私たちはキリストに会った(1997年)
時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコの福音書1章15節)
冒頭のみことばは、イエス様がガリラヤで福音伝道の第一声をあげられたときのメッセージです。イエス様は、ここで「時が満ち、」とおっしゃっています。この「時」とは神様のみこころが成る時であります。神様は人間の罪のために汚されたこの世界を終わらせ、罪のない聖い人間だけが入ることのできる新しい世界を創造すると、聖書の中ではっきりと語っておられます。したがって「時が満ち、」とは、この神様のみこころが成就される時が熟したということであります。私たちは、今、世界やわが国で起こっているさまざまな出来事を見るとき、それらが人間の自己中心的な考えや行動によって、言いかえれば人間の罪によって起こっていることがわかります。そして多くの方々が、このように急速に日本が、また世界が動いて行くと、この先どうなってしまうのだろうかという大きな不安を覚えておられることと思います。私たちはこのような状況にある今の時こそ、イエス様がおっしゃったこのみことばに心を留め、神様に悔い改めることを、真剣に考えなければならないのではないでしょうか。
私たちは日常生活の中で、後悔したり、反省したりすることは少なくありませんが、悔い改めということはあまりしないのではないでしょうか。こう言いますと、後悔あるいは反省と悔い改めは同じではないか、と思う方がおられるかも知れません。しかし、悔い改めは後悔とか反省とは違うのです。後悔する、あるいは反省するとは、あんな事をしなければ、あるいは言わなければよかったというように、自分の言動を顧みることにとどまりますが、悔い改めは自分の犯した事を悔いるだけでなく、その悪い行ないを改めることなのです。もしある人が刑法上の罪を犯し、法律によって罰せられ、しかもその人がほんとうに悪かったと反省した場合、あるいは法律にふれるような罪ではなくても、人を偽ったり、人の心を傷つけたりしたときに、悔いてあやまり、「私は悪いことをしました、もう決してそのようなことはしません。」と誓えば、私たちはあの人は悔い改めたというように受け取ります。しかしこれは人としての悔い改めであり、それを受け入れた相手が許したとしても、あくまでも不完全な人間どうしの間における、人に対する悔い改めにとどまるだけに過ぎません。
しかし、イエス様はそのような悔い改めをしなさいとおっしゃったのではありません。「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたのです。ここに、この世的な悔い改めと、聖書で言うところの悔い改めとの明らかな違いがあります。
聖書でいうところの悔い改めは、神様に対する悔い改めであり、この悔い改めは神様に立ち返って神様によって完全に赦していただき、罪から救い出していただくための前段階として必要不可欠な条件なのであります。預言者イザヤは次のように言っています。
悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ、豊かに赦してくださるから。(イザヤ書55章7節)
ここに言われている「悪者」とは、世間で言うところの悪者とは意味が違い、神様に背を向けて自分の考えを第一とし、それに頼って生きる人間であり、聖書で言う罪人とはまさにこのような人間なのです。ですからイザヤは神様を第一とするのでなく自分の考えを第一とし、自分を高くするという罪を犯している私たちに対して、自分中心の考えを捨てて、へりくだってまず神様のもとに立ち返りなさい、そうすれば神様はあわれんでくださると言っているのです。このように、悔い改めは神様に対する背きの罪を犯した人間と神様との関係を回復するために、まずなされなければならない、たいへんに大切な行為なのです。神様に対するこの悔い改めについて更に考えを進めてみましょう。
まず第一に神様に対する悔い改めは、罪に汚れた人間をなお愛してくださる神様の大きなあわれみの上に成り立つものであることを知る必要があります。このことは預言者たちを通して神様ご自身が、ご自分の思いを次のようにはっきりと示されたことからよくわかります。神様は預言者エゼキエルに次のように語られました。
人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。「私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう」と。彼らにこう言え。「わたしは誓って言う。神である主の御告げ。わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33章10~11節)
また神様は預言者エレミヤには次のように語られました。
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。(エレミヤ書31章20節)
エフライムとは当時偶像礼拝をしていた北イスラエルの国のことであります。神様はご自分以外の偶像の神を拝むという罪を犯した北イスラエルの民さえも愛し、あわれみ、「はらわたがわななく」ほどに悲しんでくださるのです。
また、私たちを罪による滅びから救い出してくださるために、神の座から降りてこの世に来てくださった神の御子イエス様もこう言われました。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マタイの福音書9章12~13節)
このように、悔い改めにはご自分に背き、敵対している悪者をも、なお愛し、あわれんで滅びないようにと呼びかけてくださる神様の深いあわれみが、まず基本にあることを覚える必要があります。
次に神様に対する悔い改めには、自分が犯した罪の自覚とそれに対する深い悲しみを伴っていることが大切です。主なる神様は預言者ヨエルを通して心を引き裂き、嘆きと涙をもって悔い改めなさい、と命じておられます。
「しかし、今、――主の御告げ。――心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル書2章12~13節)
もし、私たちが謙虚に自分自身のありのままの姿を心の鏡に写したら、わがままで自分のことしか愛せない、どうしようもなく醜い自分が見えるのではないでしょうか。詩篇の作家は次のように自分の罪の醜さ、重さを心から嘆いていますが、もし私たちが「このことは自分にもそのまま当てはまることだ。」とすなおに同意できれば、それは神様に対する悔い改めの条件が整っていると言えましょう。
神様は私たちの悔い改めが、心の底からのものであるかどうかをご覧になります。聖書には、神様が異邦人であるニネベの人々の悔い改めが心からのものであることをご覧になって彼らを赦されたことが記されています。
ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。(ヨナ書3章4~10節)
このように神様に対する悔い改めは、私たちをあわれんでくださる神様に立ち返ることが伴っていなければならないのです。
旧約の時代には、悔い改めて神様に立ち返ることは神様から人間に与えられた律法に正しく従うことをもって証しとされました。しかし、神様に与えられた律法を完全に守ることが不可能な人間をあわれまれた神様は、そのような私たち人間の罪を赦すために、律法を守ることによってではなく、罪の代価としてこの世界に遣わされた御子イエスを自分の救い主として信じ、受け入れることによって、神に立ち返ることを可能にしてくださいました。
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。(エレミヤ書3章31~32節)
この新しい契約とは、神の御子イエス様が十字架上で私たちのために流された血による完全な罪の赦しによって結ばれた契約であります。
食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカの福音書22章20節)
冒頭のみことばの中の「悔い改めて福音を信ぜよ。」というイエス様のメッセージはこのことを意味しているのです。福音とはイエス様の十字架上での死によって、私たちの罪が赦されたということにほかなりません。どんなに正しい行ないをしようと思ってもできない私たちにとって、この新しい契約は、はかり知れない恵みであります。
神様に対する悔い改めは、神様に直接に、しかもすべて隠さずに心からすることが大切です。その意味で次に挙げたダビデの悔い改めの祈りは私たちにとってよい手本ではないでしょうか。
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。(詩篇51篇1~4節)
しかし、私たちは信じてから後も、天に召されるまではこの世にあって不完全な肉をもって生きているために、しばしば神様に罪を犯してしまいます。けれども罪に気づいたとき、すぐにそれをイエス様の前に言い表わして悔い改めれば、イエス様は父なる神様にとりなしてくださると次のみことばによって約束してくださっているのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章34節)
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル人への手紙7章24~25節)
しかし、もし神様に対する悔い改めが手遅れになった場合はどうなるのでしょう。神様に対する悔い改めが手遅れの場合の一つは、まったく悔い改めずに死んだ場合です。死んだ後で悔い改めようとしても死後に救いの機会がないからです。イエス様は悔い改めることなしに死んでよみに落とされた金持ちに、アブラハムの口を借りて次のように宣告されています。
私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。(ルカの福音書16章26節)
死んでから神様に悔い改めをしようとしても、もはや手遅れであることがこのみことばからもわかります。
それならば死ぬ間際に神様に悔い改めればよいのではないか、生きている間は自分の思いのままに自由に生きたいからと考える方もいるでしょう。もし私たちが自分の死の時を正確に予測できれば、それも可能でしょう。しかし、人間が自分の死の時を予知することを神様は許しておられません。病気によるか、災害によるかにかかわらず、死は何時訪れるかわからないのです。イエス様は次のようなたとえを話されました。
ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」そして言った。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」しかし神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。・・・・。」(ルカの福音書12章16~20節)
またヤコブは次のように記しています。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブの手紙4章14節)
ですから手遅れにならないうちに自分の罪を神様の前に悔い改めることが、救われるために最も大切なことです。
手遅れになるもう一つの場合は、悔い改める以前に、終わりの日、すなわちさばきの日が来てしまう場合です。イエス様は次のようにおっしゃっています。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。(ヨハネの福音書12章48節)
では終わりの日、神様のさばきの日はいつ来るのでしょうか。この問いに対してイエス様は、
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。(マタイの福音書24章37~39節)
と言われています。このように終わりの日は、私たち人間にそれがいつか予測することはできません。しかし今、終わりの日の近いことは、その前兆として次のようにイエス様が言われたことが、すでに現実に私たちの回りに起こっていることからも私たちは察知することができます。
イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」(マタイの福音書24章3~8節)
イエス様は冒頭のみことばの中で、「神の国は近くなった。」と言われました。これには二つの意味が含まれています。
一つは、神の御子イエス様が、神様と神様に背いた罪人である私たち人間との和解の仲介者としてこの世に来てくださり、私たち人間の罪を身代わりに負って十字架に架かり、罪を贖ってくださったという大いなるみわざによって、私たちが神の国に入ることのできる道が整えられたという意味です。イエス様が神の国への道そのものとなってくださったのです。イエス様は次のようにおっしゃっています。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14章6節)
もう一つの意味は、イエス様がこの世に来られたことによって、人間の罪に汚されたこの世界を滅ぼして、新しい聖い神の国を創造されるという、神様のご計画が近くなったということです。神様は預言者イザヤを通して次のように約束しておられます。
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。(イザヤ書65章17節)
またヨハネは黙示録に啓示によって次のようにこの光景を記しています。
また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と、地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」(ヨハネの黙示録21章2~5節)
愛とあわれみに富みたもう神様は、私たちがさばかれて滅びることを悲しまれ、ひとりでも滅びることなく悔い改めてご自分に立ち返り、新たなるいのちによって永遠に生きることを望んでくださっています。ペテロは次のように書いています。
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロの手紙第二3章9節)
私たちは、この主なる神様のあわれみと忍耐を感謝し、時が満ちた今、手遅れにならぬよう、ひとりでも多くの方が神様の呼びかけにすなおに従い、悔い改めて神様に立ち返られるように切に祈りたいと思います。