私たちはキリストに会った(1997年)

八 「私にあるものを上げよう」

ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。(使徒の働き3章1~10節)


今日は、聖書のこの箇所から、ペテロとヨハネのしたことを通して、私たちイエス様を信じた者の歩みについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。


ペテロの持っていた大切なもの


この箇所を読むときに、私たちはうっかりすると、生まれつきの足なえの男をペテロが信仰によって癒したということだけが目に止まってしまいがちです。しかし、ここに書いてあることにはもっと深い意味が含まれているのではないでしょうか。もう一度この箇所をたどってみますと、足なえの男が他の人に物乞いしたと同じようにペテロにも物乞いしました。ペテロは彼を見てほんとうに気の毒に思ったことでしょう。そしてペテロは彼の持っていた大切なものを足なえに上げたのであります。彼が持っていた大切なものは金銀ではありませんでした。ペテロは貧しく、人に上げられるようなお金は持っていませんでした。では何か品物を上げたでしょうか。上げられるような品物もありませんでした。しかし、このような貧しいペテロは、実はだれよりも富んでいたのです。では彼の持っていた富とは何でしょうか。それは主イエスの御霊でありました。パウロは次のように言っています。


あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ人への手紙4章6節)


神様は、イエス様を信じた者を、ひとり残らずご自分の子どもとしてくださいます。そして神の子どもとした私たちに、「お父様」と呼ぶことができるという何ものにも勝る特権を与えてくださったのです。イエス様を信じていない人は、神様が自分の父であることを知ることができません。私たちが神様に対して「お父様」と呼べるのは、イエス様が御霊を私たちの心に遣わしてくださったからであります。神の子どもの私たちが持っている宝とは、このイエス様の御霊なのであります。


ペテロは足なえの男に、自分が持っている最も大切な宝物であるこのイエス様の御霊を上げようと思い、イエス様に祈りながら足なえの手を取って立ち上がらせました。すると、これを見た人たちはペテロが足なえを癒したと思いました。足なえを癒したペテロの力、ペテロのわざを見て彼らは驚いたのです。しかしペテロはそれを直ちに否定しました。それだけでなく、彼は自分の信仰深さが足なえを癒したのでもないと言いました。なぜペテロはこのように言えたのでしょうか。


イエス・キリストを入れる器


彼は、自分はまったく何の力もない者であって、イエス様を入れる器に過ぎない、イエス様を伝える管に過ぎないと考えていたのです。パウロも次のように言っています。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)


私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(コリント人への手紙第二4章7節)


パウロの言う通り、イエス様を信じた私たちは、もはや自分が生きているのではなく、自分のからだは単なる土の器に過ぎないこと、したがって器そのものには何の力もないことを知っています。しかし、それと同時に私たちは、この土の器の中にはイエス様という宝、イエス様の御霊という測り知れない力を持つ宝が入っていることも知っています。ペテロはこの宝を足なえに分けて上げたのです。ですからペテロは、足なえが立ち上がることができたのはペテロの力ではなく、ペテロの中におられるイエス様の力によるものである、ということを群衆にはっきりと証ししたのであります。


イエス様を入れる器とされるためには


ペテロが自分を無にすることができるようになったのには理由があります。ペテロという人は、福音書を読みますとたいへん情に厚く、純粋な人柄であることがわかります。このようなペテロはイエス様を心から尊敬し、愛し、信頼して従って行くのですが、はじめのペテロのイエス様に対する尊敬、愛、信頼というのは、人間ペテロが、人間としてのイエス様に対して寄せる尊敬であり、愛であり、信頼でありました。肉の情によってイエス様を思慕していたのです。それは人間の美しい姿ではありますが、イエス様は、ご自分に対するそのような肉的な思いを嫌われます。そのことの一例として、イエス様が「自分は殺されてよみがえる。」とおっしゃったときに、ペテロはイエス様を引き寄せて「そんなことが起こる筈がありません。」というように諫めたことに対して、イエス様がどうおっしゃったかということからもわかります。


その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイの福音書16章21~23節)


このように、ペテロがイエス様を人間的な愛情によって心配したことに対して、イエス様は「父なる神様のみこころを行なおうとしているわたしに対して、あなたの人間的な思いは邪魔になる。」と叱られたのです。


この人間的なペテロが徹底的に砕かれたのは、彼がイエス様を否認してしまったときでありました。


彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかしペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカの福音書23章54~62節)


この箇所は聖書の中でもたいへん劇的なシーンの一つですが、ペテロの心境は私たちには痛いほどわかります。自分があれほど愛していたはずのイエス様を、しかも、イエス様がペテロに「三度わたしを知らないと言う。」とおっしゃったのに対して、「絶対にそんなことはしない。」と強く否定していたにもかかわらず、捕えられたイエス様の目の前で「知らない。」と三度も言ってしまったのであります。そのとき、彼はどんなに自分を意気地なく、ふがいない、惨めな、情ない人間かと責めたことでしょう。そういうペテロの弱さをイエス様はご承知の上で愛してくださっていたのです。イエス様は捕えられる少し前に、ペテロに次のようにおっしゃっています。


シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22章31~32節)


ここに、ご自分の器として用いるために試練をお与えになったペテロに対するイエス様の深い祈りと愛が感じられます。このイエス様の祈りと愛があったからこそ、ペテロは大きな試みの前にイエス様を否んでしまった自分の惨めさの中から立ち上がることができたのです。


ペテロはこの試練によって徹底的に砕かれ、イエス様の前にへりくだる者とされました。イエス様の力が、御霊が十分に働くために、ペテロには、この試練を通して自分の弱さを思い知ることが必要だったのです。そしてこれは、イエス様を信じる私たちにもそのまま当てはまることであります。パウロも次のように言っています。


しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第二12章9節)


パウロだけでなく、ペテロも主はまったく同じように取り扱われたのであります。このようにして、ペテロは砕かれ、その後殉教の死を遂げるまで、主を入れた器として主イエス様を証しし続けたのです。ここで主イエス様を信じた私たちはイエス様がペテロと同じことを私たちにも求めておられる、ということを知らなければなりません。


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(コリント人への手紙第二5章15節)


イエス様が復活され、天に昇られてから後、ペテロはまさにこのように生きていたのです。その結果、この生まれつきの足なえが、ペテロという器を通して得たものは、単に肉体の足なえが癒されたことよりもはるかにすばらしいもの、すなわち、まことの神様を知ることができたという喜びでした。そのことは、この男が癒された後でペテロとヨハネとともに神を賛美しつつ神の宮に入って行ったと記されていることから知ることができます。


イエス様の器としての役割


さて、ペテロはそれでこの事件を終わらせたのではありませんでした。生まれつきの足なえが癒されたことを見て、驚いて彼らの回りに集まって来た多くの人たちに、イエス様について証しをし、罪を悔い改めて神様に立ち返るように勧めたのです。


イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行ないをしたのです。しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。(使徒の働き3章12~19節)


ペテロは群衆に向かって、イエス様は、神様に逆らい、自分勝手な道を歩む人間の罪を救うために地上に遣わすと、神様が預言者たちの口を通して昔から約束しておられた神の御子であること、その神の御子をあなたがたは無知でしたこととは言え十字架につけて殺したこと、しかし、イエス様は死からよみがえられ、罪を悔い改めてご自分を信じる者にご自分のよみがえりのいのちをお与えになること、だから、あなたがたも罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて神に立ち返りなさい、と語りました。これこそペテロが足なえの癒しということを通して、それを見た人々に伝えたかったことでした。


しかし、このようにペテロとヨハネは、足なえを癒し、人々にイエス様の十字架の死と復活について宣べ伝えていた結果、捕えられて民の指導者、長老、学者、大祭司に尋問されることになります。


彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレイエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4章7~12節)


私たちは、ペテロがここで「救い」という言葉を使っていることに注意したいと思います。彼は、「私たちが癒されるべき名としては」とは言っていません。「救われるべき名」と言っています。また「この方以外には、だれによっても癒しはありません。」とは言っていません。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」と言っているのです。肉体の癒しは、一つのしるしの現われであって、みこころによっては、癒されないことが神のしるしであることもあります。ですから、神様のみこころがどちらであっても、神様は私たちの最善を考えておられるのですから、私たちは感謝してそれを受けるだけであります。肉体が癒されるかどうかよりも、肝心なのは人が罪から救われて、神様に立ち返ることであり、悔い改めて神様に立ち返った者に与えられる永遠のいのちをいただくことであります。


罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)


ペテロたちを尋問した人々は、自分たちに対して臆(おく)することなく堂々とイエス様こそ救い主、キリストであると宣べ伝えているふたりが、律法学者でもない普通の人であることを知って驚きましたが、同時にふたりがイエス様とともにいたことを知りました。


彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4章13節)


そして彼らは、ペテロの力が足なえを癒したのではなく、彼が言ったように、イエス様によって与えられる信仰によって、この足なえに完全なからだが与えられたことを理解することができたのです。


霊的な足なえ


今日の聖書の箇所を味わいながら思うことは、私たちも、かつては生まれつきの足なえだったということです。しかし、それは霊的な足なえ、いのちの道を歩けない足なえでありました。けれども、イエス様を信じる信仰によって、霊の足が癒されて、立って歩くことができるようになりました。そしてイエス様が、


わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)


と言われたイエス様ご自身のいのちの道を、この生まれつきの足なえと同じように、神様を賛美しつつ天国に向かって歩むことができるようになったのです。


そのような私たちに対してイエス様は、今度は私たちの目の前に置かれた多くの生まれつきの霊的な足なえに対して、丈夫なように見えても、なえた肉の足であることも知らずに、その足だけを頼りにこの世の道を歩んでいる人々に対して、ペテロと同じように、「私の持っているいちばん大事な宝物、すなわち、私の中に住んでおられるイエス様を上げましょう。どうかイエス様によって立ち上がり、いのちの道を歩んでください。」と祈りながらイエス様を証しするように、とおっしゃっているのではないでしょうか。私たちは弱くて何もできない者ですが、そのように祈って相手の方と交わるときに、必ずその方に私たちの中のイエス様の御霊が働いてくださり、それまで死んでいたその方の霊の足を立たせてくださるに違いありません。私たちはペテロのように砕かれて、主のしもべとしてイエス様に仕えたいといつも祈るときに、イエス様は必ずその祈りに答えてくださり、私たちを通してご自身のご栄光を現わしてくださるはずであります。パウロは次のように言っています。


あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(コリント人への手紙第一6章19~20節)


このように、かつては生まれつきの霊的な足なえであった自分が、イエス様を信じる信仰によって霊の足で立ち上がることができ、今はイエス様の器として主のご栄光のために生かされているという感謝と喜びを深く覚えながら日々歩むことができたなら、この上ない幸いではないでしょうか。




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