私たちはキリストに会った(1997年)

十 「それがあなたと何のかかわりがありますか」

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るの見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネの福音書21章18~22節)


今日は、イエス様がペテロにおっしゃったこのみことばから、神様やイエス様が私たちの生き方については、ひとりひとり、ほかの人と異なるご計画を立てて導いてくださっているということについて、ごいっしょに考えたいと思います。


ペテロに対する主イエスのご計画


復活なさったイエス様は、弟子たちに二度ご自身を現わされましたが、三度目には朝早くテベリヤという湖の湖畔で漁をしていた弟子たちに姿を現わされ、弟子たちと朝の食事をともになさいました。そのとき、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか。」とお聞きになり、彼が「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えると、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい。」とおっしゃいました。この質問と応答が三度繰り返された後、引き続いてイエス様がペテロに言われたみことばが冒頭のみことばです。


イエス様はガリラヤ地方を中心として多くの場所で多くの人々に、ご自分が神の子として父なる神様から人間の罪を赦すために遣わされたことを、みことばと、みわざによって示され、また神様の律法を正しく守っていると自負していた律法学者やパリサイ人や祭司に対しては、偽善者と厳しく非難されました。その結果、イエス様を憎む祭司長たちに捕えられます。そして捕えられる直前に、イエス様はペテロに「あなたはわたしを三度知らないと言う。」と言われていたのです。ペテロは「そのようなことは決して言いません。」と誓ったのにもかかわらず、イエス様がおっしゃった通りに、イエス様を三度知らないと否定してしまったことを心から悲しんでいました。ですから、復活されたイエス様から「わたしを愛しているなら、わたしの羊、すなわちイエス様を信じる者の群れを守り、導きなさい。」という重大な使命を与えられたことが、どんなに嬉しかったことでしょうか。


しかし、その直後にイエス様から、ペテロがそのために投獄され、殉教の死を遂げなければならないことを示唆(しさ)するお言葉を聞いたとき、ペテロの受けたショックはたいへんなものだったと思います。彼はそのとき、どういう行動を取ったでしょうか。


ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」(ヨハネの福音書21章20~21節)


と聞いたのです。イエスの愛された弟子とはヨハネのことです。彼は自分が苦難の道を歩むことになるという自分の将来をイエス様に予告されたときにまず頭に浮かんだのは、ではこのヨハネはどうなのだろうか、ヨハネは自分と違って迫害されて苦しまなくて済むのだろうか、あるいはヨハネもまた縛られて行きたくない所に連れて行かれるのだろうかという、自分と他人との比較でした。


ペテロはイエス様からイエス様を信じた人々を指導するという、重要な働きのためにさまざまな信仰の訓練を受けていました。そのことは、たとえばルカの福音書の中に記されているペテロに対してイエス様がおっしゃったみことばからも推察できます。イエス様は次のようにおっしゃいました。


シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22章31~32節)


このようにイエス様は、どのようなことがあってもペテロのために祈ってくださるという、この上もない約束をしてくださり、ペテロの使命も明らかにしてくださっているのですから、ペテロがイエス様を心から愛し、信頼していれば、イエス様のみこころに従うに当たって他の弟子が受けるかもしれない試練と、自分の受けるべき試練を比べる必要はまったくなかったのです。


ペテロの思惑に対する主の答え


元来ペテロは他人と自分を比較する性質が強かったようです。たとえば、イエス様が金持ちの青年との対話をなさった後の彼の発言からもそれがうかがかがわれます。


イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは、人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイの福音書19章21~27節)


ペテロは、自分の財産を捨てる決心をすることができないでイエス様のもとを去って行った金持ちの青年と比べて、自分たちは家族も仕事も何もかも捨ててイエス様に従って来たという一種の優越感を覚えながら、「ご覧ください。私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」とイエス様に聞きました。ペテロは終わりの日には、熱心な信仰を持つ者がまず報われることを期待していました。ペテロの質問にお答えになったイエス様のみことばからもわかるように、その期待は間違ってはいません。


イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイの福音書19章28~29節)


しかし、この後にイエス様は次のみことばを付け加えられたのです。


ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイの福音書19章30節)


ぶどう園のたとえに見る主のみこころ


イエス様はここで確かに主のために犠牲を払って従った者には、天の御国でその報いを豊かに与えられることを約束なさっています。しかし同時に、その報いを与える順番については主がお決めになるということもおっしゃっているのです。どうしてでしょうか。ここで問題となるのは犠牲を払う動機です。ペテロは何かをいただけるという動機で、一切のものを捨てたように思われる発言をしました。それに対してイエス様はご自分の名のために犠牲を払う者、すなわちイエス様を愛するがゆえに犠牲を払う者はその幾倍の報いを受け、更に永遠のいのちというすばらしい報いを受けるとおっしゃったのです。このようにイエス様はご自分に従って来る者の心の動機を問題にされるのです。更にイエス様はさきほどのみことばに続いて次のようなたとえを話されました。


天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。」彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。」彼らは言った。「だれも雇ってくれないからです。」彼は言った。「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。「労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。」そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」しかし、彼はそのひとりに答えて言った。「私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私は気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。(マタイの福音書20章1~16節)


朝から雇われて働いた者が、夕方から雇われて働いた者と同じ賃金をもらうことは常識から言っても不公平ではないかと、朝から働いた者に同情する思いは私たちにもあるのではないでしょうか。しかし、この主人ははっきりと二つのことを言っています。一つは「私はあなたと一デナリの約束をして、それを払ったのだから、あなたに対して不当な扱いはしていない。」ということ、もう一つは「自分のものを自分がしたいようにするのは当然ではないか。」ということでした。この主人の賃金支払いに対する考えでは、賃金は働いた時間に比例して支払うものではなく、与えられた仕事を感謝して忠実に働く報酬として支払うというものでした。


このたとえによって、主権者である神の子イエス様はペテロに、ご自分の弟子の扱い方については、だれからも命令はお受けにならないこと、また、たとえ人の目には、ある者が他の者よりも寛大に、あるいは親切に扱われるように見えても、ご自分のお考え、ご自分の基準に基づいてなさることは、決して不公平ではないことなどをお示しになったのでした。


そして、このことはペテロだけではなく、イエス様を信じた私たち主のしもべにも適用されるものであることを覚えておく必要があります。


自分に対する主のお取扱いに不満を覚えたら


十四年前に、私の愛するひとり娘を天に召されるという辛い試練を与えられたときに、私は、主は他の兄弟、姉妹にはこのような試練をお与えにならないのに、なぜ自分だけにこのような辛い試練をお与えになるのだろうかと、ペテロと同じように自分と他人とを比してしまい、主イエス様に訴えたことがありました。そのときに与えられたのが、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」というみことばでした。


もしイエス様が他人に寛大で、自分に与えられないものを彼にお与えになるように見えるとしたら、またイエス様が自分の心に悲嘆と苦しみを生じるような境遇をお与えになり、いっぽう他人には物事がすべてうまく運ぶような境遇をお与えになるように見えたなら、私たちはどのように対処したらよいのでしょうか。このためには次のみことばが与えられています。


今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(コリント人への手紙第一13章12節)


ここでパウロが言っているように、私たちはイエス様を信じてからも、なおイエス様のみこころを完全に理解することはできません。なぜなら私たちが肉の衣を着て地上に置かれている限り、私たちの信仰によってはイエス様のみこころのほんの一部しか知り得ないからです。天の御国に移されるまでは、私たちはぼんやりしか映らない昔の鏡で物を見るように、いくら霊の目をこらして見ても、みこころのほんの一部分しか知ることができない者であることをわきまえるべきであります。それがわかったとき、私たちは他人に対する主のお取り扱いを気にしないで、「それがあなたと何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」とおっしゃったイエス様のみことばだけに信頼して、イエス様から目を離さず、イエス様の肩越しに人を見ないようにすることができるようになります。


私たちは主にあるほかの兄弟あるいは姉妹のほうがイエス様から優遇されているように思っているでしょうか。私たちは主にあるほかの兄弟、姉妹が、自分よりすぐれた生まれつきの賜物や、魅力的な性質を持っていることをうらやましいと思っているでしょうか。私たちは自分は誤解されている、あるいは主のために働く自分の働きは正しく評価されていないと思っているでしょうか。私たちは主にあるほかの兄弟、姉妹よりも大きな試練を受けていると思っているでしょうか。もし、私たちがそのような問題で思い悩んでいるならばイエス様にお聞きしましょう。イエス様はペテロにおっしゃったように、「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従いなさい。」とおっしゃるに違いありません。


私たちはイエス様が主にあるほかの兄弟、姉妹をどのように自分とは異なるお取り扱いをなさるかについて気にする必要はまったくありません。そうでなく、私たちはイエス様がご自分のご計画に基づいて、自分を愛してくださっている同じ愛の御手で、その兄弟、姉妹を主のしもべとして導いておられると思うべきであります。


自分の関心を主とお会いすることに向ける


私たちは自分の関心を、主にある兄弟、姉妹を主がどのように取り扱われるかに向けるのでなく、自分に対する主のお取り扱いに感謝しつつ、主に自分をゆだねて、やがてイエス様が私たちを迎えに来てくださる日には、顔と顔を合わせてみこころを完全に知ることができると、その日の来るのを待ち望むことにだけ向けながら、日々過ごすべきではないでしょうか。最後にヤコブの手紙の中からみことばをお読みして終わりたいと思います。


こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブの手紙5章7~11節)




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