新しい天地と古い天地(1998年)

八 「わたしもあなたがたを遣わします。」

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20章21節)


ひとりひとりが福音を伝えることの重要性


今日は、聖書のこのみことばから、キリスト者ひとりひとりに与えられている福音伝道の重要性について、ごいっしょに考えてみたいと思います。


創造主なる神がご自分の御子イエス様をこの世にお遣わしになったのは、失われたたましいを尋ね出し救うためでした。神様は、失われた者を、だれであれ、どこであれ、尋ね出して救うために、ご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたのであります。そして主イエス様は、それと同じように弟子たちを、救いの福音を宣べ伝えるために、世界の各地に派遣されたのです。福音はこうして世界中に広がって行きました。私たちも、その恵みに与った者のひとりであります。そして、この福音伝道の使命は、かつて弟子たちに主が与えられたように、今、救われて主のしもべとされた、すべての者に与えられているのであります。


主イエスの救いを伝える相手は、それがだれであっても、また、その場所がどこであっても、まったく関係はありません。神様から迷い出たたましいを尋ね出して、福音を伝えるようにと、主イエス様はご自分のいのちの代価を払って、ご自分のものとしてくださったすべてのキリスト者に命じておられるのであります。キリスト者の中には、福音伝道の使命は、選ばれた特定の人々に限って与えられたものと考えている方がいますが、そのようなことは、聖書のどこにも書かれてはいません。福音伝道は、主イエス様に救われたすべての者に与えられた使命なのです。


福音の使者の手本


けれども、主イエス様に救われ、主のものとされた私たちは、どのようにして失われた人々を探し出し、どのように福音を伝えたらよいのでしょうか。自分にはその知恵も力もなく、また方法もわかりません。しかし、聖書にはその良い手本があります。それがピリポの伝道です。これからピリポの伝道の例を通して、キリスト者ひとりひとりの福音伝道のあり方について考えてみたいと思います。


主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。(使徒の働き8章26~39節)


この、ピリポの宦官に対する伝道には、福音を宣べ伝える者に大切な要素が七つ含まれていると思います。


福音の使者に大切な要素


一、主の命令に対する従順


まず第一に、ピリポは主の命令に対して従順に従いました。


主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこで、彼は立って出かけた。(使徒の働き8章26~27節)


当時、ピリポはサマリヤの町で多くの人々にキリストを宣べ伝えており、その成果は次のように上がっていました。


ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。(使徒の働き8章5~6節)


そのときに、主の命令が御使いによって告げられたのです。地図を見ると、サマリヤから南のエルサレムまでは約五十キロあります。そこからさらに南西に八十キロ行くとガザの町に至ります。簡単に行ける距離ではありません。しかも、なぜ実りつつあるサマリヤでの伝道を捨てて、ガザに行かなければならないのか、彼にはその理由も目的も知らされませんでした。しかし、ピリポは躊躇(ちゅうちょ)したり、迷ったりせず、また、そのために自分が払わなければならない犠牲も顧みずに、主の命令に従順に従って、ただちに出発したのです。ピリポにとっては、多くの人々に対する伝道の実りを自分の目で見ることよりも、みこころに従うほうがはるかに大切だったからであります。福音を宣べ伝える者は、このピリポのように、主のみこころに敏感でありたいものです。そして、主のみこころが明らかであることが示されたときには、ただちに、これに従順に従う用意をしていなければならないと思います。


二、宣べ伝えることに熱心


第二に、ピリポは主を宣べ伝えることに熱心でした。


御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえた。(使徒の働き8章29~30節)


ピリポは、宦官といっしょに行くように御霊に命じられたときに、「走って」行きました。この「走って」という言葉は、主のみこころを行おうという、彼の熱意、熱心をよく現わしていると思います。もし、ピリポがぐずぐずしていて宦官のところに行くのが遅れたならば、宦官はイエス・キリストがこの世においでになることを預言している、このイザヤ書五十三章をわからぬままに読み終わって、どんどん先に読み進んでしまい、イエス・キリストを信じ救われる機会を逸したかも知れません。福音を宣べ伝える者は、ピリポのように宣べ伝える機会を逃さないことに熱心でなければならないのではないでしょうか。


三、失われた者に対するあわれみ


第三に、ピリポは失われた者に対するあわれみの心を持っていました。


ピリポが宦官に近づいたとき、ピリポの心はどんなにか宦官に対するあわれみに満ちていたことでしょう。御霊の助けによって、何とかこの失われたたましいが救いに導かれるように、という切なる祈りがピリポの心に満ちていたに違いありません。主のために働く者は、失われていた自分が救われたのは、主の大きなあわれみによるものであったことを心から感謝し、今度は、自分が失われたたましいに対して、深い同情の心をもって交わることが必要です。パウロはこれについて次のように言っています。


もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。(ローマ人への手紙9章22~24節)


また主なる神様は、失なわれたたましいに対して、永遠の愛をもってあわれむ、とおっしゃっています。


「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。(イザヤ書54章7~8節)


したがって、福音を宣べ伝える者は、宣べ伝える相手の人がだれであれ、主がその人をあわれんでおられるということに、深く思いを致さなければならないと思います。


四、機会をとらえることの適切さ


第四に、ピリポは御霊の導きによって主イエス様を宣べ伝える機会を、じょうずにとらえました。


「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」(使徒の働き8章30節)


ピリポは、宦官が聖書のどこを読んでいるのかを知って、とっさにこのように宦官に話しかけました。それは宦官が読んでいた箇所こそ、聖書の最も重要なイエス・キリストについての預言であり、そのことを説き明かす絶好の機会だと御霊によって判断したからです。ここでもし、宦官と近づきになるための余計な会話をしていたら、イエス様を伝える機会は失われていたでしょう。ピリポのように、機会をじょうずにとらえ、適切に語りかけることが、福音伝道にたいへん大切なのではないでしょうか。


五、みことばに関する知恵


第五に、ピリポにはみことばについての知恵が与えられていました。


彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。(使徒の働き8章32~35節)


当時のユダヤ人は、これはイザヤを指していると信じていました。しかし、宦官はそれが正しいのかどうか、わからずに迷っていたのです。ピリポは御霊の導きによって、聖書を正しく知る知恵を与えられていましたので、この箇所が主イエス・キリストを預言していることを宦官に説き明かしすることができたのです。ピリポのように、私たちも福音伝道のために、御霊によって正しくみことばを知ることができるように祈る必要があります。


六、大胆さと機転


第六に、ピリポは大胆かつ機敏に行動しました。


ピリポに導かれた宦官は、罪の赦しがイエス・キリストを信じることによって得られることがわかり、ただちにイエス様を信じ受け入れました。そして水のあるところに来たとき、御霊の導きによって宦官は、「私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるのでしょうか。」とピリポに積極的に尋ねました。ピリポはぼんやりしていませんでした。ピリポは宦官がイエス様を救い主として受け入れたこと、すなわち、すでに宦官が御霊のバプテスマを受けたことを知り、次の段階としての水のバプテスマを受けるのにふさわしく整えられたと判断して、すぐにこの希望を入れて、宦官に水のバプテスマを授けました。よく、水のバプテスマを受けなければ、信じたことにはならないと考える人がいますが、それは正しくありません。イエス様を自分の救い主と心から信じることができるのは、宦官がイエス様を信じ受け入れたときのように、その人に聖霊によるバプテスマが与えられたからであります。水のバプテスマは、イエス様を信じた信仰を公に証しすることであり、また、イエス・キリストの十字架と復活のみわざによって、新しく生れ代わった者として主イエス様に、しもべとして従う誓いでもあるのです。ペテロは次のように言っています。


バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり・・・・。(ペテロの手紙第一3章21節)


福音を伝える者は、ピリポのように導く相手の人の霊の状態に心を配り、機会を逸することなく大胆に、かつ機敏に導くことができるように祈る必要があるのではないでしょうか。


七、最も大切な御霊の導き


第七に、ピリポには御霊の導きがありました。


御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。(使徒の働き8章29節)


復活なさったイエス様が天に上られる直前に、弟子たちに次のようにおっしゃいました。


「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)


ピリポもそのひとりとして、御霊によって導かれ、教えられ、力を与えられたのです。もし、彼が自分の知恵や力に頼ったならば、宦官の心を捕えることはできなかったでしょう。福音を宣べ伝えるひとりひとりは、自分の力や考えによってではなく、ピリポのように御霊に拠り頼むことを絶えず祈り求めることが最も大切であると思います。


イエス・キリストに救われた者は、この方を証しせざるを得ない


私たちは、キリスト・イエスに、ご自身の尊いいのちの代価を払って買い取っていただき、キリストのものとされた者であります。ですから、私たちは、罪からの救いはこの方以外にはない、ということがよくわかっています。ペテロとヨハネは次のように証しをしています。


この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)


また私たちは、イエス様がこの世に来られた目的が、すべての人の身代わりに十字架におかかりになるためであったことも知っています。ヨハネは次のように言っています。


この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。(ヨハネの手紙第一2章2節)


イエス様によって、滅びの罪から救い出されたということに、大きな喜びと感謝を持つ者は、この方を証ししたい、イエス様を宣べ伝えたいと心から願うようになるのではないでしょうか。もし、先にイエス様に救われ、イエス様がどなたで、何をしてくださった方かをよく知っている者が、そのイエス様を世の人に紹介しなければ、ほかにだれがイエス様を伝えるのでしょうか。これについて、パウロは次のように言っています。


「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ人への手紙10章13~15節)


エルサレムの初代教会がユダヤ人に迫害されたとき、使徒たち以外の信者たちは地方に散らされました。彼らはそこで「良いことの知らせ」すなわち、福音を宣べ伝えて町々を巡り歩きました。すでに、この時代から福音伝道は一般の信者によって行なわれていたのです。


その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒の働き8章1節)


散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。(使徒の働き8章4節)


福音を宣べ伝えることについては、今日も当時とまったく変わりません。いや、終わりの日がいよいよ間近に迫っている今日、主イエス様は、ひとりひとりのキリスト者に対して、「あなたを今、福音を宣べ伝えるために遣わします。」とおっしゃっているのではないでしょうか。




仮の住まいと永遠の住まい 前の章 次の章 メッセージ書庫