新しい天地と古い天地(1998年)

一 サタンを踏み砕くキリスト

わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。(創世記3章15節)


今日は、イエス様がなぜ神の御子でありながら、この地上まで降りて来てくださったのか、という聖書の最大のテーマについて、みことばを引きながらごいっしょに考えてみたいと思います。


原罪


このことを考えるとき、まず人間の原罪、すなわちどんな人間であっても生まれつき持っている罪の性質について考えなければなりません。


神様は、万物を創造なさり、創造の最後にご自分と交わり、ご自分に仕えるものとして、ご自分に似るように人間をお造りになりました。


神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神は、このように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(創世記1章26~27節)


神様が「われわれ」というように複数形でご自分を指しておられることを不思議に思われる方も多いと思いますが、このことによって世のはじめから、父なる神と子なる神が存在されていることがわかります。神様はご自分に似るものとして最初の人アダムとその妻エバをお造りになり、彼らをエデンの園に置き、園の管理をお任せになりました。そのとき神様は次のように彼らにお命じになりました。


神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章16~17節)


しかし、エバはサタンの化身である蛇の誘惑に負けて、神様が「食べてはいけない、食べれば必ず死ぬ」と言われていた善悪の木に実った実を食べてしまった上、アダムにもそれを食べるように勧めた結果、アダムも食べてしまいました。アダムとエバはそれまで自分たちで善悪の判断をする必要はありませんでした。いつも神様に顔を向けて、神様の指示に従っていたので、ふたりは完全に罪から守られていたのです。しかし、彼らは善悪の知識の木の実を食べることによって、神様に逆らい、神様に背を向けて、自分自身で善悪を判断するようになってしまいました。これは自分も神のようになりたいということを意味します。神様の命令に従わず、神様を無視して自分で神を演じることこそ罪であります。


しかもこのことは、最初の人アダムとエバが神様に対する背きの罪を犯しただけにとどまらず、彼らの罪の遺伝子は子孫であるすべての人間に受け継がれ、その結果すべての人間は生れながら罪の性質を持つようになり、その罪のためにすべての人間は神様が警告なさった通り、必ず死ななければならなくなったのです。これが「原罪」と呼ばれるものです。したがってこの生まれながら人間に受け継がれた罪を、自分の努力で取り去ることは決してできません。この罪はただ神様の一方的なあわれみと恵みによって、私たちをその罪から救い出すために私たちと同じように血と肉を持ってこの世に来てくださった神の御子イエス・キリストの十字架上での贖いのみわざによってのみ、取り除くことができるのです。パウロがローマ人への手紙の中で言っているのはこのことです。


すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ人への手紙3章23~26節)

このようなイエス・キリストの尊い犠牲の死がなければ、私たちが生まれながらの罪から救い出されることはあり得ませんでした。


福音予告についての最初の記述


そこで、聖書の多くの箇所で預言されている、この救いのご計画の中から、いちばん最初の原型、すなわち原福音と呼ばれ、聖書のはじめの部分にはっきりと記されている人の救いのご計画について、ごいっしょに考えてみたいと思います。


冒頭に挙げた創世記三章十五節のみことばは、その前後の文章の脈絡から、神様がエバを誘惑した蛇に仰せになったものであることはわかります。しかし、神様がおっしゃったこのみことばが何を意味しているのかは、ただ読んだだけではわかりません。


まして、神様が仰せになったこのみことばにイエス・キリストの福音が予告されているということは、人間の知恵では知ることができません。このみことばを含め神様のみことばの深い意味を知るためには、パウロが言っているように、神の知恵による御霊の説き明かしが必要であります。


まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。(コリント人への手紙第一2章9~12節)


ですから、これから御霊に導かれつつ、ごいっしょにこのみことばの意味について考えて行きたいと思います。


「蛇」について


まず、エバを誘惑した蛇とは何を意味するのでしょうか。聖書の最後に収められているヨハネの黙示録の中に、


こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。(ヨハネの黙示録12章9節)


と記されている蛇は、エバを誘惑した蛇と同一のものです。では、サタン、あるいは悪魔とはいったい何者なのでしょうか。


悪魔、サタンは堕落した天使であると聖書に記されています。


暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂きに上り、いと高き方のようになろう。」しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。(イザヤ書14章12~15節)


神様に仕える者として造られた天使が、自分に与えられた力を過信して、「いと高き方」すなわち神に等しくなろうという高慢な思いを抱いたために、神様から御使いの位を剥奪され天国から落とされたのがサタンであります。


したがってサタンは神様を憎み、神様に逆らい、この世の神、暗闇の世界の支配者として人間を惑わし、人間の欲望を利用して神様に背かせるようにあらゆる機会をねらって人間をそそのかします。また罪を犯した人間を神様に訴え、人間が自分の罪に気づかないままに罪を犯し続け、そして死に怯えることを唯一の喜びとします。サタンは人間にとってそのような恐ろしい存在なのです。


「おまえの子孫」とは


このサタンに思いのままにあやつられている人間は、悪魔に属する者、悪魔から出た悪魔の子どもと言ってもよいのではないでしょうか。聖書には次のように記されています。


罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一3章8節)


冒頭のみことばの中で、神様が「おまえの子孫」と仰せになっているのは、このように自分では気づかないのですが、サタンに属し支配されるサタンの子どもとして、欲望のおもむくままに自分の思いを第一とし、神様に背く罪の中に生きている人間のことであります。


「女の子孫」とは


次に神様が仰せられた「女の子孫」とはだれのことかを考えてみましょう。「女の子孫」とはイエス・キリストを指しておられるのです。なぜでしょうか。それはイエス・キリストの誕生を見ればわかります。聖書には次のように記されているからです。


イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイの福音書1章18~25節)


神様がイエス・キリストを「女の子孫」と言われたのは、このように、イエス様が聖霊によって処女マリヤからお生まれになるということを予告されるためでした。


「おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」とは


「おまえの子孫」が、この世の支配者サタンに属する者であり、「女の子孫」が神の御子が人となってこの世においでになったイエス・キリストであれば、この両者の間には対立があるのは当然です。イエス様は弟子たちに次のようにおっしゃっています。


もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネの福音書15章18~19節)


「世」とはサタンおよびサタンの支配下にあるこの世を愛する人々ですから、彼らは御子イエス様を拒否します。したがってイエス様によってこの世から救い出されて神の側に付く者、「天」に属するものとされた者をも拒否するのです。


「彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」とは


私たちは御霊の助けによって、創世記三章十五節のみことばの意味について、ここまで知ることができました。引き続き「彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」というみことばについて、御霊による説き明かしを求めて行きたいと思います。


まず「彼はおまえの頭を踏み砕き」というみことばは何を意味するのでしょうか。「彼」とは御子イエス・キリストを指し、「おまえ」はサタンを指すということはわかります。ではイエス様がサタンの頭を踏み砕くとはどういう意味でしょうか。それはイエス様がサタンを滅ぼされるということを意味しています。聖書の最後のところには神の御子イエス様がサタンの支配下にある罪に汚れたこの世界を終わらせて、新しい聖い世界を造られることを預言しているヨハネの黙示録が収められていますが、この中に、サタンに対する刑罰、サタンの最後が記されています。


また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。(ヨハネの黙示録20章1~3節)


しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを招集する。彼らの数は海辺の砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20章7~10節)


こうしてエバを誘惑して神に対する背きの罪を犯させたサタンと、そのサタンに惑わされて神様が遣わされた御子イエス様に最後まで反抗した人々は最後には滅ぼされるのです。


では、次に続く「おまえは、彼のかかとにかみつく」とはどういう意味なのでしょうか。だれでも蛇にかかとを噛みつかれれば、痛みで、立つことも歩くこともできなくなるでしょう。ましてそれが毒蛇であれば命にも関わることになります。


しかし、神様はサタンにイエス様をそのような痛み、苦しみに遭わせることをお許しにっているのです。なぜでしょうか。それは私たち人間を罪から救い出してくださるたなのです。神様はサタンに惑わされて神様に背きの罪を犯したアダムとエバの子孫である私たち人間に代わってイエス様に死の苦しみをお与えになったのです。したがって、「おまえは、彼のかかとにかみつく」とはイエス・キリストの十字架を意味します。聖書には神が人となられ、蛇に誘惑されて神様の命令に背いた人間の罪を贖うために、十字架にお架かりになり死んでくださったことが次のように記されています。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2章6~8節)


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(ペテロの手紙第一2章22~24節)


もちろん、イエス様は十字架の上で死んでくださっただけではなく、サタンの頭を完全に踏み砕いて、サタンの最大の武器である死に対する完全な勝利を現わすために復活してくださり、ご自分に属する者に永遠のいのちを与えてくださったのです。パウロはこのことについて次のように言っています。


今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一19章20~22節)


さて、これまで私たちはごいっしょに創世記三章十五節の神様のみことばについて考えて来ましたが、このみことばの意味を単に人間を誘惑したサタンとそのサタンを懲らしめるためのイエス・キリストの戦いというように理解するだけでは、ここに隠された神様のみこころがまったくわからないことになります。けれども、もし私たちが聖霊に導かれてこのみことばを味わうならば、神様に対する自分の大きく深い罪が示され、御子イエス・キリストが十字架の上で死の苦しみを受けられたのは、ほかならぬこの自分を恐ろしい永遠の滅びから救い出してくださるためであったことを知ります。そしてまた自分の罪を心から悔い改め、イエス様を救い主として信じ受け入れるだけで罪が完全に聖められ、神様に義と認められることを知って、神様の前に心から感謝をささげることができるのです。


冒頭の神様のみことばは「原福音」であると申しましたが、神様は人類最初の人間アダムとエバがサタンの誘惑に負けて罪を犯したときに、すでに私たちを罪から救うためのご計画を御子イエス・キリストによってこのように約束されていたということは、何と言う深い神の愛でありましょうか。この考えられないような神様と御子イエス様の愛と恵みに対して私たちがお応えするには、ただ御子イエス様を救い主として信じるだけでなく、信じる者の中に住んでくださっているイエス様から目を離すことなく、イエス様にしっかりと結びついて生きることではないでしょうか。


主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。(テサロニケ人への手紙第一5章10節)




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