新しい天地と古い天地(1998年)
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル人への手紙11章1節)
今日は、信仰の確信について、ごいっしょに考えてみたいと思います。冒頭のみことばは、信仰とはどういうものかを、まことに端的に言い表わしています。目に見えないものを確信させるもの、望んでいることがらを保証するものが信仰であるということです。たしかに、信仰は目に見えません。しかし、目に見えないものに信頼すること、これがまさに信仰の神髄(しんずい)であります。私たちにとって、目に見えないものに信頼するのは、なかなかに難しいことです。日頃私たちの生活では、いつも目に見えるものに頼って生きていますから、目に見えないものに頼るということは、それこそ頼りないと感じるのは当然かも知れません。しかし、信仰は、まさに目に見えないものであります。けれども、信仰は肉眼でこそ見えませんが、霊の目が開かれればはっきりと見る、あるいははっきりと知ることができます。そして、霊の目で見ることができたときに、はじめて信仰に確信が与えられるのです。
自分の信仰に、確信がないという人は少なくありません。しかし、もし確信のない信仰であれば、信仰から得られる平安、喜び、希望などの、すばらしい実を味わうことができないばかりか、私たちの生きている日々には、毎日いろいろなことが起こりますから、そのたびに波風に翻弄(ほんろう)されて、焦ったり、あわてたり、恐れたり、失望したりして、信仰はどこへやら、という悲しい状態になってしまいます。信仰に確信があるかないかによって、ここにまことに大きな差が出てきます。
そこで、これから信仰の確信とはどういうものか、また、いったいどうしたら信仰に確信が持てるか、ということについて考えてみたいと思います。
まず、信仰の確信とは、具体的にどのようなものなのでしょう。
一番目は、罪の赦しについての確信であります。
わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43章25節)
私たちを造ってくださった神様は、預言者イザヤの口を通して、このようにご自分を信じた者に約束してくださっています。この約束を神様は、何によって私たちにしてくださるのでしょうか。それは、私たちの罪を赦すために遣わされた御子イエス様の十字架による罪の贖いのみわざによってであります。パウロは次のように言っています。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ人への手紙8章1~3節)
この確信は、神の御子イエス様の十字架の死が自分の罪を贖うためであったということを、心から信じて受け入れた者だけに与えられるものであります。イエス・キリストの十字架の死は、人の罪を贖うためであったということを、唯知っているだけでは、罪が赦されたとは言えません。まして罪の赦しの確信を持てるはずはありません。
自分の中に、自己中心な考えやわがままな思い、また、どうしても取り去ることのできない悪い心があることを認め、それを素直に神様の前に告白し、「イエス様の十字架上での死は、ほかならぬ罪のかたまりのような、この私自身のためであった。」と、自分との関わりにおいてはっきりとした悔い改めをもって受け入れなければ、イエス様を信じていることにはなりません。そうしたときに、はじめて人はほんとうに心の解放を体験します。そして砕かれた悔いた心を持って、イエス様の十字架の救いを自分のものとして心から感謝し受け入れたときに、はじめて人は自分の意志ではっきりと信仰告白をすることができます。信仰告白とは、聖書にある通り、
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10章10節)
ということですが、もちろん他人に強制されて、あるいは勧められて、いやいやながら、あるいはお義理でイエス様を信じます、と言っても、それはほんとうの信仰告白とは言えません。自由な自分の意志によってなされたときに、はじめて罪の赦しの確信へと導かれて行くのです。
二番目は、神の子どもとされたという確信であります。
パウロは次のように言っています。
神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ人への手紙1章4~5節)
このことも私たち人間の頭では、とうてい理解し得ないことであります。私たちには、せいぜい、この世の道を滅びに向かって歩んでいるときに、神様がその私たちをあわれんで救ってくださった、という程度のことしか考えられません。しかし、このみことばによりますと、神様は私たちがこの世に生まれるはるか前、しかも、まだ世界が創造される前から私たちを愛して、ご自分の子にしようと、イエス様の救いのうちに選んでいてくださったというのです。
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネの福音書1章12節)
このみことばを幼な子のように信じて、「私は、ただ神様が遣わしてくださった神の御子イエス・キリストを信じたことによって、恵みのゆえに神の子どもとされたのだ。」という確信を持つことができていれば幸いです。
三番目は、私たちが永遠のいのちを持っているということの確信であります。
ヨハネは次のように言っています。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙第一5章11~13節)
イエス様は、
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネの福音書11章25~26節)
とおっしゃいました。そして、十字架の死後三日目に復活されて、永遠のいのちを持っておられることをご自分で証明されました。私たちが、「自分は、この御子イエス様のうちにある永遠のいのちを与えられたから、イエス様を信じる自分の中にイエス様が住んでくださっている。だからイエス様にあって自分も永遠のいのちに与かっているのだ。」ということを、これらのみことばから確信することができていれば幸いです。
四番日は、キリストとの結びつきについての確信であります。
パウロは次のように証ししています。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙8章38~39節)
パウロはこのように、どんな力をもってしても自分をイエス様から引き離すことはできないと、イエス様との強い結びつきをはっきりと証ししています。これが彼の確信であり、また同時にキリスト者の確信でもあります。このことは、イエス様ご自身も、
わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル人への手紙13章5節)
と、はっきり約束しておられます。私たちが、イエス様のみことばを全面的に信頼し、このように、「イエス様と自分との結びつきは、このイエス様の約束に基づいているのだから、どんなことがあっても決してイエス様から離れることはない。」という確信を持つことができれば幸いです。
五番目は、自分の祈りが成就するという確信であります。
ヨハネは次のように言っています。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(ヨハネの手紙第一5章14~15節)
イエス様に信頼する者の祈りを、主は必ず聞いてくださいます。もし、祈りの答えが与えられないときは、私たちの祈りがみこころにかなわないものであった場合か、あるいは「今は答えるときではない、わたしは最善のときにあなたに答えよう。」と考えておられるかであります。みこころにかなわぬ祈りとは、たとえば自分自身の欲望や快楽がかなえられたいと願う祈りであり、みこころにかなう祈りとは、その祈りを通して主のご栄光が現わされるような祈りであります。イエス様は、私たちの祈りを通してご自身の栄光が現わされるのであれば、必ず答えてくださいます。祈りの答えがただちに与えられようと、与えられなかろうと、私たちはただ、みこころにかなう祈りは必ず成就するという確信を持つことができれば幸いです。
六番目に、信仰の完成についての確信であります。
パウロは、私たちに次のように言っています。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ人への手紙1章6節)
このようにパウロは、私たちに救いのみわざを始められた方であるイエス様は、私たちを救ってくださっただけでなく、私たちの信仰を完成させてくださることを確信していると言っているのです。パウロはまた、イエス様を信じる人々に対して、
私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。(ピリピ人への手紙1章9~11節)
と祈っています。パウロの祈りのように、私たちの中に信仰の種を播き、芽を出させてくださった方は、その信仰を育ててくださり、さらに完成させてくださいます。自分自身の信仰を見ると、とてもそのようなことはできないと思ってしまいますが、イエス様のみことばを唯信頼し、へりくだって主に従いたいと祈り願うならば、私たちに注がれた御霊によって、イエス様をますます深く知る知識や、サタンとイエス様、善と悪をしっかり見分けることができる識別力を増し加えてくださり、イエス様によって与えられる義の実に満たしてくださり、さらにご自身のご栄光を現わしてくださるのであります。これが信仰の成長ですが、この信仰の成長は、イエス様が私たち信じる者を迎えにふたたび来てくださるときに、主が完成してくださるのです。私たちひとりひとりが自分の信仰は、このようにして成長させられ、やがて主の来られるときに完成されるのだ、という希望の確信を持つことができれば幸いです。
七番目に、イエス様におゆだねしたものを、イエス様が守ってくださるという確信であります。
パウロは、テモテに宛てた手紙の中で、
私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(テモテへの手紙第二1章12節)
と言っています。パウロがこのように言うことができたのは、「私は自分の信じて来た方をよく知っている。」と言う通り、イエス様を人格的に百パーセント信頼していたからであります。彼はイエス様が自分のために何をしてくださったか、今何をしてくださっているかを知っていました。ですから、パウロは主が必ず自分のいのちを、また自分が主に導いた多くの人々のいのちを、サタンの攻撃や誘惑から、ご再臨の日のために守ってくださるという確信を持つことができたのです。私たちも、心からイエス様に信頼すれば、このような信仰の確信を持つことができると信じます。
次に、このような信仰の確信は、何に基づいて生じるのか、ということを考えてみたいと思います。
信仰の確信は、人間の感情とか、直感で確かめられるものではありません。どうしてかと言いますと、私たちの感情は非常に動揺するものだからであります。感情は激したり、沈んだり、揺れ動きます。そのような不安定な感情によって、信仰の確信があるか、ないかを確かめようとしても、感情が高揚しているときには、確信があると思っても、次に感情が沈めば、とたんに確信が失われてしまったと思って、落ち込むことになるのです。したがって、感情によっては決して揺るがない信仰の確信は得られません。
信仰の確信は、次のものが私たちの霊に与えられることによって生じます。
一番目に、神の御子が人となられたイエス様の約束であります。イエス様の約束は、次のようなものです。
父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネの福音書6章37節)
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネの福音書10章27~28節)
このイエス様の約束が、私たちの霊に与えられることによって、信仰に確信が生じるのです。
二番目に、イエス様の愛であります。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(ローマ人への手紙8章35節)
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ人への手紙8章37節)
私たちキリスト者は、この世にあって多くの患難に会うことが考えられます。しかし、イエス様が、私たちを愛してくださるその大きな強い愛によって、どんな患難にも打ち勝たせてくださる、ということを、私たちは霊によって確信できるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2章20節)
と言うパウロの言葉も、私たちを愛してくださっているイエス様の愛を、霊で確信しているところから出ている言葉です。このイエス様の愛が、私たちの信仰に確信を生じるのです。
三番目に、イエス様のとりなしであります。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33~34節)
イエス様は、ご自分のいのちによって贖い出してくださった私たちのために、今でこれからも、父なる神様との間に立つ唯一の仲介者として、とりなしてくださいます。ですから私たちは平安と希望と喜びをもって、信仰の歩みを進めることができるのです。このイエス様のとりなしが、私たちの信仰に確信を生じるのです。
四、聖霊による保証
四番目に、聖霊による保証であります。
あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1章13~14節)
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(コリント人への手紙第一12章3節)
あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(ガラテヤ人への手紙4章6節)
私たちが、神様を父と呼び、また御子イエスを主イエス様と呼ぶことができ、そのように御名を呼んで祈るときに、私たちの霊に、平安と、喜びと、希望が与えられるのは、この聖霊の保証によるものであります。そして、この聖霊の保証が、私たちの信仰に確信を生じるのです。
さて、この信仰の確信が与えられる時期は、人によってさまざまに異なります。ある人には、イエス様の救いを信じたそのときから確信が与えられます。またある人は、信仰告白はしたけれども、何年たっても救われたという確信がないと言います。どうして、このような違いが起こるのでしょうか。その原因は何でしょうか。いろいろ考えますと、その人の自我の砕かれ方の大小、程度の差ではないかと思われます。これは私自身の体験からも言えることであります。それから、霊に飢え乾きを感じる程度の差も大きな要因であると思います。しかし、それにも増して大きな差の原因は、その人がイエス様と霊的な出会いをしているかどうかということであります。言いかえますと、私たちの人格とイエス様の人格の交わりの経験があったかどうかということです。
私たちの人間関係を考えればよくわかると思いますが、あの人は信頼できる、あの人なら頼れる、というのは、その人の人格と自分の人格との出会いがあって、はじめて言えることではないでしょうか。その人の誠実さ、真面目さなどの人格に接して、はじめてその人を信頼することができるのだと思います。イエス様も同じです。イエス様がどんなに自分を愛してくださっているかを、御霊によって私たちが知ったときに、いや、それは知るというレベルではなく、それを越えてイエス様の人格に親しく接したときに、私たちはこの方に自分のすべてをゆだねようという信頼が生じるのです。
さきほど申しましたように、信仰の確信がなくても自分の意志で決心し、今までの不従順を心から悔い改めてイエス様を自分の救い主と心で信じて口で言い表せば、その人は救われているのです。救われればもちろん天国に行けます。それが神様の約束だからです。けれども、イエス様との個人的出会いのない信仰にとどまるだけでは、まことに悲しいのではないでしょうか。イエス様に心から信頼できない人の信仰の歩みは、永遠のいのちの確信や天国への確信もなく、いつも揺れ動きます。いつも恐れや不安や思い煩いに悩まされる喜びのない信仰になってしまいます。
そうでなくて、生けるイエス様に出会っていれば、「もう、この方にしっかりとしがみついていれば、安心だ、何も恐れることはないんだ。」という確信をもって、日々天の御国を目指して信仰の歩みを続けることができ、どんなにこの世の波風が自分の回りに立ち騒いでも、平安と喜びを失うことがありません。そういう意味で、私たちはイエス様に出会った信仰、イエス様の人格としっかり結びついた信仰の歩みをしたいと思います。また、それこそイエス様が何よりも望んでおられることではないでしょうか。
もし、まだ自分の信仰に確信が持てないと思われる方は真剣に、「どうかイエス様と人格的な交わりをさせてください。」という祈りをなされば、その祈りは、みこころにかなう祈りですから、イエス様は必ず祈りを聞きとどけられて、その祈りの答えとしてご自分と出会わせてくださり、信仰の確信を与えてくださることを確信致します。