私たちはキリストに会った(1997年)

二 愛すること、赦すこと

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ人への手紙4章32節~5章2節)


今日も、しばらくの時間、ごいっしょに、みことばを味わいたいと思います。冒頭の聖書の箇所は、パウロがエペソのキリスト者に当てた手紙の一部ですが、ここに人を愛する、人を赦すという言葉が出ています。そこで今日は、この「人を愛すること、赦すこと」について考えてみたいと思います。


Y先生の座右銘「愛」「信」「恕(じょ)」


私の手元に五年前に亡くなったY先生からいただいた茶飲み茶碗があります。その茶碗の外側には「愛」「信」「恕(じょ)」の三つの文字が書いてあります。「恕(じょ)」という言葉は日常あまり使われませんが、人を思いやって許すという意味です。そして、この茶碗に添えられた書面から、この三つの文字がY先生の人生の座右の銘であることがわかりました。先生はかつて大阪大学の総長をされたこともある世界的に著名な細菌学者であり、また多くの優秀な研究者を育てた優れた教育者でもありました。このY先生が、愛、信、恕(じょ)を座右の銘とされた理由について、先生ご自身の説明を以下に要約してみたいと思います。


「人生において人間関係ほど大切なものはない。しかし、人間関係が大切なことはわかっても、それをいかにして築き上げ、どのように維持し続けるかということは難しい。私はこのために次の三つのことを提唱したい。まず「愛」である。それは人間として生きて行くうえで最も大切なことであろうが、また、容易なものでもない。医師が多数の患者に接するとき、教授がその教え子に接するとき、そのひとりひとりに心底からの愛情を持っていると言えばうそになる。しかし、愛のない医師と患者との間、教授と学生との間にはまことの意味の人間関係は成立せず、医師となり、教授となった甲斐はなくなるだろう。ところで真の愛情ということを突き詰めて行くと、その背景に「信」がなくてはならぬことに気づく。砂漠の太陽にも似た灼熱の恋も、色褪せてみれば動物的感情のみが残っていたということは、「愛」に「信」が伴わなかった場合であろう。信じてこそ、人間関係は永続する。だが、信じるということも、言うことは易しいが実行は難しい。人の世において、人間が人間を信じることの難しさは、時代とともに増大している。だが愛することのためには信がなくてはならないし、信がなくては続かない。それでも人間関係の長い経過の中では、人は信と不信との明暗の境を歩むことが多い。個人の判断の仕方は個々別々であることは当然で、しばしばこれを不信と結びつけるという過ちを犯す。このような人間関係の中で、人が人を信じるためには、恕(ゆる)す心がなくてはかなわない。信じるためには恕(ゆる)すのである。しかし、恕(ゆる)すことも難しい。人によっては最も難しいと言うかもしれない。それができれば、何もかも問題ではないと言われるかもしれない。考え方によっては、最も難しい恕(ゆる)すということを可能にするのは、最初に戻って愛である。愛するということがはじめにあれば、人を恕(ゆる)すことができるだろう。師弟の間、友人の間、家族の間に不信が突風のように襲うことがある。このとき、恕(ゆる)すことができるのは、おおらかな愛があるからだ。人と人との変わらぬ人間関係を生涯にわたって維持するためには、愛することから初め、愛するために信じ、信じることのために恕(ゆる)し、恕(ゆる)すことのために愛することである。「愛」「信」「恕(じょ)」は、人間関係のために作った自作の座右の銘である。」


人間には「愛」「信」「恕(じょ)」の連鎖を断ち切ることはできない


これを読まれた方はどなたも、Y先生がまことに誠実な、真摯(しんし)な人柄の方であることがおわかりであろうと思います。けれども、この文章をお読みになって気づかれた方も多いと思いますが、この「愛」と「信」と「恕((じょ))」の相互の関係は、私たち人間が不完全であるために、それぞれが鎖の輪として連鎖状態になって限りなく堂々巡りをしてしまうものなのです。Y先生がいっしょうけんめいにお考えになった人間に最も大切な、人を愛すること、信じること、恕すことは、この鎖が断ち切られない限り、永遠に不可能ということになるのです。


「愛」「信」「恕((じょ))」には自己犠牲が伴う


では、いったいなぜ人間には人を愛するために信じることが、信じるために恕(ゆる)すことが、恕(ゆる)すために愛することができないのでしょうか。それはこの三つにはそれぞれ大きな自己犠牲が必要だからです。人間はだれでも多少の自己犠牲、多少の痛みなら耐えられますが、大きな自己犠牲は本能的に嫌がり、それを避けようとします。聖書に、ペテロがイエス様に兄弟を赦すことについて質問をしているところがあります。


そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」(マタイの福音書18章21~22節)


恐らくペテロとしてはイエス様に褒められようとして、精一杯自己犠牲を払ったつもりでこう言ったのでしょうが、それに対してイエス様はそれでは足りずに七度の七十倍赦しなさいとお答えになりました。これはペテロにとっては恐らく絶望的な要求とも思えたことでしょう。なぜならそんなことはとうてい実行不可能だからです。そのような犠牲はペテロに限らず私たち人間はだれも払うことはできないように思われます。しかし、イエス様は人をほんとうに赦すというのは、そのようにしてはじめて言えるのだということを、ここでおっしゃっているのであります。


イエス様はまたある金持ちの青年と次のような問答をなさっています。


ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイの福音書19章16~22節)


この青年はイエス様に「永遠のいのちを得るためにどんな良いことをしたらよいでしょうか。」と言う質問をしました。それに対してイエス様は「それなら神様の律法を守りなさい。」と言われました。その律法の中には「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めもありました。ところが彼はイエス様に「そのようなものはみな守っています。何がまだ欠けているのですか。」と反論したのです。恐らく彼は彼なりに律法を守っていたと思います。しかし、それはそれほどの痛みを伴わない程度に自己犠牲を払って守っていたのです。イエス様はちゃんとそのことをご存じでした。イエス様がこの青年に言われた言葉はたいへん厳しいものでした。「あなたがもし、ほんとうに隣人を自分自身のように愛せよという戒めを守っていると言うなら、自分の持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば永遠のいのちを得ることができます。」ところが青年はそのような大きな犠牲を払ってまでも隣人を愛することはできないと知って、悲しんで去って行ったのです。しかし、これはこの青年に限ったことではありません。私たちもイエス様からそのように言われれば、彼と同じように「できません」と言わざるを得ないのではないでしょうか。


「愛」「信」「恕(じょ)」は人間に原罪があるゆえに実行不可能


人間というのは、だれでも自分がかわいい、自分がいちばん大事という性質があります。そして、聖書で罪というのは、このように、自分が、自分が、というようにいつも自分を中心に置き、自分の思いを満たすことであります。私たちはこのように自己中心である限り、聖書でいう罪人である限り、ほんとうに人を愛すること、ほんとうに人を信じること、ほんとうに人を恕すことはできないのです。ですから、Y先生の座右の銘である「愛」「信」「恕(じょ)」の三つを結ぶ鎖は私たちの力では断ち切ることができないばかりか、私たちはその逆のこと、すなわち意図的でないにしても、往々にして人を傷つけたり、裏切ったり、非難中傷したりしてしまう自分に気づかされるのではないでしょうか。それが生まれながらの人間の姿なのであります。ローマ人への手紙の三章にはこのような人間の罪の状態が書かれています。


では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ人への手紙3章9~18節)


私たち人間はすべてこのような状態にあるとパウロは言っていますが、それはアダムの子孫として私たち人間が生まれつき持っている罪の性質のためであります。パウロはまた次のようにも言っています。


そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)


すなわち、最初の人アダムを神様がお造りになったときは、完全な、罪のない人として造られ、神様に似たものとして造られた人間は神様と同様に死ぬことのないものでありましたが、そのアダムが神様に対する罪を犯したことによって、アダムの子孫である私たちは生来罪人として生まれ、神様から有罪の宣告を受けるものとなったのです。すべての人に死が臨むという事実は、すべての人が神様に対する罪があることを示しているのであります。罪という遺伝子がすでに組み込まれてしまっているのです。そのために私たちはどんなに努力しても、自分をまったく無にして人を愛することはできないのです。


神の愛、イエス・キリストの愛


では、自分を無にする愛はあり得ないのでしょうか。あるのです。ただしこれは人の愛ではなく、神様の愛であり、その神様のみこころに従って私たち人間のために死んでくださった神の御子イエス・キリストの愛であります。


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4章9~10節)


キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(ヨハネの手紙第一3章16節)


まことの愛とは、ご自分に背いている人間の罪を赦すために、ご自分の御子を罪の身代わりとして十字架の上で罰するという、神様のご自分を無にされた大きな犠牲の上に立った愛であり、またこの父なる神様のみこころに従って私たち罪人のためにご自分のいのちを捨ててくださった御子イエス・キリストの愛であります。


神の愛を持つためには


さきほど申しましたように、私たち人間が自分の努力で、自分の意志で、「愛」「信」「恕(じょ)」を結ぶ鎖を断ち切ることは不可能ですが、そのような私たちも、ただ一つの条件のもとでのみ、この鎖を断ち切ることができ、人を愛し、信じ、赦すことができるようになるのです。その条件とは、まず私たちがこの神様の愛そのものの神の御子イエス様を信じ、受け入れることであります。聖書は次のように言っています。


だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。(ヨハネの手紙第一4章15~17節)


「イエスを神の御子と告白する。」とは、私たちがイエス様こそ自分の罪を身代わりに負って死んでくださった救い主と心から信じてそれを口で告白することであり、そのようにして信じたとき、その瞬間に私たちの罪の汚れはイエス・キリストの流された血潮によって聖められ、私たちの中に神様の愛が人となったイエス・キリストが入ってくださり、私たちのかたくなで石のような自己中心の心を取り除いて、人を愛することができるやわらかい心を与えてくださるのです。神様はこれについて次のように約束しておられます。


わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(エゼキエル書36章25~26節)


私たちはどんなに頑張っても不完全な愛、自己中心的な愛しか持つことはできませんが、もしイエス様を信じれば、信じた人の中に住んでくださるイエス様によって、愛が私たちにおいても完全なものとなるのであります。


イエス様は愛を説かれました。しかし、私たちがいくらイエス・キリストの愛の教えをすばらしいと感じても、それで私たちの中に完全な愛は宿るでしょうか。決して宿りません。キリスト・イエスの愛の教えによってではなく、イエス様を信じ受け入れたときに、宿ってくださるイエス様ご自身によって愛が完全なものになるのです。イエス様を信じるとはそういうことなのであります。キリスト教を信じるというのは、言いかえればイエス・キリストの教えを信じることでありますが、イエス・キリストの教えを信じても完全な愛は私たちのものにはなりません。私たちの罪を贖なってくださったイエス様ご自身を信じることによって、はじめてイエス様の愛が私たちの中に注がれるのです。


自分が人を愛するのでなく、内住の主イエスが人を愛される


しかし、イエス様を信じたらそれだけでほんとうに人を自分自身のように愛することができるのだろうか、という疑念を持たれる方もおられるのではないでしょうか。その疑念は当然です。ただイエス様を信じただけではできません。私もできません。なぜできないのでしょうか。それはなお自分の意志で愛そうと思ってしまうからです。イエス様を信じた後でも私たちは自分の意志で人を自分自身のように愛することは決してできないことを心に銘じていなければなりません。それはなぜでしょうか。イエス様を信じた瞬間に、私たちの霊は新しく生まれ代わり、神様に聞き従うことを喜びとするようになりました。ところがこの新生した霊を着ているからだのほうは、この世に置かれている間はなお肉の性質を持ち続けており、そのためにこの肉の性質がイエス様に従いたいと思う霊の働きを妨げるのです。パウロはこれについて次のように自分の霊と肉の状態を分析しています。


私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。(ローマ人への手紙7章19~23節)


このように、私たちの内なる人である新生した霊は、自分自身のように人を愛したいと願いますが、私たちの外なる人である肉は、それを拒むのです。真剣にイエス様に従いたいと思うキリスト者はみな、この矛盾に悩みます。そこで、はっきりと知っておかなければならないのは、イエス様を信じる私たちのからだは、単にイエス様という宝を入れている土の器に過ぎないということです。また、イエス様を信じた私たちはしばしば、人を自分自身のように愛することができないのは、まだ自分の中にイエス様が宿ってくださっていないのではないかという疑いを起こしがちですが、それはこのように、内なる人と外なる人との葛藤(かっとう)によるものであり、私たちがどう思おうと、それには関係なくイエス様はみことばの約束によって、信じる者の中に住んでおられるのであります。イエス様は次のように約束しておられます。


だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネの福音書14章23節)


では、どうしたら人を自分自身のように愛することができるのでしょうか。それは自分の意志で愛するのでなく、自分が単なる主の器であることをはっきりと意識して、私たちの中に宿っておられるイエス様におゆだねし、イエス様の愛が自分という器を通してその人に伝わるようにと祈ることであります。そうしたときに、イエス様は宿っている者を器として、管として用いてくださり、ご自分の愛をその人に注いでくださるのであります。このように自分を明け渡してイエス様にお願いすることが、自分の外なる人である肉の思いを消すための唯一の方法ではないでしょうか。パウロはこれについて次のように言っています。


私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)


「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」というこのみことばがほんとうに自分のものとなったときに、私たちは「愛」と「信」と「恕(じょ)」の連鎖を断ち切ることができ、神様が神の御子イエス様によって、みもとに行った私たちを愛し、赦してくださったように、私たちもそのイエス様の愛によって人を愛し、イエス様がその人をも救いの対象にしておられるがゆえに信じ、イエス様がその人のためにも死なれたほど大切な人であるがゆえに赦すことができるようになるのではないでしょうか




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