新しい天地と古い天地(1998年)
わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(ヨハネの黙示録3章15~16節)
今日はイエス様のおっしゃった、このみことばをごいっしょに考えてみたいと思います。イエス様はここで「あなたはなまぬるい、むしろ、熱いか冷たいかであってほしい。」とおっしゃっています。これは、イエス様を信じている者、すなわちキリスト者に対しておっしゃっているみことばです。そこで今日は、信仰における熱心とはどんなものであろうか、ということについて考えたいと思います。
と申しますのは、うっかりすると信仰に熱心であるという意味を取り違えて、間違った熱心さに陥る危険があるからです。かつての私を含めて、キリスト者の中には、熱心な信仰というのを、教会に対する奉仕、あるいは教会活動に熱心というように取り違えている方々が少なくありません。しかし、それは、目に見える行ないという形で熱心に教会に奉仕することが信仰的なことだと思っていたり、またそれによって自分の信仰の熱心さを現わしたいという自分自身の思いや、回りの人たちにも、そのような自分を見てもらい、熱心さを認めてもらいたいという思いが、潜在的にあるからではないでしょうか。そうなると、行ないに熱心であることによって自分を誇ることにもなってしまうのです。これは見当違いの熱心さであります。
また、個人ばかりでなく、教会そのものが信仰の熱心さを別の形で現わしているとろこもあります。それは異言やいやしの信仰を熱心に行なっている教会であり、これも、みことばの真意を取り違えた誤った信仰の熱心さであります。パウロは行ないを誇ることのないようにと、次のように言っています。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2章8~9節)
では、正しい信仰の熱心さとは、どのようなものを言うのでしょうか。信仰においては、何に熱心であるべきなのでしょうか。イエス様が私たちに「あなたの信仰は熱くあってほしい。」と望んでおられる信仰の熱心とは、どういうものなのでしょうか。それをこれからごいっしょに考えてみることにしたいと思います。
まず第一に、私たちは天にあるものを求めることに熱心でなければならないと思います。パウロは、次のように言っています。
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ人への手紙3章1~2節)
私たちはイエス様とともに十字架につけられ、イエス様とともによみがえらされた者であります。そうであれば、地上のものを思わず、上にあるもの、すなわち、天にあるものを求めなさい、そこにはイエス様がおられるからです、とパウロは言っているのです。私たちは、今までは地上に属する者、サタンの支配下に置かれていた者でありました。そのときは、私たちの求めるものは、百パーセント地上のものであったのです。
けれども、すでに私たちはイエス様を信じる信仰によって、天の国籍を持つ者、天に属する者とされました。ですから、この地上に肉体が置かれていても、心は天にあるはずであります。したがって、求めるものは、すべて天的なものを熱心に求めることが、キリスト者の信仰の熱心さではないでしょうか。
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かっに励んでいます。すなわち、うしろて進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。(ピリピ人への手紙3章13~15節)
このようにパウロは、成人である者はみな、神様の栄冠を得るために、地上のものには目を留めず、ひたむきに天に目を向けて信仰の馳せ場を走ろうと言っています。成人とは信仰における成人、霊的な成人という意味であります。
私たちもイエス様を信じたときは、生まれたばかりの霊の赤ちゃん、新生児であるわけですけれども、イエス様がみことばの乳によって私たちを育み、育ててくださいます。ですから、私たちがいつも霊的な飢え渇きをおぼえて、みことばを食べ続けるならば、それによって私たちはだんだんに霊的に成長して、成人に達して行きます。イエス様はそのことを私たちに期待して育ててくださるのです。
二番目に、私たちは罪の悔い改めに、熱心でなければならないということです。
もちろん、罪の悔い改めはイエス様を信じるときに、なされなければならない非常に大切なことです。もし自分の罪がわからず、その結果、罪の悔い改めもないままにイエス様を信じるとすれば、これはたいへん困ったことになります。なぜなら、それではイエス様の十字架の意味がわからないからです。かつては私も、水のバプテスマを受けていたのにもかかわらず、自分の罪がどのようなものかわからなかったために、長い間イエス様の死と自分との関係がはっきりしていませんでした。そのために、私の信仰はまったく無きに等しい、なまぬるいものになっていたのです。ですから、イエス様の十字架の死が、ほかならぬ自分自身のために必要であったということがわかるためには、まず自分の罪がどんなに大きなものであるかを知る必要があります。それがはっきりわかりさえすれば、信じるときに罪の悔い改めに熱心にならざるを得ないでしょう。
ではイエス様を信じた後には、もう悔い改めは必要ないかというと、そんなことはありません。なぜなら、イエス様を信じた者は天に属する者とはされていますが、地上にあって生かされている間は、なおサタンの攻撃、誘惑が非常に強く、そのために罪を犯してしまうことがありがちだからです。この世の支配を許されているサタンは、地上に置かれた神の子どもである私たちキリスト者を、何とかして正しい信仰から引き離し堕落させようと、いろいろな誘惑の手を使って罪を犯させようとするのです。
悲しいことに、地上に置かれている私たちの肉の部分は弱く、そのために、何かあるとすぐに動揺して、サタンの誘いにかかり、罪を犯してしまうのが私たちなのです。私自身も、それをたびたび体験しました。しかし、幸いなことに私たちは、そのようなときにも、主イエス様が弟子のシモン・ペテロのために祈られたように、ご自分を信じるすべての者のためにも、とりなしの祈りをしてくださるという確信がありますから、たとえ罪を犯してもすぐに悔い改めて主に立ち返ることができ、また、ふたたび主からの平安をいただくことができるのです。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。(ルカの福音書23章31~32節)
また私たちは、ともすれば、イエス様の十字架の贖いが自分の過去、現在、未来のすべての罪を赦すものであるという恵みに甘えて、かえって罪を甘く見て、罪を犯すことに痛みや悲しみをおぼえることが少なくなってしまっているのではないでしょうか。もしそうであれば、たいへんに恐ろしいことであります。しかし、主イエスはそのような者に対しても、愛をもって次のように戒めてくださるのです。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(ヨハネの黙示録3章19節)
イエス様は、ご自分のいのちをもって罪から救い出された私たちを心から愛してくださっているがゆえに、私たちを叱ったり、懲らしめたりなさいます。いろいろな試練は、私たちを霊的に成長させようというイエス様の愛によって与えられるものです。ですから、私たちが罪を犯したことに気づいたときには、信じたとき以上の熱心さをもって、心から悔い改めて主に立ち返らなければなりません。この悔い改めが、私たちの信仰の歩みに大切なことであると、主は預言者ヨエルの口を通して、次のように言っておられます。
「しかし、今、――主の御告げ。――心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。(ヨエル書2章12~13節)
三番目に、私たちは主に信頼することにおいて熱心でなければなりません。
ユダの国にダニエルという貴族の若者がおりました。ユダは当時の大国バビロニヤと戦って敗北し、王をはじめとして多くの国民が捕囚としてバビロニヤに連れて来られました。ダニエルもその中のひとりでしたが、バビロニヤの王ダリヨスに信頼されて、捕囚の身でありながら国政に参与するほどの身分になっていました。
ところが、これを心よく思わない他の大臣たちは、ダニエルを抹殺しようと計りました。彼らはダニエルが律法を守って、主なる神様以外には礼拝しないのを知って、ダリヨス王に、「王以外のものを拝んではならない。もし、これを破れば獅子の穴に投げ込まれる。」という禁令を出させました。それでもダニエルは唯一の主なる神に祈っていたので、とうとう獅子の穴に投げ込まれてしまいました。それでも、彼は主なる神に信頼していました。
王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。(ダニエル書6章19~23節)
彼は獅子の穴の中に入れられても、すなわち、死に直面しても、神様を信頼し続けました。ダニエルの神様に対する、この信頼の熱心は、私たちの手本であります。また、ダビデは次のように言っています。
恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。(詩篇56篇3~4節)
私たちは、日頃は主に信頼すると言ったり、思ったりしますが、ダニエルやデビデのように、恐れのあるときにこそ、主に信頼することに熱心でなくてはならないのではないでしょうか。
四番目に、私たちは、主に対する従順さにおいて、熱心でなければなりません。
ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコの福音書10章28~30節)
このペテロのように言うことは、私たちにはなかなかできません。何もかも捨ててイエス様に従うという、ペテロのような従順さを持つことは、たいへんに難しいことです。けれどもイエス様は、「あなたがたに、この世でわたしに従うために受ける迫害に代わって、後の世では永遠のいのちを与えます。」と約束しておられるのです。
私たちは、このすばらしいイエス様の約束に心から感謝して、イエス様に従順であることに熱心でありたいと切に願う者です。しかし、そのためには、意識して、怠惰(たいだ)な自分を叱咤(しつた)しなければならないのではないでしょうか。パウロは次のように言っています。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(コリント人への手紙第一9章7節)
パウロは、まことにすぐれて偉大な伝道者であります。その彼ですら、自分の肉体を打ち叩いているのです。その理由について、彼は、「人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないため」と言っています。この言葉を、私たちは自分の身に当てはめて、深く自分の内側を吟味しなければならないのではないでしょうか。
五番目に、私たちはイエス・キリストを証しすることにおいて、熱心でなければなりません。
ペテロとヨハネら使徒たちは、祭司やユダヤ人の指導者たちから迫害されてもイエス様を証しし続けました。
そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」(使徒の働き4章18~20節)
「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」宣べ伝えることに、彼らは何という熱心でありましょうか。
聖歌五七八番に、「滅び行くたましいを重荷とはなさずや。なにゆえに主の救い、人々に語らぬ。用い給え、わが主よ。用い給え、われをも。み恵みを取り次ぐに、通り良き管として。」という歌詞があります。イエス様を証しすることの熱心さが、歌詞の中にあふれているすばらしい聖歌であります。また、パウロは次のように言っています。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。(テモテへの手紙第二1章7~8節)
たしかに、私たちは臆病(おくびょう)であり、弱い者であります。しかし、私たちが主からいただいている力と愛と慎みの霊によって、弱いものである私たちが強められて、熱心に主を証しすることを、イエス様は望んでおられるのです。
六番目に、私たちは主のために苦しむことにおいて熱心であることが必要です。
イエス様は、私たちを滅びに至る罪から救い出してくださるために、どんなに苦しまれたでしょうか。それは、想像に絶するものであったと思います。イエス様はこうおっしゃっています。
わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。(ルカの福音書12章50節)
イエス様は神であられます。神様は人間の苦しみを味わうことはおできになりません。ですから、イエス様は神でありながら人となって、私たち人間の苦しみを味わってくださったわけであります。しかも、イエス様の十字架の苦しみというのは、本来は私たち自身が当然受けなければならない苦しみを代わりに負ってくださったものなのです。そのイエス様のために、私たちは、どれほど熱心に苦しむことができるでしょうか。パウロは、こう言っています。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ人への手紙1章29節)
使徒たちは、イエス様を宣べ伝えることによって迫害を受け、そのために恥かしめを受け、苦しみを味わわなければなりませんでしたが、そのとき、彼らは悲しむのでなく、反対に喜んだのであります。
使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒の働き5章40~41節)
私たちが、イエス様の証しをするときに、あるいは、イエス様の側にはっきりと立つときに、使徒たちには、はるかに及びませんが、いろいろとつらい、不快な目に会うという体験をします。そのときに、私たちも使徒たちのように、「御名のために恥かしめられるに値する者とされた。」という資格が自分にも与えられたからこそ、このような苦しみに会っているのだというように喜べる者になりたいと切に思います。
七番目に、私たちは主のしもべのわざに努めることに、熱心であるべきであります。聖書の中でイエス様は、忠実なしもべと怠け者のしもべのたとえ話しをしておられます。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイの福音書25章14~30節)
神様からの賜物を活用する者は神様に喜ばれますが、怠けてそのままほったらかしにしていた者は、神様から懲らしめを受ける、ということのたとえであります。私たちは主からひとりひとり、その人に応じた賜物を与えられています。その賜物を私たちはどうしているでしょうか。多くの賜物が与えられているか、少ない賜物が与えられているかを、主は問題になさいません。それぞれが主から与えられた賜物を、主のためにどのくらい活用しているかということを、主はご覧になるのです。それが、主に忠実であるかどうかの物差しであります。
私たちに与えられた賜物とは何でしょうか。健康、知恵、時間、金銭などもそうです。しかし、それらだけではなく、主から与えられた賜物には、霊的なものがあります。それは、御霊の実であります。御霊の実は次のようなものであるとパウロは言っています。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ人への手紙5章22~23節)
これらもすべて主から来たものです。主から来たものを、主のために活用することが、忠実なしもべの熱心さの証しです。このように、すべてはそれらを用いて主のご栄光を現わすために主からいただいたものですから、私たちは、少しでも主のご栄光が現わされることを祈りながら、主からいただいたすべての賜物を用いて、しもべとしてのわざに熱心でありたいと思います。
以上、信仰における正しい熱心について七つ挙げましたが、これをまとめますと、私たちは主を愛することに熱心でなければならない、ということに尽きます。私たちの信仰の熱心の証しは、主に対する愛に熱心であることに尽きるからであります。
ひとりの律法学者が、神様の命令のうちで何が一番大切ですかとイエス様にお尋ねしたとき、イエス様は次のように答えられました。
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコの福音書12章29~31節)
またイエス様は次のようにおっしゃっています。
イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。」(ヨハネの福音書8章42節)
私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、生ける唯一の主なる神様を父と呼ぶことができるように生まれ代わらせていただきました。神の子ども、キリストのものとされた私たちは、父なる神様ならびに御子なる神イエス様から、どんなに愛されているかを良く知っているはずであります。しかし、その私たちは、私たちを熱心に愛してくださっている神様、イエス様の愛に比べて、どれほど神様やイエス様を愛するのに熱心でありましょうか。
主を愛することに熱心であるということは、主が言われたように、主の命令を守り行なうのに熱心ということであります。しかし、イエス様が、
もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14章15節)
とおっしゃっているのは、私たちが口では主を愛していると言いながら、主の命令に従うことに熱心ではないことを指摘しておられるのではないでしょうか。
さらにイエス様は、次のようにおっしゃっています。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネの福音書15章9~12節)
私たちは、このイエス様のみこころに従って、私たちに注がれている溢れるばかりの主の愛を、いつも熱い思いで感謝し、満たされたその愛を隣人に持ち運ぶことができるように、心から祈りたいと思います。それが主を愛することに熱心であり、ひいては信仰における正しい熱心な姿勢だからであります。