私たちはキリストに会った(1997年)
今日はイエス様のご降誕をお祝いするクリスマスの日にあたりますので、イエス様とはどんなにすばらしいお方か、私たちのために何をしてくださったか、ということについて、聖書のあちこちからみことばを引用しながら、ここで改めてごいっしょに考えてみたいと思います。
世間ではクリスマスという言葉からイエス様を思い浮かべる方は多くありません。この世の方々はまずサンタクロースを思い浮かべます。ですから、そういう方々のクリスマスと、私たちイエス様を信じる者がお祝いするクリスマスとは質的にぜんぜん違うのですけれども、それでは、いわゆる教会のクリスチャンの方々がどれくらいイエス様のことをわかっておられるかと言いますと、「私は神様は信じていますが、イエス様の十字架はわからない・・・・。」とおっしゃる方が少なくないのです。それはイエス様をよくご存じないからです。
私はお祈りのとき、「神様」とお呼びするより「イエス様」とお呼びして祈ります。なぜなら、私自身のためにいのちを捨ててくださり、永遠の滅びに至る恐ろしい罪から救い出してくださったのは神様の御子であるイエス様ご自身だからです。そしてその事実を心から信じた者がクリスチャン、すなわちキリストのものなのです。ですから、ただ単にその方のお名前を知っているということではなく、その救い主であるイエス様と人格的な交わりを持つときにこそ、私たちにまことの喜びと平安と希望が与えられるのです。そして、そのような喜びと平安と希望を体験した者には、イエス様についてもっと知りたい、より良く知りたいという思いが湧いてまいります。
そこで今日は、イエス様のお持ちになっている七つの特性を聖書のみことばを引いて考えながら、より良くイエス様を知ることができればほんとうに幸いなことと思います。
イエス様の第一の特性は、「神のことばでありながら血と肉を持たれた。」ということです。神のことば、これは神に属するものであり、血と肉を持たれた方、これは人に属するものであります。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。(ヨハネの福音書1章1~2節)
この「ことば」とは、もちろんイエス様のことですが、言いかえますと、神様のお考え、あるいは神様のご計画そのものであります。私たちも心で思っていることを言葉に出さなければ人にわかってもらえません。つまり、言葉は自分の意思を現わすものです。ですから「神のことば」とは、神様のご意思を現わす方、すなわちイエス様ご自身であります。その神のことばが人となって私たちの間に来てくださったのです。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネの福音書1章14節)
そして、ヨハネの黙示録十九章には次のように書いてあります。
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。(ヨハネの黙示録19章13節)
私たちの間に来てくださり、十字架に架かって血を流されたイエス様は、ご自分が流された血に染まった衣を着ておられ、「神のことば」と呼ばれたとあります。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル人への手紙2章14~15節)
子たち、すなわち私たち人間は血と肉を持っていますから、「神のことば」であるイエス様もまた私たちと同じように血と肉をお持ちになった、とあります。血と肉を持つということは、限りのあるいのちを持つということです。イエス様がなぜ血と肉をお持ちになったかと言いますと、死ぬためであります。死ぬためには血と肉を持っていなければなりません。神様は永遠なる方であり死ぬことのない方です。その神であるイエス様が、ただ私たちの身代わりとなって死んでくださり、私たちを罪から、そして罪の報いである死から解放してくださるために、血と肉を持って地上に来てくださったのであります。パウロは神様が私たちと同じからだを御子にお与えになられた目的を次のように言っています。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ人への手紙8章3節)
イエス様の第二の特性は、「神のひとり子でありながら、人となられた。」ということであります。はじめの所と少し似ていますが、神のひとり子、すなわち天上の方が地上の人となられた、ということであります。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイの福音書3章16~17節)
イエス様は神様の御子ですから、罪の悔い改めのバプテスマをお受けになる必要はまったくなかったにもかかわらず、私たちと同じ人の子としてバプテスマを受けてくださったのです。そのとき天から神様のみ声が聞こえ、「これはわたしの愛する子」、すなわち神様の御子であるということを、神様ご自身がはっきり私たちに宣言してくださいました。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ。処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。(マタイの福音書1章18~25節)
また神様は、はるか前から預言者たちを通して、イエス様を人としてこの世にお遣わしになることを約束してくださっていたのです。その一つに預言者イザヤの次のような預言があります。
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ書9章6節)
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章5~6節)
この神様のお約束どおり、神の御子は私たち人間の罪を身代わりに担ってくださるために人としておいでになったのです。
イエス様の第三の特性とは、「すべての主でありながら人間のしもべとなられた。」ことであります。まずイエス様がすべての主である、ということに関するみことばを挙げてみたいと思います。
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ人への手紙1章15~17節)
神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ人への手紙2章9~11節)
すべてのものが御子によって造られ、御子のために造られ、御子にあって成り立っているということは、とりもなおさず、神の御子イエス様は人間をも造ってくださったお方であるがゆえに、私たち人間の主であられるということであります。また父なる神様ご自身が、イエス様にすべての名にまさる名をお与えになった、とありますが、すべての名にまさる名とは主という名であり、神様がイエス様にこのように高い、主というお名前をお与えになったのは、すべての人がへりくだって、「イエス様は私の主です。」と告白することが神様のみこころであるからです。
そのイエス様がこの世に来られて、次のようにおっしゃっています。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・・。(マタイの福音書20章28節)
すべての主であるイエス様は「人の子」と、ご自分のことをおっしゃっています。イエス様はこのようにご自分をお呼びになることで、私たちに「わたしは、あなたがた人間と同じになってこの世に来ました。私はあなたがたと同じです。」とおっしゃっているのです。そして、それは仕えられるためではなく仕えるため、すなわち「あなたがたの贖いの代価として自分を与える、そのようにしてあなたがたに仕えるために、わたしは人の子として来たのです。」とおっしゃってくださっているのです。
イエス様の第四の特性は、「正しい方が罪人となられた。」ということであります。正しい方、これは完全に正しい方という意味ですから神様の属性であります。その神様の属性を持っておられる完全に正しい方が、人の属性である罪人とされたということであります。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(ペテロの手紙第一2章22~24節)
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされなかった。」とありますが、これは人間としては不可能なことです。私たちにとって、生まれてから今まで何の偽りも口にしたことがない、などということはまったく不可能であり、また、あり得ないことです。完全に正しい方であるイエス様であるからこそ、それがおできになったのです。その絶対に正しい方が私たちの醜い罪を身に負われて十字架に架かられ、私たち罪人の身代わりになってくださったのです。そして私たちはそのイエス様の打ち傷のゆえに、罪からいやされたのであります。同じことが別の表現で、次のように書かれています。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。(ペテロの手紙第一3章18節)
イエス様の第五の特性は、「永遠なる方が死を味わわれた。」ということであります。神の御子であるイエス様は永遠に死なない方であります。その永遠に生きておられる方が、死を味わわれたのであります。死とは罪の報酬であり、単に肉体の死だけを意味するのでなく、神のさばきの結果神に見捨てられて永遠の滅びに入るということを意味しています。イエス様は私たちが神様から見捨てられるべき罪を身代わりに負って、ご自身が神様に見捨てられるという恐ろしい体験を味わわれたのです。このことはイエス様が十字架の上で叫ばれた次のみことばから知ることができます。
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マルコの福音書15章33~34節)
イエス様は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と十字架の上で叫ばれました。イエス様は完全に父なる神様に見捨てられたのです。神の御子であるイエス様がなぜ神様に見捨てられたのでしょうか。それは罪人として神様に罰せられたからであります。神様に背き、神様を無視して、まったく自分勝手に生きている私たちこそ神様から見捨てられ、この恐怖の叫びをあげなければならない罪人なのであります。それを思うときに、私たちに代わって神様から見捨てられるという恐ろしい目に会われたイエス様にどれほど感謝してもし尽くせないのではないでしょうか。
イエス様の第六の特性は、「よみがえられ、天に上げられ、そして今、信じる者の中に住んでおられる。」ということであります。
人間を含めてどんな生物も一度死ねばよみがえることはできません。しかしイエス様は死んで三日後によみがえられました。それはイエス様が神様である証拠であり、また、ご自身の復活を通して、信じる者をもよみがえらせてくださることを示されたのであります。パウロは次のように言っています。
もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(コリント人への手紙第一15章17~23節)
イエス様は復活なさってから四十日間、弟子たちなど約五百人の人々にご自分を現わされた後に天に昇られ、父なる神様の右の座に着かれました。しかし、そのイエス様はご自分を信じ愛する人たちの内に、今も住んでくださっています。
だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14章23節)
と、イエス様がおっしゃっている通りであります。
また、ヨハネの黙示録三章では、
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)
と、イエス様はおっしゃっています。このように、イエス様は私たちの心の扉の外に自らお立ちになって、私たちのかたくなな心の扉を叩いてくださっているのです。そして私たちが、イエス様に向かって心の扉を開けばいつでも、イエス様は喜んで私たちの内に入ってくださり、私たちと親しい交わりをしてくださると、このみことばを通して切なる思いで呼びかけてくださっているのであります。
イエス様の第七の特性は、「神の右の座に着かれた方は、ふたたびこの世に来られれる。」ということであります。よみがえられたイエス様は、神の栄光の御座に着かれるために天に昇られるときに、ふたたびこの世に来られることを約束してくださいました。このイエス様のご再臨の目的は何なのでしょうか。それは二つあります。
まず最初のご再臨の目的は、信じた人々を迎え、その人々の肉体をよみがえらせるためであります。イエス様は天に昇られる前に、弟子たちに次のように約束なさいました。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネの福音書14章3節)
パウロはイエス様が迎えに来てくださるとき、まずイエス様を信じて死んだ者が朽ちないからだによみがえり、次にそのときに生きている者のからだも同様に朽ちないからだに変えられて、イエス様とともに天に引き上げられると記しています。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使のかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(テサロニケ人への手紙第一4章15~17節)
この、信じる人々のためのご再臨では、イエス様は空中まで私たちを迎えに来てくださるのです。信じてすでに天に召された人たちの霊は死後直ちに天に上げられ、イエス様とともに全き平安のうちにおりますが、墓の中に眠っていたその肉体は、このようにイエス様が迎えに来てくださった瞬間に、イエス様と同じ聖い、朽ちないからだによみがえり、霊肉ともに完全なものとなるのです。そして、そのときまだこの世に生き残っている信者の肉体も、一瞬のうちに朽ちることのないイエス様と同じ聖い肉体に変えられて、一挙に空中まで引き上げられ、イエス様にお会いし、歓びながら主とともに天に携え上げられるのであります。これが、決して変わることのないイエス様のすばらしいお約束であり、信じる人々の最も大きい希望であります。このように、先に召された信者も、まだ地上に置かれている信者も、ともに完全な者として天に迎えてくださるためのイエス様のご再臨を、空中再臨または空中携挙(けいきよ)と言います。
二度目のご再臨はイエス様の地上への再臨であり、その目的は信じない人々をさばくためのものであります。捕えられたイエス様は大祭司の質問に対して、天に戻って後ふたたび来るということを明言なさっています。
大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイの福音書26章63~64節)
ヨハネはそのときの状況を次のように預言しています。
見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。(ヨハネの黙示録1章7節)
イエス様は弟子たちに向かってご自分がさばかれるときの様子を次のようにお話になっています。
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。(マタイの福音書25章31~34節)
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」(マタイの福音書25章41節)
「のろわれた者」とはイエス様を拒んだ者であります。大祭司をはじめとして、イエス様をさばいた者、十字架につけた者、そしてその当時イエス様を受け入れなかった者だけでなく、今日に至るまでイエス様の福音を拒んだすべての人々をさばくために、このようにイエス様は地上にご再臨になるのであります。
では、神のことばであり、神の御子であり、すべての主であり、完全に正しい方であり、永遠なる方であり、神の右の座に着かれた方が、どうして血と肉を持った人となり、人間のしもべとなり、罪人として十字架の死を味わわれ、よみがえって天に昇った後も、またふたたびおいでになるのでしょうか。それは私たち人間に対する神の計り知れない大きな愛とあわれみによるのであります。神様は罪人である私たち人間にこう言われます。
わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。(エゼキエル書33章11節)
そして、罪人との唯一の仲介者として、神様は、神でありながら人となられたイエス様を立てられたのであります。テモテへの手紙第一の二章には次のように書かれております。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章5~6節)
神に逆らい背いた私たち人間が、神の赦しを受け、神と和解させていただくために、そして滅びに至る死をまぬがれて永遠のいのちと天国の国籍を得るためには、この方、すなわち私たちの救い主であるイエス様にすがるほかはありません。聖書が次のように言っている通りであります。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)
はじめに申しました通り、まことの神様をまだ信じない方々ばかりではなく、教会に行っている方々の中にも、イエス・キリストがわからないとおっしゃる方がいます。しかしイエス様がどんなすばらしいお方か、私たちのために何をしてくださったかを知ることなしには、御子イエス様を信じることも、父なる神様をほんとうの意味で信じることもできないのではないでしょうか。どうか、おひとりおひとりがご自分にとってイエス様がどんなお方かよくお知りになり、イエス様を心から信じ、信頼していただけますように、心からお祈りしております。