私たちはキリストに会った(1997年)
イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒の働き1章9~11節)
今日は、このみことばにあるイエス様の昇天の意味について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
すべての人間は、生まれながらに神様に対する罪を犯す罪人であり、その罪のゆえに死ななければならなくなりました。その人間を罪から聖めて、死に打ち勝つ永遠のいのちを与えてくださるために、神様の御子イエス様は十字架で死んでくださり、復活してくださったのです。したがって、人間の救いのために最も大切なことはイエス様の十字架と復活であると言うことができます。これについてパウロは次のように言っています。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・・・(コリント人への手紙第一15章3~4節)
しかし、御子イエス様を自分の罪の救い主であると信じた者、すなわち罪から贖い出されてキリストのものとされた者にとって大切なことがもう一つあります。それがこれからごいっしょに考えるキリストの昇天なのです。なぜなら、もしイエス様が昇天なさらなければ、キリスト者の信仰は、希望のない空しいものになってしまうからであります。
イエス様の昇天は、復活と同じく作り話しや、でたらめなことではありません。聖書の確実な証言に基づいた事実であり、私たちキリスト者の信仰の核になっている奇蹟の一つです。イエス様の昇天が事実であることは、冒頭のみことばに「イエスが天に上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。・・・・。」と書かれているように、多くの人々の目の前で起こったことからも明らかであります。
しかし、なぜ私たちのために十字架に架かって死んでくださり、三日目に復活されたイエス様は、そのまま私たちのところにとどまることをなさらないで天に昇られたのでしょうか。イエス様が天に昇られるのは何のために必要だったのでしょうか。
イエス様の昇天は、旧約聖書における預言が成就されるために必要でありました。
旧約聖書の詩篇には、キリストの昇天について、次のように預言している箇所があります。
あなたは、いと高き所に上り、捕われた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。(詩篇68篇18節)
パウロはこの中の「あなたは、いと高き所に上り」という言葉が、天の御国の神様の御座に上られたイエス・キリストを指しているというように、この詩篇の箇所をエペソ人への手紙の中で説き明かしています。
そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです――。(エペソ人への手紙4章8~10節)
すなわち、神様の御子イエス様は肉のからだをとってこの地上に来られ、十字架の死による罪の贖いのみわざと、死に打ち勝つよみがえりのみわざを成し遂げられた後、ご自身のご臨在と永遠のいのちの賜物によって、すべてのものを満たすために、ふたたび天にある神様の御座に凱旋(がいせん)なさった、ということであります。このように神様は旧約時代に、すでに詩篇の作者を通しても、神様の御子が天から人間を救うために降りてこられ、そのみわざを終えられてふたたび天に戻られるということを預言しておられたのです。そしてその預言は神様の御子イエス・キリストによって成就されたのです。
イエス様ご自身も、捕えられる前にパリサイ人たちに、ご自分がやがて父なる神様のみもとに行くことについて、次のようにおっしゃいました。
まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。(ヨハネの福音書7章33~34節)
また復活されたイエス様も、墓の所でイエス様の亡骸が失われていたのを見て悲しんでいたマリヤに、ご自分が天に上げられることを次のように告げられました。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(ヨハネの福音書20章15~17節)
イエス様の昇天は、イエス様に代わってキリスト者に助け主である聖霊が与えられるために必要でありました。
イエス様は弟子たちに、ご自分が昇天することによって助け主なる聖霊が遣わされるから、ご自分の昇天は弟子たちにとって益であるとおっしゃいました。
今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。(ヨハネの福音書16章5~7節)
イエス様は約束通り天に上られた後、イエス様を信じる人々に聖霊を遣わされました。このときの有様を聖書は次のように記しています。
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。(使徒の働き2章1~4節)
ペテロはこれについて、
神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(使徒の働き2章33節)
と証言しています。このような形で聖霊が注がれたのは、このとき限りですが、イエス様はそれからも今に至るまで、信じる者に聖霊をお与えになっておられるのです。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネの福音書14章16~17節)
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14章26節)
私たちキリスト者は、この助け主である聖霊に支えられ、助けられ、導かれてはじめてイエス様を知り、イエス様に従う信仰の歩みが可能になるのです。後で申しますが、イエス様は地上におけるご自分の使命を終えられてから、今度は天において仕事をなさるのであります。そこで、ご自分が地上でお救いになった者の助け主として、ご自分の代わりに聖霊をお遣わしくださったのです。
イエス様の昇天は、仲介者として地上に置かれているキリスト者をとりなしてくださるためにも必要でありました。
イエス様は天で神の右の座に着かれ、まだ肉の衣を着ているために、罪の誘惑に弱い、罪を犯しがちな私たちキリスト者のためにいつもとりなしていてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7章24~25節)
イエス様の昇天は、キリスト者のために天に住まうべき家を備えてくださるためにも必要でありました。
イエス様は十字架に架かられる前に、天に上られる目的を弟子たちに次のように言われました。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネの福音書14章2~3節)
私たちキリスト者が希望と喜びを持って肉体の死を迎えることができるのは、このイエス様の約束のみことばを確信しているからであります。これについて、パウロも次のように言っています。
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。(コリント人への手紙第二5章1~3節)
イエス様の昇天は、神の国の相続を約束された神様が私たちキリスト者にご自分の約束が変わらぬことを保証なさるために必要でありました。
聖書に次のような箇所があります。
神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。――前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。(ヘブル人への手紙6章17~20節)
このみことばにある「二つの事がら」とは、
神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」(ヘブル人への手紙6章13~14節)
の箇所にある、神様のアブラハムへの約束と、それを保証する誓いのことです。また、「幕の内側」とは、天の聖所、すなわち神様の御座のある所です。イエス様は、私たちキリスト者が神様のお側近くに行くことができるという神様の約束の誓いの保証として、私たちの先駆けとなって天に昇られたことにより、私たちもそこに入れるという確かな希望を与えてくださったのです。
イエス様の昇天は、キリスト者が携(たずさ)え挙げられるときの型を示してくださるために必要でありました。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4章16~17節)
私たちキリスト者は、イエス様のご再臨のときに、イエス様が私たちのからだをご自分と同じ朽ちない、聖いからだに変えてくださることを知っています。
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3章20~21節)
しかし、そのとき、そのようなからだに変えられたキリスト者が、どのようにして天に昇って行くのか私たちには想像もできません。そこでイエス様は、私たちに「あなたがたもこのように天に引き上げられるのですよ。」ということを私たちに見える形で示してくださったのであります。
イエス様の昇天は、イエス様が十字架の血による永遠の贖いの御わざを成し遂げられたことを示すために必要でありました。
キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル人への手紙9章11~12節)
イエス様は、元来神様の御子として、天の聖所で神様の右に座しておられる方です。したがって、父なる神様から人間の罪を救済するために地上に遣わされた御子イエス様が、その使命を達成されれば、ふたたび天に戻られ、神様の右に座られるのは当然のことです。イエス様は天に昇られることによって、父なる神様からご自分に与えられた使命を完全に成就なさったことを示されたのです。
次に、イエス様の昇天が、復活後直ちにではなく、しばらく経ってからだった理由は何であったのかを考えてみたいと思います。
イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(使徒の働き1章3節)
もし、イエス様が復活直後に昇天なさったならば、イエス様の復活は作り話か、だれかが仕組んだものと言われても仕方がないでしょう。イエス様は、ご自身の復活が疑う余地のない確かな事実であることを立証なさるために十分な時間をおかけになったのであります。イエス様は、復活後四十日もの間、多くの機会に、弟子たちをはじめ、数々の人にご自身を現わしてくださり、聖書の真理の確かなことをお示しになり、反対者の口を封じられたのです。
イエス様の復活後、ふたりの弟子がエルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に向かっていました。道すがら彼らが十字架に架けられ、墓に葬られたイエス様の亡骸が墓から消えた出来事を話し合っているとき、復活されたイエス様が現われ、ふたりにご自分について書かれている聖書の事がらを説明されたと、聖書に書かれています。
イエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカの福音書24章25~27節)
また、エルサレムで使徒たちとその仲間が集まってイエス様の復活について話し合っている所にも、イエス様が復活された姿を現わされて、彼らを信じさせるために食べ物を召し上がってから、次のようにおっしゃっています。
さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカの福音書24章44~48節)
このように、復活なさったイエス様が昇天の前にしばらくの間地上にとどまられた理由は、数多くの機会に、数多くの人々にご自分を現わされて、復活が確かな事実であることの確信をお与えになるため、また弟子たちにご自分について語っている聖書の真理を十分に説き明かしてくださるためでありました。弟子たちは復活のイエス様にお会いして、イエス様に霊の目を開いていただき、聖書の真理を親しく教えていただいたことによって、自分たちがイエス様の証人であるという自覚が与えられ、世界中に力強く福音を宣べ伝え始めることができたのであります。
以上のように、私たちの主イエス様は父なる神様から与えられた地上でのご自分の任務を完了されて天に昇られましたが、それは天国で休息なさるためなのではありませんでした。主イエス様は私たちキリスト者の住まいを備えてくださるため、私たちキリスト者に天国への確かな希望を与えてくださるため、御霊なる助け主を遣わしてくださるため、神様の右の御座で私たちの大祭司、また仲介者として地上に置かれている私たちキリスト者のためにとりなしの働きをしてくださるために、昇天されたのであります。私たちは、私たちのためにこのような深いご配慮によって、天国まで導いてくださる父なる神様、御子なるイエス様にただ、ただ、心からの感謝を捧げるばかりではないでしょうか。