方が少なくありません。そういう方は、栄光の座から降りてこの世に貧しくなって来られたイエス様が自分のために何をしてくださったか、ということがよくわかっておられないのです。そういう方は、自ら卑しくなられたイエス様が自分の罪を代わって負って十字架で死んでくださったからこそ、自分は罪から解放されたのだということがわかっておられないのです。貧しい人の姿を取っておいでになったイエス様こそが自分の唯一の救い主であることは、神の御霊、聖霊によってその人の霊の目が開かれたときでなければわかりません。パウロは次のように言っています。


私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一12章3節)


口先だけで「主よ、主よ」と言うのは簡単です。しかし、心から「私の主イエス様」と言うことができるのは、イエスはキリストであると知識的に理解したからではなく、イエス様の前にへり下り、心砕かれて「私の罪のために死んでくださったことをありがとうございます」と心から感謝する者だけなのです。これこそが御霊に導かれたキリスト者の姿にほかなりません。


わたしにつまずかない者は幸いである


「わたしにつまずかない者は幸いです」とイエス様はおっしゃいました。神様とともにです」とイエス様はおっしゃいました。神様ととも天地万物を創造された全能の神イエス様は、はるかかなたの天の栄光の座から、すべての者を救うために貧しい人間として、しかも無力になって、この汚れに満ちた闇の世の中に降りて来てくださり、私たちの中に立って「わたしにつまずかない者は幸いです」とおっしゃっているのです。私たちひとりひとりがイエス様の救いを受け入れて天の御国を受け継ぐか、それともイエス様につまずき、救いの御手を拒んで滅びの道を選び、イエス様を悲しませ嘆かせるか、それは私たちの選択一つにかかっています。だからこそイエス様は繰り返し繰り返し私たちに、「わたしにつまずかない者は幸いです」と語りかけ続けておられるのです。神様に対する人間よってしか成し得ないにもかかわらず、人間がそのことにつまずくことに心を痛められてイエス様は「わたしにつまずかない者は幸いです」とおっしゃっているのです。イエス様の愛は何と深いことでしょうか。まだイエス様をご存じない方は、私たちを罪から救い出すために、神でありながら貧しい人の姿をとって私たちのところまで降りて来てくださったイエス様につまずくことなく、すなおにイエス様を救い主と信じ受け入れて、感謝と喜びに満たされますように、心からお祈り致します。




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