私たちはキリストに会った(1997年)
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」(マタイの福音書25章31~34節)
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。(マタイの福音書25章41、46節)
今日聖書からごいっしょに考えてみたいテーマは、人間の究極的な行き先についてであります。人間の究極的な行き先と言えば、天国と地獄であることはもうおわかりのことと思います。
人間にはふた通りのタイプがあります。一つは、聖にして義なる神様の前に立っても、自分の正しさを主張し続ける傲慢(ごうまん)な人間、もう一つは、それと反対に、自分を愛してくださる神様をないがしろにしてわがままに振る舞っていた罪に気づき、神様の前にへりくだって赦しを乞う人間であります。前者の行き着く先は永遠の刑罰を受ける所、すなわち地獄であり、後者の行き先は永遠のいのちを与えられた者だけが入ることのできる所、天国であります。どんな人間でも、究極的な行き先は神様によってこのどちらかに決められます。その中間はありません。私たちは、そのどちらかに行くしかないのです。ですから、この二つの行き先について今から私たちがよく知っておくことはたいへん大切であると思います。そこでこれから聖書を通して、この二つの行き先である天国と地獄について考えてみたいと思います。
まず、聖書で天とも、神の国あるいは御国とも呼ばれる天国とはどのような所でしょうか。
第一に、天国は神様と神の御子イエス様、および天国の国籍を与えられた神のしもべが住む所であります。神のしもべとはだれのことを指しているのでしょうか。それは自分の罪を認め、イエス様の十字架上の贖いによって、その罪が赦されたことを心から信じて救われた人々のことであります。
天国には神の王座と神の御子の王座があり、聖にして義なる全知全能の神様と御子イエス様が座して聖なる御国を統治しておられます。
主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。(詩篇103篇19節)
ここで言っている主とは、父なる神、神の御子なる神イエス様であります。また、その神様のあわれみによって御子イエス様を信じる信仰を与えられ、罪から救い出されて神のしもべとされた人たちが、この天国の住民なのであります。
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。(ヨハネの黙示録22章14節)
自分の着ている罪という、しみに汚れた着物は、人間の知恵や努力でどんなにいっしょうけんめいに洗っても真っ白にすることはできません。イエス様が十字架で流してくださった聖い血で洗われてはじめて完全に白くなるのです。そしてその真っ白な着物を着た者だけを神様は義、すなわちまったく正しい者と認めてくださって、永遠のいのちの木の実を食べる権利を与えてくださり、天国の都の門をくぐることを許してくださるのであります。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。(ヨハネの黙示録22章3~4節)
このようにして神様のしもべとされた者は、天の都で父なる神と御子なるイエス様の御座の近くに侍って神様の御顔を仰ぎ見つつ、主とともにある永遠に平安な日々を過ごすことができるのです。そして、その人たちの額には神様のものとされたしるしとして、神の名の印が押されているのであります。これは考えられないような永遠の幸せであり、栄誉ではないでしょうか。
第二に、天国には、死も、涙も、悲しみも、苦しみも、夜もないのです。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(ヨハネの黙示録21章3~4節)
この世は神様に敵対する悪に支配された世であり、不義の世であります。そのような所に生きている間、私たちは死や悲しみや叫びや苦しみを避けることはできません。しかし、天国に移された者にとっては、もはやこの世は過ぎ去ったものであり、すべての悲しみや苦しみから完全に解放されるのであります。この世は霊的な闇の世界、真っ暗な夜の世界であります。サタンや罪人は神様の光よりも闇を好みます。そして罪は闇に隠れた所にしか存在しません。しかし、天国には夜がありません。ですから罪の気配すらありません。神様とイエス様のご栄光がいつも照り輝いているからであります。
都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(ヨハネの黙示録21章23節)
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。(ヨハネの黙示録22章5節)
第三に、天の都の光景は、想像を越えたすばらしいものです。
聖書の中の「ヨハネの黙示録」には、神様がヨハネに啓示されたすばらしい天国の情景が記されているので、抜き出してご紹介しましょう。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。(ヨハネの黙示録21章11節)
その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。(ヨハネの黙示録21章18~19節)
また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。(ヨハネの黙示録21章21節)
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(ヨハネの黙示録22章1~2節)
このような聖さに満ち満ちたすばらしい所で、父なる神様、神の御子イエス様とともに永遠に憩うことができるとは、何という幸せでしょうか。
第四に、天国に入る者に、主はその働きに応じて報賞をお与えになります。
このすばらしい天国に入るには、イエス様の十字架の死が自分の罪のためであったことを知って、心から主の前にこれまでの背きの罪を悔い改めること、そうすればだれでも入れていただけるのです。しかもそれだけではなく、天国に入る者に対して、神様、イエス様はいろいろなご褒美を与えてくださいます。そのご褒美は、その人がこの世に置かれていたときに、どのくらい主のしもべとして主のために働いていたかという程度、主にどれほど忠実に従ったかの度合いに応じて、さばきの日に公平に与えられます。これについて、パウロは次のように言っています。
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(コリント人への手紙第一3章10~15節)
パウロはこのように、キリスト者の信仰の働きをイエス様という土台の上に建てた建物にたとえています。神様は各人が建てた建物を火によって試されて、それぞれに応じた報賞を与えられるが、焼け落ちてしまうような建物しか建てなかった人でも、イエス・キリストという土台だけ残っていれば、その人は報賞はいただけないけれども天国に入ることはできると言っているのです。そして、さらに次のようにも言っています。
競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント人への手紙第一9章24~27節)
これはイエス様のしもべとされたすべてのキリスト者にも当てはまることであります。キリスト者が目的にすべきゴールははっきり決まっています。そこに向かって私たち主のしもべは走るのであります。私たちはときどき疲れて立ち止まりたくなります。しかし彼が言っているように、怠惰(たいだ)な自分の外なる人を打ち叩いて従わせつつ、主から朽ちない報賞をいただくことを目指して走るのであります。
イエス様を信じた者はだれでも、救われたら一日でも早く天国に行きたいと思うのではないでしょうか。天国はさきほど申しましたようにすばらしい所だからです。しかし多くの場合、そのように念願してもなかなかお許しがでません。それは、主のためにしばらくの間、この世で働くようにというみこころだからであります。そのことを知っていながら怠けていて、主のために何もしなかったなら、主からお預かりしたタラントを主のために活用しなかったなら、天国に上げられたときに、主から「あなたは、なんという怠慢なしもべなのか。あなたに預けたタラントはどうしたのか。」と言われてしまうのです。私たちは、土台だけ残るような信仰の歩みではなく、試練の火にも焼かれない信仰の建物を建てるように主が望んでおられ、またそれに報いたいと思っておられることを念頭において、この世の歩みを続けたいと思います。
次に地獄はどのような所で、また、なぜ地獄があるのかということを考えてみたいと思います。
第一に、地獄は神様からさばかれた者が永遠の滅びの刑に服する所です。
神様を恐れず、神様の愛を拒み、神様に逆らい続けた者は、世の終わりのさばきの日に神様から滅びの宣告を受けて、永遠の苦しみの刑に服さなければなりません。
そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(テサロニケ人への手紙第二1章7~9節)
永遠の滅びの刑罰というのは、神様から見捨てられ火と硫黄の池に投げ込まれて永遠に苦しむという、肉体の死よりもはるかに恐ろしい刑罰であり、これを第二の死と言います。その刑罰を受けるのはどのような人々かということについて、聖書は詳しく述べています。
獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(ヨハネの黙示録19章20節)
獣とは自分を神として振る舞う、終わりの世に現われる支配者、反キリストのことです。
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(ヨハネの黙示録20章10節)
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20章12~15節)
このように、悪魔、反キリスト、偽預言者、そして神様を恐れず、自分の罪を悔い改めない者、すなわち神様を信じた者の名が記されている「いのちの書」に名前が記載されていない人々は、すでに死んだ者も含めて、すべて第二の死を地獄で味わうことになるのであります。
第二に、地獄はほんとうに存在しているのでしょうか。
地獄は人間が考え出したもので、そんなものは実在しないと言っている人がいます。しかし厳然として地獄は実在しています。聖にして義なる神様がおられる以上、地獄はあります。なぜ地獄があるのでしょうか。ある人は、「聖書の神は愛の神といわれているのに、その愛の神が人間をさばいて地獄に送るなどと言うのはおかしいではないか。」と言います。しかし聖書の神様は愛であると同時に、聖にして義なる神であります。神様ご自身がご自分について、そのように言っておられます。
わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。(イザヤ書45章19節)
もし、すべての人が神様の前に正しく、聖くあることができれば、地獄は必要ありません。しかしご存じのように、そのようなことは望みうべくもないことです。それとは逆に、すべての人が神様に背き、神様に不義を働くものであるからです。
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。(詩篇53篇1~3節)
善とは、神様を信じ、神様のみこころに従うことであります。したがって「神はいない」と言っている者は、当然ながら善を行なうことができるはずがないのです。
主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。(詩篇130篇3節)
まさにその通りであります。そして聖にして義なる神様は、そのご性質ゆえに不義なる人間をそのままに赦すことはなさいません。
主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。(詩篇9篇8節)
神様は、ご自身が義であることを示されるために、地獄を設けてさばきの刑を実行されるのです。したがって、罪に汚れた人間が、地獄の存在と必要性を疑うことは、義なる神様をあなどることになるのであります。もし地獄がなければ、十字架による罪の救いも必要なくなります。神の御子イエス様は何のためにわざわざ人となって十字架の上で肉を裂き、血を流して苦しまれたあげくに死なれたのか、その尊い罪の贖いのみわざは、まったく無意味なものになってしまいます。神様が義であられる以上、地獄は厳然として存在しているのです。しかし神様は義であられると同時に愛の方であられます。したがって人間を地獄に送ることを決して喜んではおられないのです。神様は次のようにおっしゃっています。
彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。」(エゼキエル書33章11節)
私たちは、人間の究極的な行き先である天国と地獄について、いろいろなことを聖書によって考えて来ました。そしてその結果、私たちの前には、天国か地獄か二つに一つの選択肢しかないことを知りました。私たちは自分自身にどちらを選ぶべきかを問う必要があります。もし天国に行きたいのであれば、イエス様の所に行くしか方法はありません。イエス様ご自身がおっしゃっています。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)
人間が天国に行くためには、宗教を信じるのではなく、天から降りて来られた神の御子イエス様という、いのちの道を通る以外にほかの道はありません。この道は、罪から救い出された者だけが通ることができます。そして罪からの救いはイエス様だけがおできになるのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)
モーセは神様の導きに従ってイスラエルの民を率いてエジプトから脱出させ、カナンの地まで行く途中、モアブの地で彼らに次のように言いました。
見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30章15~19節)
この言葉は、とりもなおさず神様が今、私たちひとりひとりに語りかけ、あわれみをもって勧めてくださっていることであるのです。私たちが永遠のいのちと祝福に満ちた天国を選ぶか、永遠の死とのろいに満ちた地獄を選ぶか、神様はその選択を私たち自身に任せてくださっていることを知らなければなりません。最初に、ふた通りの人間があると申しましたが、このメッセージを通して、まだ救いに与かっておられないおひとりおひとりの方が、自分の正しさを主張することを止め、神様の大きな愛の前にへりくだって、神様が差し出された「いのち」を悔い改めと感謝をもってお受け入れになりますように心からお祈り致します。