私たちはキリストに会った(1997年)
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイの福音書6章26~30節)
今日はこのみことばから、空の鳥、野の百合から私たちが何を学ぶべきかをごいっしょに考えてみましょう。
まず私たちが注目しなければならないのは、「空の鳥」「野の百合」から学ぶということです。イエス様が「空の鳥」とおっしゃっているのは、人間に飼育され、巣を与えられ、渇かないように、飢えないように十分な水と餌をもらっている鳥ではなく、野生の鳥、野鳥を指しておられるのです。同じように「野の百合」は、人に栽培されて、枯れないように美しい花を咲かせるように水や肥料を与えられ、倒れないように支柱を立ててもらっている百合ではなく、野生の百合のことを言っておられるのであります。イエス様はその彼らから学ぶようにとおっしゃるのです。では私たちは彼らから何を学ぶべきなのでしょうか。
まず私たちは彼らから神様に対する全き従順を学ぶのであります。では彼らのどこに神様に対する従順を見ることができるのでしょうか。それを知るために私たちは謙虚に彼らを観察する必要があります。
最近はバードウオッチングという言葉がわが国でも使われるほど、野鳥を観察することが流行の一つとなっています。いろいろな野鳥が、さえずったり、飛んだり、枝に止まったり、巣を作ったり、雛に餌を与えたりしている様子は、ちょっと見るといかにも楽しそうに見えます。しかし、もし一羽の野鳥がどのように生れ、育ち、生き、そして死んで行くかを詳しく観察することができるならば、鳥にとっては楽しみより、むしろ生きるための厳しい日々の多いことがわかるでしょう。苦労して作った巣が荒らされ、せっかく生んだ卵や育てた雛が奪われることもあります。また人間をはじめ、他の動物や鳥にいのちすら狙われることもあります。穏やかな日々ばかりが続くことはありません。激しい嵐の日もあり、灼熱の夏もあれば厳寒の冬もあります。干ばつや、それとは反対に洪水で餌が取れない日が続くこともあるでしょう。あるいは心ない人間の手による開発のために生きるのに適した生息地を奪われることもあります。
しかし、どんなにこの世の冷酷さに打たれても、どんなひどい環境に置かれても、野鳥は自分の不幸や不遇を嘆くことなく、自分の境遇を他の鳥と比較することなく、創造主なる神様に全き従順をもって従い、神様に身をゆだねて黙々とその日その日を生き、神様の定めのときが来れば黙々と死んで行くのです。このような空の鳥を通して、造り主であり、万物の支配者である神様はご自分の栄光を現わされるのです。
野の百合の場合はどうでしょうか。私たちはいつもは野の百合を見ても、ただ自然の中で芳香をただよわせ、楚々として咲いている清楚な美しさに感動するだけで終わってしまうのではないでしょうか。しかし、もっとよく野の百合を観察するならば、彼らからも私たちは神様に対する従順を学ぶことができます。
まず野生の百合はどこに見られるのでしょうか。原野や谷間や岩陰などその場所はいろいろです。その場所が百合の生育に必ずしも適しているとは限りません。日のよく当たるところもあれば、日陰の場所もあります。地味豊かな土地ばかりでなく、痩せた地にも生えています。人目につかない場所にあって、その存在がまったく知られずに一生を終わる百合もあるでしょう。しかし彼らはもっと条件のよい環境に生えている百合をうらやむことなく、どんな場所に置かれてもつぶやくことなく、自分を造ってくださった神様に全き従順によって従い、自分の置かれている場所で、美しさの限りを尽くして咲きます。また日照りで枯れることがあっても、あるいは、ようやく花が開いたときに、風によって折られたり、人の手によって切り取られることがあっても、彼らはその瞬間まで神様に従い、神様にゆだねて精一杯生きます。このような野の百合を通して、造り主であり、万物の支配者である神様は、ご自身の栄光を現わされるのであります。
このように空の鳥、野の百合を詳しく観察できたときに、私たちは空の鳥、野の百合ばかりでなく、自然界は天体の運行から小さな虫の営みまで、すべてが創造主なる神様に全き従順をもって従っていることを知ることができます。しかし、ここにただ一つだけ例外があります。それは私たち人間です。私たちは自分を、あるいは人間を真剣に吟味したときに、神様に対する全き従順をもって従っている自然とは全然違う生き方をしているということに気づくのではないでしょうか。
私たちは自分の置かれている環境、状況がどんなに厳しくても、それを神様から与えられたものとして、空の鳥、野の百合のように従順に受け入れて平安でいられるでしょうか。とてもそのようなことはできません。私たちは自分の暮らしについて、仕事について、健康について、家族や友人について、あるいは社会について絶えず心配し、思い煩います。そして自分の思い通りにならないと苛立ったり、嘆いたり、不平を言ったり、あるいは不満を持ったままあきらめようとしたりするのではないでしょうか。
ではなぜ人間だけが思い煩うのでしょうか。それは人間が、人間を含め天地万物をお造りになった神様に背き、限りある人間の力や知恵だけに頼って生きようとするからです。イエス様は冒頭のみことばの中で、
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。(マタイの福音書6章27節)
とおっしゃっていますが、神様を見失った人間は、心配しても仕方がないことを知りながらも心配するしかないのです。
イエス様は、そのような人間に対して、
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。(マタイの福音書6章26節)
なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。(マタイの福音書6章28節)
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどまでに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。(マタイの福音書6章30節)
とおっしゃっています。
私たちはこのみことばによって、人間の思い煩いの原因は、私たちを他の被造物よりもすぐれたものとしてお造りくださった神様を見失ったためであることを知るのです。
創世記には私たち人間を神様がお造りになったときの状況が次のように記されています。
神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・」と仰せられた。(創世記1章26節)
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)
このように、神様は人間をご自分に似るものとしてたましい、すなわち霊を吹き込んでお造りになりました。その目的は神様が私たち人間との意思疎通をお望みになったからであります。その人がいかに見映えがしなくでも、また何の功績がなくても、ただ神様に似るものとして神様と親しく交わることができるように造られているという点において、人間は空の鳥、野の百合よりもすぐれた装いを与えられているのです。しかし、悲しいことにこのように造られた人間は、みこころに反して神様から背き離れてしまいました。それは、アダムとエバが神様の言いつけに背いて自分の欲に従い、食べてはならない木の実を食べたことに発しています。
罪によって霊が衰えた結果、神様を見失った人間には、神様を信頼することもできず、まして神様に自分をゆだねることなどできません。ですから明日のことはもちろん、今日の自分の状態についても思い煩うのであります。
このように霊が衰えて神様が見えなくなったあわれな人間に対して、イエス様は神様に全き従順をもって従っている空の鳥、野の百合を見ることを通して、人間は神様に似るものとして神と交わるように造られた神の被造物であること、また人間は自分を創造することもできなければ、自分を維持することもできない被造物であることを自覚して、神様が人間をお造りになった原点に立ち返り、神様に全き信頼をもって従うように、とおっしゃっているのです。
それに反して、人間が神様を忘れ、神様が養ってくださっていることに気づかずに、自分の力で自分を養おうとするならば、たちまち日々の生活を含めてあらゆることについて思い煩いや不安が起こります。思い煩いは貧しいから起こるのではありません。富める者にも同じように、いや貧しい者以上に起こります。富と権力を手にしたソロモン王は、伝道者の書の中で次のように言っています。
金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。(伝道者の書5章10~13節)
私たち人間が思い煩いから根本的に解放されるにはどうしたらよいでしょうか。それは神様に立ち返ることです。そして、そのためには神様に背いた罪を取り除く必要があります。しかし、罪を取り除くことは人間の力ではできません。そのように罪を負ったままどうすることもできない私たちひとりひとりを心から愛し、あわれまれ、私たちがご自分に立ち返ることを心から望んでおられる神様は、私たちとご自分とを隔てている罪をご自分のひとり子イエス様によって取り除いてくださったのです。イエス様は父なる神様に従順に従われ、人となってこの世に来てくださり、十字架に架かって私たち人間の罪を身代わりに負ってくださいました。イエス様は神様に対する従順の模範をこのような形で私たちにお示しになったのです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2章6~8節)
このようにして、父なる神様のみこころに従順に従われて、卑しい人の姿で私たちのところに来てくださったイエス様は、次のようにおっしゃっています。
狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイの福音書8章20節)
この世に来られたイエス様は、私たち人間に救いの福音を、永遠のいのちの福音を宣べ伝えられた結果、歓迎どころか迫害をお受けになり、そのため安んじて眠る場所さえなかったのです。それでもイエス様はそのことについて思い煩われませんでした。父なる神にゆだねて従順に従われたからです。神様に似るものとして造られた私たちは、このイエス様の従順を模範とすべきではないでしょうか。
私たちは、空の鳥、野の百合から、改めて人間であることは何を意味しているのか、また人間に対する神様のみこころは何であるかを学びました。神様はご自分に似るものとして造られた私たちに、自分の考えを第一とするのではなく、神様に従い神様との正しい交わりを第一とすることを求めておられるのです。イエス様は空の鳥、野の百合について話されてから最後に、次のようにおっしゃいました。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイの福音書6章31~34節)
イエス様を信じた結果、神様との正しい交わりを回復した者は、もはや自分のことについて心配する必要はありません。思い煩いは神様を知らない人々のすることであり、ただ神様のみこころに全き従順をもって従うことを第一とするなら、それに加えて必要なものはすべて神様が与えてくださるとイエス様が約束してくださっているからです。
ヤコブはイエス様を信じた人々に宛てた手紙の中で次のように言っています。
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。(ヤコブの手紙4章14~15節)
空の鳥、野の百合は明日のことを思い煩いません。私たちも空の鳥、野の百合のように、明日のことは明日を支配される神様ご自身が心配してくださることを確信して、今日と言う日を神様のみこころにゆだね、全き信頼をもって感謝しつつ過ごすとき、神様はそのようなひとりひとりに最善をなしてくださることを実際に体験することができるのです。
思い煩っておられる方は、どうか神様から離れていた罪を認め、イエス様が十字架の上で流された尊い血によって罪を赦していただき、神様との正しい交わりを回復していただいて、揺るぐことのない神様の約束を一日も早くご自分のものとして体験されるようお祈り致します。