新しい天地と古い天地(1998年)

十 神から受ける慰め――父の友人の手紙から――

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(コリント人への手紙第二1章3~5節)


今日は、このみことばから、神から受ける慰めとはどういうものかということについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。


父の友人の手紙


最近、ちょうど七年前に八十八歳で天に召された父の物を整理していたときに、妻が一通の古い手紙を見つけて私に手渡してくれました。それは、すでに茶色に変色したノート紙の表と裏にペンで書かれたものでした。その手紙は、今から約八十年前、父が一高に在学中に父親を直腸癌で、母親を交通事故で相次いで失った直後に、父の同級生の平山清さんという友人から送られたものであることがわかりました。なぜ父がこの手紙を一生涯大切に持っていたのだろうという疑問は、読んでみたとたんに解けました。


これから、その手紙の一部をご紹介したいと思います。


親愛なる重田君


この度の貴君のご不幸に対し、私はいかにして貴君をお慰めしてよいかわかりません。もし、この不幸事が私の身の上にふりかかって来たら、私は実にどんなでしょう。そのときの覚悟が出来ていなければいけないかも知れませんが、私には出来ていません。私はそんな事を考えるだに恐ろしい。そのような仮定をするに忍びないからです。そのような私ですから、ただもう貴君がお気の毒でお気の毒でしかたがないばかりで、さてどうしたらよいのかわかりません。


ただ私は神のご啓示により、貴君および貴君のご弟妹をば、ただ神がその全能なる御力と無限の愛とによって、よきようにして下さるように祈るのが、私の今としては最善の策なることを知りました。これからは日に三度は必ずそれを神に祈ります。そして神が一刻も早く、それを聞き入れて下さるように、私の行動をば、ますます神の御心に逆らわぬように致します。そのためには、日々私を悩ますところの劣悪なる、しかも強大なる肉体の欲情に打ち勝ち、また最も困難に感じているところの仇をも憎むことのないように、一層励みます。


実際、その場になったら、私のごとき信仰の薄き者はどうなるか、それはわかりませんが、やはり、かかる際に人に最も強き慰安と新しき希望とを与えるものは、神の愛と正義とに対する信仰と、確固たる来世観に勝るものはないでしょうと思います。人は、物質的境遇、たとえば病むとか、死すとかいう境遇に対しては誰でも絶対服従であり、霊魂のみは独立自由で何者にも束縛されないというようなことを、この頃有名なラッセルという人が言ったそうですが、今のようなときは、全く霊魂について考えるべきだと思います。


私は今、まことに僅少ながら、この冬休みに働いて得たる報酬の残部をもって、本を購うて差し上げたいと思います。まことに貴君のご不幸を慰めるためには、何事でもしたいのです。重田君、重田君、どうか私のごときつまらぬ人間の微志を受けて下さい。


私は貴君の他の宗教に帰依(きえ)せらるることを知っております。また、他人の信仰を実に尊重すべきであることも知っております。しかるに今、キリスト教の本を差し上げるのは、貴君のお心にも背くことになりますから、私もそれは甚だ心苦しいのです。


けれども、三十年来帰依した仏教からキリスト教に移り転じた森村市左衛門翁の実例もあり、内村先生も「キリスト教は仏教などとは比較にならぬ程尊い。」というようなことをば明言しておられるようですから、貴君のお考えは存じませんが、私としてこの際、最善にして、かつ貴君および私自身に対して最も忠実と思うことを断行します。


重田君、少なくも私の微志(びし)をお汲み取り下さい。


神はわが力、わが高きやぐら、

苦しめる時の近き助けなり。

たとひ地は変わり、山は海原の中に移るとも、

我いかで恐れん。


私は、この平山清さんという方には、一度もお目にかかったことはありません。しかし、この方がはじめて主の福音を父に伝えてくださり、この手紙がきっかけとなって、父がイエス・キリストを救い主と信じる信仰に導かれるようになっただけでなく、ひいてはずっと後になって、やがて息子である私や、さらに妻や、娘や、母や、ふたりの叔父にも主の恵みが及ぶにまで至ったこと、またこれからも、さらに豊かにこの祝福が肉親のひとりひとりに及ぶであろうことに思いが及んだとき、この一通の手紙を通して神のなされたみわざの深さに心を打たれ、感謝の気持ちで一杯になりました。


なぜこの手紙に父の心が揺り動かされたかということは、私にはよくわかります。それは、親友であり、かつ何よりもキリスト者である平山さんの、父に対する真心が、誠意が、愛が、手紙の行間に溢れているからであります。悲しんでいる父に対して、今、自分がほんとうの慰めを与えられるのは、自分ではなくイエス・キリストの愛を伝えることであると決断して、心からの愛と、深い同情心と、へりくだりの態度とをもって、祈りつつ、福音を伝えている、その思いが読む者にはっきりと伝わって来る手紙だからであります。


まことの慰めは主から来る


私たちキリスト者は、悩み、苦しみ、悲しみの中に置かれている方に対して、人間的な慰めは何の助けにもならないこと、そしてほんとうの慰めは、私たち人間を愛してくださっている、生けるまことの神だけが与えてくださるものであることを、自分の体験を通して知っています。ですから、私たちは、悲しみ、悩み、苦しんでいる方には、その神からのまことの慰めが与えられるように祈るのです。


神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(コリント人への手紙第二1章4~5節)


私たち人間を愛してくださる神は、嘆き悲しむ者に対して、


わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。(イザヤ書51章12節)


と約束しておられます。


母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。(イザヤ書66章13節)


そして神は、私たちに対する慰めを、具体的に神の御子イエス・キリストをこの世に遣わすことによって明らかにしてくださいました。主イエスは、預言者イザヤの口を通して次のようにおっしゃっています。


神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。(イザヤ書61章1~3節)


平山さんも、キリスト者としてこの確信をお持ちになっていたがゆえに、父に対して謙虚ながらも毅然(きぜん)とした態度で、このような際に、人に最も強い慰めと新しい希望とを与えるものは、神の愛と義とに対する信仰であり、死後の行く先についての確信であって、このことは全く霊的に考えるべきであると父に助言してくださったのだと思います。


キリスト者は神の愛、神の慰めを運ぶ器


私たちキリスト者は、自分の罪の身代わりとして、神が御子イエス・キリストを十字架に架けてくださったことを通して、神の大きな深い愛を知りました。この神の愛は、イエス・キリストを通して私たちに注がれたように、信じる私たちを通して他の人に注がれるのであります。その意味で、キリスト者は主の愛を、主の慰めを運ぶ器であります。


神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(ヨハネの手紙第一4章9~11節)


もし私たちが、私たちに永遠のいのちを得させてくださるために、十字架の死という尊い贖いの代価を払ってくださったほどの神の愛、主イエスの愛を心から感謝しているのであれば、その愛を自分だけに留めて置くのでなく、自ずと私たちに注がれている、この溢れるばかりの主の愛と慰めを、自分の身近にいる悲しんでいる人、苦しんでいる人に持ち運ぶ器としての使命を示され、実行するようになるのではないでしょうか。そして私たちがこの主の愛と慰めに満たされて、相手を愛し慰めるときに、はじめて相手は心を開いて、私たちの語る真理のことば、すなわち福音に耳を傾けるのではないでしょうか。


それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。(コロサイ人への手紙3章12節)


このみことばにある、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容は、人間の生来の性質にはありません。これらは御子イエスのご性質であります。私たちが神の愛とあわれみを受け、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとして生まれ代わったときに、私たちの中には御霊が宿ってくださいます。そして、神の子どもとされた私たちが御霊に従って歩むときに、はじめてこの御子の性質が御霊の実として私たちに与えられるのであります。御霊の実とはどんなものでしょうか。


御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ人への手紙5章22~23節)


ですから、私たちが御霊の実であるこれらの性質を身に着けるためには、主イエスを信じる私たちの中に宿ってくださっている御霊に従い、肉の思いを排除するように、真剣に祈り求めることが大切であります。パウロは次のように言っています。


私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ人への手紙5章16~17節)


キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ人への手紙5章24~25章)


平山さんも、御霊に導かれてこの手紙を書かれたのであろうと思います。手紙の中で、平山さんは繰り返し何度も、重田君、重田君と父に呼びかけておられます。これによっても、私は父の痛み、悲しみを思いやる平山さんの、主イエスにある深い愛と、同情心と、誠意とを感じ取ることができました。まさにこれは御霊の実に溢れた手紙ではないでしょうか。


悲しみ、悩み、苦しむ人に対してなすべき最善のこと


悲しみ、悩み、苦しんでいる人に対して、私たちがなすべき最善のことは何であるかと言えば、それは祈ることでありましょう。そして、その祈りは、神がその人の心を開いて、慰め主、いやし主である御子イエス・キリストとの出会に導いてくださるようにという、真剣なとりなしの祈り以外ないのではないでしょうか。


平山さんは、父と父の弟妹たちのために、神が無限の愛によって、良きようにしてくださるように、日に三度、神に祈ると誓われました。そしてそれだけではなく、神がその祈りを一刻も早く聞き入れてくださるように、自分の日々の行ないを、ますます神のみこころに背かぬよう、自分の肉の思いに打ち勝つように、また自分の仇をも憎まぬように励むとまで神に誓われました。私たちが他人の救いのために、自分を犠牲にして祈る、そのような祈りを神が喜んで聞き入れてくださらないはずはないのではないでしょうか。


悲しみ、悩み、苦しむ人に対する最善の贈物


私たちは、悲しんでいる人、苦しんでいる人を慰めるために何を差し上げることが最善でしょうか。品物でしょうか。お金でしょうか。そのようなものでは、ほんとうの慰めは得られないことは言うまでもありません。最善の贈物は、神のみことばではないでしょうか。


平山さんも、このことを知っておられました。手紙の終わりの所には、文語体の聖書の詩篇四十六篇からのみことばが書かれていました。新改約聖書には、同じみことばが次のように訳されています。


神はわれらの避け所、また力。

苦しむとき、そこにある助け。

それゆえ、われらは恐れない。

たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。(詩篇46篇1~2節)


このみことばを選ばれた理由を考えてみますと、逆境の中に置かれた父に、一刻でも早く、唯一にして生けるまことの神、愛と義とあわれみに満ちた神を信じてもらいたい、そしてその神に信頼して、たとえ、どのような災難が身にふりかかっても恐れることのない確信を持って欲しい、という平山さんの祈りが、このみことばに込められているように思いました。


さらに、平山さんは、父を慰めるためになすべき最善のことは何かを考えた結果、冬休みに働いて得た報酬で買った、神のことばである聖書を父にくださったのです。彼は、父が仏教に帰依(きえ)していることを承知のうえで、また、他人の信仰を尊重すべきであることを承知のうえで、あえて自分としてこの際最善にしてかつ、父に対しても自分に対しても最も忠実と考えたことを断行したと、言っておられます。まさに、平山さんは神のしもべとして、神にも人にも忠実な方であると思います。


ヨブの友人たち


私はこの手紙を読んだときに、ヨブの三人の友人のことが頭に浮かびました。彼らもヨブの悲しみ、苦しみを慰めようと思ってやって来ました。動機は平山さんと同じでありました。しかし彼らの姿勢は、平山さんの姿勢とは根本的に違っていました。彼らはヨブが苦難にあった原因は、ヨブが神に対して罪を犯した結果であることを認めさせようとして、ヨブを慰めるどころか論争してしまったのです。彼らは主の愛によってヨブを慰めたのではなく、自分を高い所においてヨブを見下ろし、裁いてしまったのです。しかし、私は自分を顧みて自分はこれまで、果たして平山さんのように深い愛をもって、人を慰めたことがあったろうか、人に接したことがあったろうか、むしろヨブの友人のような態度をとっていたのではなかったのだろうかと、この手紙を通して深く自分の愛のなさを示されました。愛のない信仰は、無価値であるとパウロが言っている通りであります。その意味で、この手紙は私にとって、「あなたは神の愛に欠けている。わたしがあなたを愛したように、あなたも隣人を愛しなさい。」という、主からいただいた、かけがえのない大切な諭しの手紙となりました。




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