私たちはキリストに会った(1997年)

五 「私たちはキリストに会った」

その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊。」と言った。ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は十時ごろであった。ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。(ヨハネの福音書1章35~41節)


今日はイエス様が、救われた私たちひとりひとりに望んでおられるイエス・キリストとの体験的出会いという大切なテーマについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。まず最初に、聖書のこの箇所の中から「私たちはキリストに会った。」と言ったふたりの弟子のことから、イエス様との体験的な出会いについて考えてみましょう。


バプテスマのヨハネは、ユダヤの民がずっと待望していた神の御子キリストの来られることを神様から知らされ、その前に、水による悔い改めのバプテスマを人々に授けるようにと、ヨルダン川の岸辺ベタニヤの町に遣わされていました。そのヨハネが冒頭の箇所の出来事の前日に、自分の方に向かって歩いて来られるイエス様を見つけて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と、ついにお会いできた救い主イエス様を喜んで証しし、またこの方が神の御子であるということも証言したのです。


そこでその翌日、イエス様が歩いて行かれるのを見たヨハネが、ふたたび「見よ、神の小羊。」と言ったとき、それを聞いたふたりの弟子はどうしてもこの方について行きたいと思ったのです。


イエス様はこのふたりがご自分に会いたいと切望しているのをお知りになり、ふたりに「来なさい」とおっしゃって、ご自分が泊まっておられる所まで来ることを許されました。そして「その日彼らはイエスといっしょにいた。」とあるように、その日ずっとイエス様といっしょにいたふたりはイエス様との交わりを通して、この方がほんとうに救い主、キリストであることを体験的に知ったのです。救い主、キリストに出会った喜びでいっぱいになったアンデレは、すぐさま自分の兄弟シモンを見つけ、心を踊らせながら「私たちは救い主、キリストに会った。」と語ったのです。


救い主、キリスト


ところでイエス様を信じていない人でも、よくイエス・キリストと続けて言います。しかしご存じのように、これはイエス・キリストという姓名ではありません。イエス・キリストとは、キリスト、すなわち救い主であるイエスという意味であります。それゆえキリストに会った、と言って喜ぶことのできるのは、イエス様を救い主と信じている人であってこそ言えることなのです。では、その救い主、キリストとはどんな方かということについて、ここで少しお話ししたいと思います。救い主とは、その言葉の通り、罪の泥沼の中でもがいているのも知らずに生きている私たち人間を、その泥沼から救い出してくださるために、この世に来てくださった方です。それではその罪とはいったいどんな罪なのでしょうか。それはご自分の最も愛するものとしてお造りになった人間が造り主である神様に目を向けようともせず、自分の勝手な判断や欲望に支配されて生きていることであります。そしてすべての人間はこの罪を持って生まれているために、ローマ人への手紙に、


罪から来る報酬は死です。(ローマ人への手紙6章23節)


と記されているように、みな死ななければならないのです。そのような、神様からご覧になって救いようのない生き方をしている私たち人間をあわれまれた神様が、私たち人間のご自分に対する罪を取り除いてくださり、救い出してくださるために私たちの所にお遣わしになった方、これが救い主、キリストです。神様はキリストを私たちの所にお遣わしになるという約束を、はるか昔から、旧約の時代に神様のみことばを伝える役目を与えられていた預言者たちの口を通してなさっていました。その一つ、預言者イザヤに示されたものをご紹介します。


ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ書9章6~7節)


神様は私たちに、ひとりの男の子を与えてくださる、しかしその男の子はただの人間ではなく、ご自分に背き、罰せられるべき私たち人間に、ご自分との平和をもたらし、私たちを永遠に治めてくださる神である、と約束しておられるのです。この方こそ神が人となられたイエス様であります。


父なる神のもとを離れ、この世に来られたキリスト


そのイエス様は私たちの痛み苦しみを理解し共有してくださり、私たちの罪を身代わりに負ってくださるために、父なる神様のもとを離れて、神でありながら人としてこの世に生れてくださいました。そして約二千年前、イエス様がこの救いの目的を達成されるために、人々の前にご自身を現わされたとき、多くの人々が人となってこの世に来てくださったイエス様に出会ったのです。おびただしい数の人たちがイエス様の顔を見たり、イエス様の話を聞いたり、イエス様のなさったわざ、奇蹟を体験しました。またある人たちは直接イエス様と問答もしました。けれども、そのような多くの人たちの中で、はじめに出て来たふたりの弟子のように、この方がキリストである、救い主である、とはっきり知って、心から喜んだ人々は非常にわずかでした。この方こそ自分が待ち望んでいたキリストであると確信できた人は、心を開いてイエス様の話に一心に耳を傾けたすなおな人たちだけでありました。イエス様ご自身が「わたしが聖書に預言されているキリストである。」とおっしゃっているにもかかわらず、イエス様を見た多くの人々にはそれがわかりませんでした。


イエスは、ご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか。」と彼らは言った。(ルカの福音書4章16~22節)


このように多くの人は、イエス様がご自身について書かれている聖書の箇所を読まれ、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」とおっしゃったにもかかわらず、また読まれたみことばに喜び、かつ驚いたにもかかわらず、イエス様をただの人間としてしか見ることができなかったのです。


キリストに会った人々


しかしバプテスマのヨハネの弟子のように、イエス様に会ってイエス様がキリストであることがわかった人々は他にもいました。そのひとりはサマリヤの女でした。サマリヤ人とユダヤ人はもともと一つの民族でしたが、サマリヤ地方に北から攻め込んで来たアッシリヤに征服され、ここに移住した異民族との間に混血が進み、社会生活や宗教生活がユダヤ人とたいへん異なるようになったために、ユダヤ人は彼らを異教徒として軽蔑していました。イエス様はサマリヤの町を通られたときに、この異邦人として軽蔑されていたサマリヤ人の女に飲み水を求められました。この女は次々に夫を変え、今もまた別の男と同棲しているふしだらな女でしたが、イエス様ははじめて会ったこの女に、彼女がそれまでにしたことを適確に指摘され、またユダヤ人も異邦人もやがては同じまことの神様に礼拝するときが来ることをお話しになりました。そして最後に救い主、キリストを待ち望んでいるこの女に答えて、ご自身がキリストであることを明らかになさいました。


女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネの福音書4章25~26節)


イエス様がおっしゃったことに大きく心を動かされたこの女は、町へ行って人々にイエス様のおっしゃったことを言い広めました。サマリヤ人たちはどうしたでしょうか。聖書には次のように記されています。


さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。そこでサマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そしてさらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネの福音書4章39~42節)


イエス様は、


わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マタイの福音書9章13節)


とおっしゃいましたが、ユダヤ人から罪人として軽蔑されているサマリヤ人が、自分たちこそ神に選ばれた正しい民であると豪語していながら、今もイエス様がキリストであることを受け入れることのできないユダヤ人よりも先に、キリストであるイエス様に出会って「この方はほんとうに救い主だ。」と心から喜ぶことができたのもまた、私たちの思いを越えた神様のみこころなのであります。


またもう一つの例として、生れつき盲目であった人とイエス様との出会いがあります。ユダヤ人たちは、イエス様がキリストであると告白する者があれば、彼らの社会から追放すると決めていましたので、イエス様が生まれつきの盲人の目を癒されたことを聞いて、彼を詰問しました。しかし彼は、「あの方が神から出ておられるのでなかったら盲目に生れついた者の目を開けられるはずがありません。」と答えたために追放されてしまったのです。その結果については聖書のみことばから見てみましょう。


イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(ヨハネの福音書9章35~38節)


この生れながらの盲目の人は、自分の長い間の苦しみを通して心が砕かれていたためにイエス様に肉眼だけでなく、霊の目も開いていただいたときに、イエス様をキリストとして霊の目で見ることができ、イエス様を救い主と信じることができたのです。


このように、イエス様に出会ってイエス様がキリストである、と信じることができた人たちは、自分を義、すなわち正しいとしている人ではなく、みな自分がいかに小さく無力であるか、正しいことは何もできず、肉の誘惑にすぐに負けてしまうような弱い者かを思い知っている人々でありました。ですから彼らはイエス様がキリストであると知ったときに、ただ信じただけではなく、みな心から喜んでいます。これがイエス様がキリストであることを知った人間の反応です。私たちがキリストであるイエス様に出会ったかどうかは、これと同じように、私たちにこの霊的な喜びがあるかどうかによって判断できると言ってもよいと思います。


天に戻られた後でもキリストに出会うことができる


イエス様は私たち人間の罪を贖うため十字架にお架かりになり、イエス様を信じる者に朽ちないよみがえりのいのちを与えてくださるため三日後に復活なさいました。そしてイエス様は復活なさったご自分を、弟子たちをはじめ五百人以上のイエス様を信じる人々の目の前にお現わしになってから天にお戻りになりました。イエス様が天に戻られてから後は、私たち人間はそのイエス様を肉の目で見ることも、触れることもできません。では、イエス様が天に戻られた後に人はもうイエス様と出会うことはできないのでしょうか。決してそうではありません。イエス様は地上に残された人々が、肉の目では見えなくても救い主であるイエス様と出会うことができるようにしてくださったのであります。そして今日まで多くの人々がキリストに出会っていますし、これからもその体験をされる方がたくさん出て来るはずです。


わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。(ヨハネの福音書14章16~17節)


助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14章26節)


とイエス様が天に昇られる前に約束してくださった助け主としての真理の御霊、聖霊によって、また聖書のみことばや兄弟姉妹との交わりを通して、また祈りを通して霊的にイエス様と出会うことができるのです。


私たちが砕かれた心をもってイエス様をもっと深く知ることができるように、イエス様との霊的な出会いをさせていただくように心から祈り求めるとき、御霊の助けによってイエス様は目には見えなくてもいつも私たちとともにいてくださることを確信させてくださいます。そして聖書のみことばによって心を満たしてくださり、平安を与えてくださり、試練に会ってもイエス様にすべてをおゆだねすることができる揺るがない確信を与えてくださるのです。これが、主イエス様との個人的な出会いにほかなりません。


ここで一つお話ししたいことがあります。それは、このようなイエス様との個人的な出会いを持っていなくても、救われている方はいらっしゃるということです。神様の前にご自分の罪を認め、悔い改めて、助けてくださいと祈った方は、次のみことばの通りに救われているのです。


主の名を呼ぶ者は、みな救われる。(使徒の働き2章21節)


では、救われて、罪赦され、天の御国に入れていただければ、それだけで十分なのでしょうか。イエス様は信じた人々が、そのようにキリスト者として生まれたばかりの状態にとどまっていることをお喜びにはならないのです。救いに与かった人々がみな、更にご自分と個人的な、人格的な出会いをして成長してほしいと望んでおられます。パウロは次のように言っています。


私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(テモテへの手紙第二1章12節)


「私のお任せしたものを」とはパウロの信仰であり、また彼のいのちであります。「かの日」と言うのは、イエス様が迎えに来てくださるご再臨の日、あるいは天に召されて神様の前に立つ日であります。このように言うことができるのは、彼がイエス様と個人的に出会い、霊的な交わりを通してそれがどれほどすばらしいものかを体験的に知ったからにほかなりません。その結果パウロはイエス様にすべてをおゆだねすることができたのです。


主イエスは救われたすべての人との親しい交わりを望んでおられる


イエス様は聖書の中に出て来る人々だけではなく、イエス様が罪から救い出されたすべての人に、このような出会いの体験を持ってもらいたいと願っておられます。イエス様はすべての人を救うために十字架にお架かりになりましたが、すなおにイエス様を信じ、救われたひとりひとりに、更にご自分との親しい交わりの体験を持つことを切望しておられるからです。


またヨハネの黙示録の三章二十節でイエス様はこうおっしゃっています。


見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)


これはイエス様を信じた人たちに対して、また教会に対して言っておられるみことばであります。すでにイエス様を信じ受け入れながらイエス様を心の外に締め出して生きている者を指しておられます。締め出されたイエス様は私たちの心の扉の外に立ってくださり、心の扉を叩いて「わたしはあなたのところに入ってともに食事をしたい、個人的な親しい交わりをしたい。」とおっしゃっているのであります。イエス様から心が離れて、さまよい歩いているような者さえ、どこまでも見捨てずに心配してくださるイエス様の愛は、何と深い愛でありましょうか。


イエス様の呼びかけに耳を開いて、イエス様ご自身との人格的交わりをいただいた結果は、私たちの中に起こる深い霊的な喜び、平安、希望と、イエス様に対する絶対的な信頼と感謝であります。この体験を一度持った方は、もうイエス様から離れることはありません。その方の価値観は一変し、その人生の目的はまったく新しいものとなります。どうか、このすばらしいキリスト・イエスとの出会いを体験なさり、「私はキリストに会った。」と証ししながら、喜びをもってキリストのものとしての新しい歩みに導かれますように、心からお祈りいたします。




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