新しい天地と古い天地(1998年)

二 人の望みと神から来る希望

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ人への手紙10章11節)


今日は「彼」、すなわち主イエス様に信頼する人は失望させられることがない、というすばらしいみことばから、人間の願望と神様から与えられる希望には天地の差があるという問題について考えてみたいと思います。


人間の抱く望み


私たち人間はだれでも願望を持っています。私たちには、いろいろな望みがあります。たとえば昔の人は「無病息災」あるいは「家内安全、商売繁盛」という願望を祈りに込めていましたが、今日でも人は同様な願望、すなわち豊かな生活、家族の安全、健康なからだ、立派な名誉、高い地位、大きな権力などを望みます。しかし私たちはその望みがしばしば失望に、さらに失望が絶望に変わることが多いことを体験します。またこのような目に見える望みだけでなく、私たちはもっと内面的なもの、たとえば安らぎ、信頼、愛などを望みます。聖書にも、


人の望むものは、人の変わらぬ愛である。(箴言19章22節)


とあります。私たちは変わらぬ愛を望みます。変わらぬ信頼を望みます。変わらぬ安らぎを望みます。けれどもよくよく考えてみると、永遠に変わらないもの、永遠に不動のものはいくら探してもないのではないでしょうか。すべてのものがうつろい行くものであるならば、そのようなものに望みを託しても空しさを覚えるだけではないでしょうか。聖書は次のように言っています。


富を得ようと苦労してはならない。自分の悟りによって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、わしのように天へ飛んで行く。(箴言23章4~5節)


富とは金銭的な財産に限りません。先ほど挙げた健康、名誉、地位、権力、あるいは良き家庭なども富です。しかし、聖書では人間が最も持ちたいと望む、これらの富は翼をつけて飛んで行ってしまうものであり、その富にのみ望みを抱いて、それを追い求めても結局失望することになると言っているのです。また詩篇には次のようなダビデの詩が記されています。


私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。(詩篇41篇9節)


ともにパンをわかち合うほどの親しい、信頼した友人までが自分を裏切ったという、悲しい詩であります。信頼している親友でさえも自分が不利と判断したときには裏切るよう人間はまことに自己中心な悲しい存在なのであります。ダビデはまた次のような詩も詠んでいます。


そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。(詩篇69篇20節)


けなされたり、あざけられたりして悲しみ悩んでいるときに、自分を慰める者や同情者を望んだけれども見つからなかったと言うのであります。そればかりか自分の親しい者さえも、かえって病んでいる自分を避けて遠くに立っているだけだとダビデは嘆いています。


私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。(詩篇38篇11節)


困ったとき、苦しみ悩んだとき、この人こそ自分が信頼できる人と望みを抱いて、人に寄りかかろうとしても、その人はすっと身を引いてしまうという体験は私たちにもあるのではないでしょうか。人間が人に抱く望みとはこのようなものなのであります。ヨブ記には次のような箇所があります。


神を敬わない者の望みは消えうせる。その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。(ヨブ記8章13~15節)


「神を敬わない者」とは、神などいないとうそぶく者、この世のことだけに目を留めて生きている者すべてであります。そしてそのような者の望みや信頼は、ちょうどくもの糸、くもの巣のようにはかなく、切れやすいものであると言っているのです。まことに私たちの肉の目で求める望み、この地上のものに置く望みはどれもくもの糸のような、触れれば消えてしまうようなはかないものばかりではないでしょうか。それを知ったとき私たちは絶望するしかありません。


自分の望みに絶望したときに、はじめてまことの望みを知る


しかし、まさに私たちが自分の抱いた望みに絶望したそのときに、神様はまことの望みを与えてくださるのです。神様はその機会をとらえて、絶望した私たちに御霊を送ってくださり、私たちの閉ざされていた霊の目を開いて、まことのたしかな望みがあるということを見せてくださるだけでなく、心からそのまことの望みを求める者には、だれにでも喜んで与えてくださるのであります。したがって絶望も私たちのかたくなな心を砕いてくださるために神様が与えてくださる恵みであると言うことができます。


まことの望みとは神ご自身


では神様が与えてくださるまことの望みとは何でしょうか。それは神様ご自身であります。神様こそがまことのたしかな望みなのであります。ダビデは人生のはかなさを知って、次のように祈っています。


主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢が、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。(詩篇39篇4~7節)


ダビデは自分の残された生涯が残り少なくなったことを知ったとき、人生は何と空しく人生の労苦は無意味で、人間はただ空しく立ち騒いでいるに過ぎない者であるということを悟りました。そして、まことの望みはそのような一時的な空しいものではなく、神様こそがまことの望みであるという告白をすることができたのであります。


しかしなぜ神様が私たちのまことの望みなのでしょうか。それは全能の神であり、創造の神であり、永遠に生きておられる神であり、すべてのものを支配しておられるまことの神様だけが、ご自分に背いた罪の結果として、たしかな望みもなく暗闇の中に生きている私たちを見捨てずに、なお愛してくださっているからであります。そのことのたしかな証明として、神様はご自分のひとり子イエス様を私たちのもとに遣わしてくださいました。そしてこの御子イエス様が、私たちの罪を身代わりに負って十字架の上で死んでくださり三日後によみがえってくださったことによって、私たちは自分ではどうすることもできない罪の束縛から完全に解放されただけではなく、神様から義と認められ、神様の子どもとして永遠のいのちと天国を相続する権利を無代価で与えられたのです。私たち人間が望むべくもない、このようなまことの望みを与えてくださった神様について、ペテロは次のように言っています。


私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(ペテロの手紙第一1章3~4節)


生ける望み


イエス様を信じた者の望みは、信じる以前に抱いていた地上に蓄える資産を持ちたいという、朽ちる、汚れた、いのちのない望みから、すでに天に蓄えられている朽ちることも汚れることもない永遠の資産を受け継ぐことができるという、永遠のいのちの望み、たしかな生ける望みに変えられます。


このように御子イエス様を信じることによって、たしかな生ける望みを与えられた者のそれからの地上の日々の歩みはどのように変わるのでしょうか。イエス様を信じ、生ける望みを持つことができた者がこの世に置かれている状況は、依然として信じる前と変わらないように見えることが少なくありません。しかし、生ける望みを与えられる以前は耐えられなかったような状況に置かれても、人から見ればとうてい耐えられないのではないかと思われるような状況に置かれても、ひとたび生ける望みを持てば不思議とそのような状況にも耐えられるようになるのであります。もっとも、耐えられるようになると言っても自分の力によって耐えることはできません。そうではなく、信じる者の中に住んでくださっているイエス様が支えてくださり、励ましてくださり、希望を与えてくださるので、そのイエス様に拠り頼むことによって力が与えられ、たしかな希望を持って耐えることができるのであります。


パウロは復活されたイエス様に出会ってから後霊の目が開かれて、それまで自分のしていることは正しいと信じてイエス様を信じた人々を迫害し続けて来たことがたいへんな過ちであったことを知り心から悔い改めました。そして、それからはイエス様を伝える器として大きな働きをするようになりましたが、そのために彼は何回も死ぬような苦しみに会うことになります。しかしパウロはこの苦しみについて次のように言うことができました。


兄弟たちよ。私たちがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(コリント人への手紙第二1章8~10節)


このようにパウロが自分の力に拠り頼むのではなく神様に心から信頼したときに、神様はパウロに対して死の危険から今までだけでなく将来も救い出されるという、たしかな希望を与えてくださったので、彼はその神様の力によって耐えられないような苦しみにも耐えることができたのであります。私たちは、これはパウロのような信仰の強い人だからできることだと思いがちであります。しかしそのような考えは見当はずれであります。もちろん私たちの信仰はたいへんに弱く、パウロの信仰には及びもつきません。しかし私たちの中に住んでくださっているイエス様にただ心から拠り頼めば、私たちもパウロと同じたしかな望みを持つことができるのです。


見えるものにではなく、見えないものに望みを抱く


父なる神様はイエス様を信じる者を、ご自分の子として扱われます。そして父親である神様は愛する子どもをご自分の子どもにふさわしいように訓練されます。パウロもその訓練を受けたのです。ですからパウロは苦難のときも、これを父なる神の愛による訓練として受け止めることができました。


「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル人への手紙12章5~7節)


ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(コリント人への手紙第二4章16~18節)


神様のあわれみにより、イエス様によって霊の目が開かれた私たちは、先ほど挙げたこの世の富のような目に見えるものは一時的なものであることを知りました。そして見えるものに目を留め、そこに望みを置くのではなく、肉の目には見えませんが永遠なるものに希望を持つことができました。ですからパウロが言っているように、たとえ苦難に遭って肉体は衰えても、霊はますます強められることを喜び、また今の患難も将来もたらされる永遠の栄光に比べれば取るに足りないほど軽いものとして、勇気をもって耐え忍ぶことができるように変えられるのであります。


望みはただ主にあり


イエス様を信じた者が自分をイエス様にお任せすることができるのは、イエス様がご自分のいのちを捨ててまでも愛してくださり、自分の信仰を、いや自分のいのちを、イエス様にお目にかかる日までしっかり守ってくださる方であることをよく知っているからであります。イエス様は次のようにおっしゃいました。


父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネの福音書6章37~40節)


ここで、イエス様はご自分を信じ永遠のいのちを持つ人々を迎えに天から下りて来られるその日に、それらの人々のからだをご自分の復活のからだと同じ朽ちないからだによみがえらせてくださると二回も繰り返して約束しておられます。私たちはこのイエス様にたしかな望みを抱いて、その日の一日も早く来ることを待ち望んでいるのであります。聖歌の二百三十六番には次のような歌詞があります。


望みはただ主の血と義にあるのみ。いかでか他のもの頼りとなすべき。イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ。ほかは砂地なり。


御誓い頼めば大水も恐れじ。ものみな消ゆとも望みは主にあり。イエスこそ岩な堅固なる岩なれ。ほかは砂地なり。


ラッパの音響く日、義の衣(きぬ)まといて。恐れず御前にこの身は立つを得ん。イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ。ほかは砂地なり。


この聖歌の歌詞のように、神の御子が人となられたイエス様以外のどんなものに頼って望みを持っても、それらは所詮(しょせん)砂地のようなものであり、そのような望みは砂地に跡形もなく吸い込まれ消えてしまいます。しかし、イエス様は神様から遣わされた堅固な岩であります。このイエス様に頼り、イエス様に望みをかける者は、冒頭のみことばの通り決して失望させられることがないのであります。どんなに人生の嵐が吹き荒んでも、イエス様が堅固な岩のようにしっかり守ってくださり、支えてくださり、庇ってくださり、やがて神様の御前に立つ日にも恐れることなく御前に立たせてくださるからであります。どうかひとりでも多くの方が、この世の空しくはかない望みを捨てて、神様が与えてくださったまことの望みであるイエス様をご自分の望みとなさることができますように、心からお祈り致します。




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