私たちはキリストに会った(1997年)

一 人として貧しくなられた主イエスの招き

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)


今日はこの有名なみことばについて、御霊の導きをいただきながら、イエス様の深いみこころをごいっしょに考えてみたいと思います。


疲れた人、重荷を負っている人「すべて」を招く


まずイエス様が、疲れた人、重荷を負っている人、すべてを招くとおっしゃっていることに注目したいと思います。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」の「すべて」とは文字どおり「すべて」であり、ここには何の条件をも設けない、何の選択もしない、何の差別もしない、何の選り好みもしない、という意味が含まれているのではないでしょうか。これは驚くべきことであります。


私たちが何かの救助活動をするとき、そこには必ずなんらかの条件や選択基準を設けます。たとえば、難破して沈みかけた船から乗客や船員が救命ボートに乗り移るときにはどうでしょうか。乗り移る順番や人数を決めるのに選択はなされないでしょうか。そういう場合には女性、子供、病弱者、老人を優先するという選択がなされるのではないでしょうか。また大災害が発生し多くの負傷者が出た場合、救出や手当てに優先順序はないのでしょうか。ここにも選択が行なわれています。すなわち、救出しやすい人、重傷者を優先するのが常識です。病院の集中治療室(ICU)の利用についても選択基準が設けられていることをご存じでしょうか。まだ日本では行なわれていませんが、集中治療室の利用者が供給を上回っている米国では、ICUを効率的に活用するため、入室者の選択基準を、回復する可能性のより高い人、高齢者より若年者、社会貢献度のより高い人というように設定しています。


しかし、イエス様はお招きになる対象者に何の条件も選択基準も設けられません。救いの対象がだれであろうと、人種、国籍、年齢、身分や階級、貧富などを問わず、またたとえご自分に敵対する者、ご自分をあざける者であろうと、ただその人が苦しみ悩む人であることにのみ愛のまなざしを注いで、声をかけられるのです。むしろイエス様は疲れていながら、重荷を負っていながら、ご自分の招きの声を聞くことができなかった人がいるのではないかを気遣っておられます。ここに私たち人間の愛とはまったく異なる、驚くべきイエス様の愛を見るのです。


わたしのところに来なさい


イエス様は「わたしのところに来なさい。」とおっしゃっています。このみことばには、「わたしのもとにとどまりなさい。わたしが休息そのものですから。」という意味が言外に含まれていると思います。「来るだけでなく、とどまりなさい。わたしにとどまることが休息です。」イエス様はこうおっしゃっているのではないでしょうか。これもまた驚くべきことであります。


普通の人であれば、「自分の所に来れば、疲れを回復させるよい方法を教えましょう。とか、「重荷を下ろして休むことのできる静かな場所がどこかを教えてあげましょう。」という助言を与えるに止まるでしょう。しかし、イエス様の招きはこれとまったく違います。もしイエス様の招きに応えて、疲れ果て、重荷を負うすべての人がみもとに来るならば、イエス様はこれらすべての人をひとり残らず御腕の中に抱擁(ほうよう)し、「わたしのもとにとどまりなさい、わたしのもとにとどまることが休息なのだから。」とおっしゃるのです。


病人が、いくら医者に自分のもとに昼も夜も付きっきりでいてもらいたいと望んでも、多くの病人を診療しなければならない医者には、ひとりの患者のもとに一日中とどまって治療を続けることはできません。そうすれば他の患者たちをなおざりにせざるを得ないからです。ここに人間の限界があります。しかし、イエス様はご自分の所に来たすべての人々、ひとりひとりのもとに、昼も夜もご自身が休息そのものとしてとどまってくださるのです。これは驚くべきことではないでしょうか。


招きたもう方


「疲れた人、重荷を負っている人はすべて、わたしのところへ来なさい。」と招いてくださる方は、言うまでもなくイエス・キリストです。しかし、その方が神様の栄光の御座から降りて、人として貧しくなってくださったイエス・キリストであることを私たちはどれだけはっきり意識しているでしょうか。光り輝くイエス様が栄光の中からおっしゃったのではなく、貧しく、見映えのしない人としておっしゃったということに私たちはどれほど気づいているでしょうか。


もし、イエス様が「わたしのところに来なさい。」というみことばを栄光の中に座したもう神様としておっしゃったならば、人々がその栄光のふところめがけてまっしぐらに飛び込んで行くのは、たいへんに容易なことでありましょう。また聖書に、


イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。(マタイの福音書17章1~2節)


と記されているように、山の上でペテロたちが見た、神々しい、光り輝く御姿のイエス様が「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃったならば、そのときは、すべての人々が先を争ってみもとに殺到したとしても不思議ではないでしょう。なぜなら、こうして殺到する人々はイエス様がどなたかということを自分の肉の目で見たからです。


しかし、現実には「わたしのところに来なさい。」というみことばを告げられたのは、光り輝く姿の神様ではなく、また王冠をかぶり、宝石をちりばめた衣装をまとい、多従者を従えた身分の高い人ではなく、貧しく、見映えのしない人の姿のイエス様なのであります。処女マリヤより生れ、大工をその父とし、貧しい家庭に育った身分の低い人物のイエスであります。このことは、イエス様がご自分の郷里で人々に神の国を説かれたときの人々の反応によっても理解できます。これについて、聖書に次のように記されています。


それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。(マタイの福音書13章54~56節)


しかし、預言者イザヤはイエス様について次のように預言していました。


私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53章1~3節)


この預言の通り、このような見映えのしない、貧しい姿のイエス様が、人々に「わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」とおっしゃったのです。


私たちはすでにイエス様について聖書から多くの知識を得ており、また数々のヨーロッパの宗教画を通して、救い主キリストとしてのイエス様のイメージが頭の中に出来上がっています。しかし、もし私たちがイエス様と同時代に生きていたとすればどうでしょうか。街角に立った見映えのしない、貧しい姿の人間が、漁師や取税人であった十二人の弟子を伴い、らい病人や障害者や世の中から敬遠されているような人々に取り囲まれながら、「わたしのところに来なさい。休ませてあげよう。」と招かれたら、私たちは彼の所に行くでしょうか。イエス様を見て嘲(あざけ)った当時の人々と同じように、私たちも嘲笑(あざわら)って通り過ぎたのではないでしょうか。イエス様は、


狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイの福音書8章20節)


とおっしゃいました。頭に枕する所もお持ちにならなかったイエス様、ご自身すら休む所もおありでなかったその方が、「疲れた人、重荷を負っている人はすべて、わたしのところに来なさい。休ませてあげます。」とおっしゃったことは、人間的に考えれば最も不可解な矛盾でありましょう。しかし、イエス様は最も不幸な人間と文字どおり一つの立場に身を置くために、


人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである・・・・。(マタイの福音書20章28節)


とおっしゃったように、私たちに対する深いあわれみと愛によって、私たちに仕える者の姿として身分の低い、貧しい、見映えのしない人となってくださったのです。


イエス様の提供される休息とは


ではこのように招いてくださるイエス様の所に行き、そこにとどまることによって、イエス様はどのような休息を私たちに提供してくださるのでしょうか。


イエス様が「疲れた人、重荷を負っている人」とおっしゃっている疲れ、重荷とは何でしょうか。私たちは、疲れや重荷といえば肉体的、精神的なもので、それならばイエス様の所に行かなくても人間的な方法で解決できると考えます。また生きて行くための疲れや重荷は私たちの人生から生じる当然のものであると理解しようとします。しかし更に遡って、それらは神様を認めずに自分の知恵や力で頑張って生きようとした結果として生じる霊的な疲れ、霊的な罪の重荷によるものであると、なかなか気づくことができないのが私たちではないでしょうか。


私たち人間が、私たちをご自分に似るものに創造されるほど愛してくださる神様、私たちをご自分の子どものように愛してくださる神様に逆らい、神様に従うのではなく、自分の欲望、自分の考えを中心に生きることが罪なのであります。そして、そのように神様に逆らい自分勝手に生きることが、神様から人間ひとりひとりに吹き入れられた良心、すなわち霊にとっては霊的な疲れ、霊的な重荷となってのしかかって来ているのに人間は気づいていません。


ですから、もし私たちが疲れを、重荷を、根源的に取り除こうと思えば、その根源であるところのこの罪を取り除かなければならないのです。イエス様はただ人間的な意味での慰めを提供なさるために、「わたしのところに来なさい。」とおっしゃっているのではありません。イエス様は、私たちの疲れ、重荷の根源となっている罪を私たちに代わって負ってくださるために、そのために私たちと同じように、貧しく、さげすまれた者の姿をとって来てくださいました。そして私たちの重荷となっている罪を取り除くために、卑しい者の姿のままで十字架の上で私たちに代わって死んでくださったのです。これについてパウロは次のように言っています。


キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ人への手紙2章6~8節)


またイザヤ書では、神様は私たちのために遣わされた御子イエス様について次のように仰せになっています。


見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ書42章1~3節)


イエス様は招きに応じてご自分の所に来た、罪の重荷を負い、疲れ果てたひとりひとりに対して、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、」というような優しい思いやりのみこころをもって、抱擁(ほうよう)してくださるのです。


貧しい姿のイエス様の招きに答えてイエス様のもとに行くためには


しかし、私たちが、貧しい姿で巷に立って「わたしのところに来なさい。」と招いてくださっているイエス様の所に行くことは、人間的な常識ではできないことです。私たちがこの招きに答えてイエス様の所に行くためには、自我が砕かれ、自分の知恵、自分の力、自分の考えがいかに頼りにならないものか、当てにならないものかを徹底的に思い知ることが必要なのです。私たちが疲れ果て、自分の重荷に押し潰されて絶望したそのときに、私たちははじめて自分の堅い自我の殻が砕かれ、御霊によって開かれた霊で、肉の目にはみすぼらしく、貧しく見えるイエス様の中に神様を見るのです。そして御前にひれ伏して、自分を休ませるために招いてくださったイエス様を救い主として拝し、イエス様のおっしゃったことを真理のことばとして心に信じ受け入れることができるのです。聖書に、


聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一12章3節)


と記されている通りであります。


狭き門より入れ


疲れた者、重荷を負っている者が、根本的に疲れをいやされ、重荷を下ろすには、このように人間の肉の目でいかにも威厳があり、神々しく見える救い主の所に行くのではなく、

肉の目には貧しく、みすぼらしく見えるイエス様を、霊の目では救い主と確信して、みもとに行くことによって達成されます。


しかし、イエス様の招きを受け入れるには、まず自分の人間的な価値判断がいかに頼りにならないものかということを、どうしても知る必要があります。イエス様が、


狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章13~14節)


とおっしゃっているのはその意味であります。


神のあわれみの具体的な現われ


神様のお考えになるあわれみとは何でしょうか。また神様のご覧になる人間の不幸とは何でしょうか。それは人間の考えるものとはまったく異なるものであります。神様は、目の前の現象としての私たちの一つ一つの不幸に目を留められてそれを解決なさるよりも、人間の不幸の源泉であり、人間の命取りであるところの罪を取り除くことによって、根本的な解決を計ろうとお考えになったのです。そしてその具体的な答えが、


彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ書53章2節)


という姿でこの世に来てくださったイエス様なのであります。


疲れた人、重荷を負っている人の多くはイエス様の招きに従いません。またイエス様の招きに感動して招きには応じるけれども、この方のもとでは自分の期待していたような恵み、すなわちこの世的な、ご利益的な救いは得られないことを知って去る人々も多くいます。


招いてくださる方が、「わたしはあらゆる病気を治してあげる。」と言って人を呼んでおいて、後から「わたしには、たった一つの病気である罪しか眼中にない。わたしが疲れている人、重荷を負うすべての人に与える救いは、罪に対する、また罪からの救いである。」と言えば確かにつまずく人々もあるでしょう。


しかし、あらゆる病気、苦しみ、不幸は、まことの神様の救いに気づかずに苦しみもがいている人に、神様に助けを求めるようにと与えられた神様からの示唆であり、これはすなわち恵みなのです。なぜなら、人は何不自由なく、することなすことがすべて思い通りに行っているときには、決して神様の救いを求めようとはしません。そのような人は「自分にとって神様は必要ない、自分はこのように自分の力で立派にやっているではないか。」と自分の中にある罪に気づかず、あるいは気づいていても目をつぶって、恐ろしい永遠の滅びに向かって、まっしぐらに突き進んで行ってしまうのです。


神様の愛は、そのようなことを黙ってご覧になっているような冷たいものではありません。何とかしてひとりでも多くの人を罪から救い出し、永遠のいのちを与えようと、苦しみや重荷を与え、それを通して自分の無力さを知った人々をイエス様によってご自分のもとに導いてくださるのです。ですから、


苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(詩篇50篇15節)


と神様としての権威と愛をもって呼びかけ、苦しみから、重荷からの救いを約束してくださっているのです。このように、重荷に疲れ果て、神様を求める思いを与えられてみもとに行った者に、神様はこの約束通りイエス様によってすべての重荷の原因である罪を取り除いて、ほんとうの休息を与えてくださるのです。イエス様の提供してくださる休息とは、そのような深いものなのです。そして、一度イエス様のもとに行き、イエス様を心から信頼し、まことの休息を味わった者は、もうこの世のものによって与えられる休息や安心はまったくの一時的なものであり、心の奥深くまで満たして安らがせるようなものではないことをはっきりと知るようになります。そのようなすばらしいイエス様のもとに安らいでとどまり続けることこそ、私たちにとってほんとうの幸せなのではないでしょうか。


最後に聖歌の二百二十二番の一節をお読みして終わりたいと思います。


「疲れし者よ、来て休め。」と、

やさしくイエスは招かせたもう。

いま汝が身を重荷のあらば、あるままにて、

罪の都を振り返らず、イエスのみもとに、

とく、とく、来ずや今。




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