私たちはキリストに会った(1997年)
私は聖書の知識にも乏しく、信仰も未熟な一信徒に過ぎません。その私が聖書のみことばを取り次がせていただくようになったのは、イエス様が閉ざされていた私の霊の目を開いて私に出会ってくださり、イエス様の小さなしもべとして福音を宣べ伝えるようにと仰せになったからです。私は子どもの頃は日曜学校に行き、また学生時代には洗礼も受けておりましたので、イエス様のことは耳で聞いていたのにもかかわらず、そのときはイエス様に出会ってはいませんでした。ですから、罪の意味も恐ろしさもわからず、したがって神の御子イエス・キリストの十字架の死の苦しみが自分のためであるとは考えることもありませんでした。私は悔い改めのない、まったく名ばかりのクリスチャンだったのです。
けれども、そのような私をイエス様は一方的に愛してくださり、自分を愛することしか知らなかった私のかたくなな心を砕いてくださり、閉ざされた私の霊の目を開いて私の罪を明らかにしてくださいました。そして、その私の罪を贖うために十字架の上で死んでくださり、また私に永遠のいのちを与えるために、よみがえってくださったイエス様ご自身と出会わせてくださったのです。それは約二十年前のことでした。ヨブはヨブ記の中で、
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。(ヨブ記42章5~6節)
と言っていますが、これはそのまま私自身にも当てはまることであります。イエス様を霊の目で見た者は、イエス様との人格的な交わりに入れられます。そしてイエス様との人格的交わりを通して、イエス様を愛し、自分の生涯の主としてイエス様に従うことこそほんとうの喜びであることを知ります。私がメッセージを通してイエス様を証しするのも、まだイエス様をご存じない方々に、そしてまた、イエス様をより良く知りたいと思っておられる方々に、そのようなイエス様との出会いを通して、イエス様とともにあるほんとうの喜び、すばらしさを少しでもご紹介することができたら、と切望するからにほかなりません。その動機で始めた我が家の家庭集会も、今年で十九年になりますが、毎回イエス様が導き、支えてくださって、いつも喜びで満たしてくださいます。
この本に収められた十のメッセージは、家庭集会や各地のキリスト集会で行なった福音メッセージの中から選んだものです。お読みになって、聖書の同じ箇所が何度か出てきたり、同じような説明が何度か繰り返されていることに気づかれると思います。しかし、このような箇所は、神様が私たちに語ってくださっている重要なメッセージですから、どうかそのことに心を留めていただきたいと思います。
この本をお読みになったお一人おひとりが神様の愛と恵みそのものであるイエス・キリストに出会われて、イエス様の救いのみわざをご自分のものとしてお受入れになりますように、また、イエス様に従う、まことの平安と喜びと希望に満ちた人生を歩まれますように切にお祈りいたします。
ここに版を重ねるにあたり、すべてを導いてくださった、私たちの造り主である神様のご栄光だけが現されますように心から祈りつつあとがきの言葉とさせていただきます。最後に、主にあって表紙のデザイン制作の労をとってくださったテキスタイル・デザイナー藤村倫子姉に心から感謝いたします。
二〇〇二年六月
重田定義