新しい天地と古い天地(1998年)
彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4章13節)
今日は、このみことばを通して、私たちキリスト者がイエス様とともにいることの意味、大切さについて、ごいっしょに考えてみようと思います。
ペテロとヨハネは、ともにイエス様の側近くにいた弟子としてよく知られています。このふたりは、家業として子供の頃から漁師をしていましたから、無学な普通の人であっても当然であります。イエス様は、この無学で普通の人を弟子となさったのです。
イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイの福音書4章18~22節)
「使徒の働き」の三章から四章にかけては、このイエス様のふたりの弟子、ペテロとヨハネの伝道の様子が詳しく書かれております。全部読みますと長くなりますので、ところどころ聖書から引用しながら、その内容をかいつまんでお話しします。
ペテロとヨハネは、エルサレムの神殿の門の前で、生まれつき足のきかない男から施しを求められました。そこで、ペテロはこの男に次のように言いました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒の働き3章6節)
すると、男の足はたちまち強くなって、おどり上がってまっすぐに立って、歩きはじめ、神様を賛美しながら、ペテロとヨハネといっしょに神の宮に入って行きました。
これを見ていた、たくさんの人々は驚いて彼らのところにやって来ました。ペテロはこの人々に向かってこう言いました。
「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒の働き3章12節)
「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」(使徒の働き3章16節)
そして、ペテロとヨハネは、イエス様の十字架の死と復活について力強く証しし始めたのです。群衆の中には祭司たちや宮の守衛長、死者の復活を否定しているサドカイ人たちがおり、ふたりを捕えて、大祭司、民の指導者、長老、学者たちの前に引き出しました。彼らは、ふたりに向かって、何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのかと尋問し始めました。それに対してふたりはまったく恐れることなく、次のように彼らに答えました。
「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒の働き4章8~12節)
これを聞いて、祭司たちはたいへんに驚きました。そして救い主イエスについて、このようなことを祭司や律法学者や長老たちの前で恐れることなく、堂々と証しをするこのふたりが、律法や神学の教育も受けておらず、聖書の知識もない、無学で普通の人であるのを知ってますます驚きました。当時、祭司や律法学者や長老といった人たちは、神様と一般の人々の間に立って神様にとりなしの祈りを捧げたり、神様の律法を教えたりする特別の階級に属している人たちでありました。このような階級の人たちだけが神様のことばを伝える資格があるとされていたのです。
また、祭司や律法学者らは、ペテロとヨハネが大胆にイエス様のことを宣べ伝えただけでなく、足なえを立たせたという自分たちにはできないことをしたことに仰天したと思います。ですから、このふたりが、どうしてそのような知恵と力を持つようになったかを調べました。その結果、唯一つ、ふたりがイエス様とともにいたという事実だけがわかって来たのです。しかし、なぜふたりがイエス様とともにいたから、あのような知恵と力を持つようになったのかということは、いくら考えても、どうしても理解できなかったのです。
冒頭で申しましたように、ペテロとヨハネは、漁をしていたときに、イエス様の呼びかけに答えてただちに網を捨ててイエス様に従い、それからずっと、ふたりはイエス様の愛する弟子としていつもイエス様の身近にいました。そのおかげて、ふたりはイエス様の上に起こった重大な出来事を見ることができました。そのうちのいくつかを挙げてみたいと思います。
第一の体験は、次のようなものでした。
それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。(マルコの福音書9章2~9節)
ふたりにとって、この出来事は大きなショックであったと思います。しかし、この体験によって、彼らは自分たちの先生が、神様のところから下って来られた神の御子であるということを知ったのです。
第二の体験は、イエス様が死人をよみがえらせたのを見たことです。
イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。(マルコの福音書5章35~42節)
このように、ペテロとヨハネは、イエス様が死人をよみがえらせるところを見て、イエス様が人間にはとうていできない力、死から人をよみがえらせる力、すなわち、神の力を持つ方であることを体験しました。
第三の体験は、イエス様が悲しみ、恐れ、もだえながら、父なる神に祈っておられるのを見たことです。
ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコの福音書14章32~34節)
ゲッセマネの祈りとして有名な祈りをなさる直前に、イエス様は彼らにこのようにおっしゃいました。それは、人としてのイエス様が、私たちの身代わりになって神様から罰せられることが、いかに恐ろしく、苦しいことであるかを自ら体験してくださったからであります。人の子としてのイエス様の悲しみ、恐怖、苦しみをペテロとヨハネは見たのであります。これらの強烈な体験はペテロとヨハネの信仰にとって、どれほど大きな力になったでしょうか。
しかし、ふたりが最も強烈な体験をしたのは、彼らが復活のイエス様に会ったことでした。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネの福音書21章4~7節)
これは彼らが復活されたイエス様に出会ったときの情景です。彼らは、自分たちの愛するイエス様が十字架で死に、墓に葬られてしまったので、失意の心を抱きながら、ふたたび魚を取る漁師に戻っていました。漁に出ましたが何も取れませんでした。そのとき、復活のイエス様に出会ったのです。
ふたりは、復活のイエス様との出会いの体験を通して、これからはイエス様がいつもともにいてくださる、という確信を持ちました。復活のイエス様にお会いしたときに、まず何が彼らの頭に浮かんだでしょうか。それは、最初のイエス様との出会いのときに、イエス様がおっしゃった「魚を漁るのではなく、人を漁る漁師になりなさい。」ということばではなかったでしょうか。そして、ふたりはこの復活のイエス様と出会って、主が自分たちとともにおられることを確信し、それによって、彼らの弱った霊に、勇気と力が与えられて、ふたたび人を漁る漁師の仕事に帰ったのです。
イエス様の弟子の資格とは何でしょうか。それはこのふたりのように、「主を見た」者であります。復活の主と出会って、その証しをする者であります。ヨハネは次のように言っています。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――(ヨハネの手紙第一1章1~2節)
ここでも、「私は見たので、そのあかしをし、・・・・。」と言っています。彼はまた、
私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。(ヨハネの手紙第一4章14節)
とも言っています。イエス・キリストの弟子の資格は、このように、主に出会った者に与えられます。
イエス様の弟子は、ペテロやヨハネのように、人となられたイエス様に直接仕えた者に限りません。霊の目でイエス様を見た私たちキリスト者は、霊の目で復活のイエス様に出会った私たちキリスト者は、無学で普通の人であり、聖書の知識はなくても、だれでもイエス様の弟子の資格があります。単に人の知恵で読んだ聖書の知識は、むしろ福音の妨げになることがあります。唯必要なのは、イエス様がともにいてくださることであります。私たちはイエス様がともにいてくださることによって、イエス様から力と知恵とをいただいて、はじめて大胆に福音を証しすることができるのです。イエス様は、
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。(ルカの福音書21章15節)
と、私たちキリスト者に約束してくださっているのであります。何と心強いではありませんか。
パウロは、
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ人への手紙1章17節)
とイエス様を信じる私たちのために祈ってくれていますが、父なる神様は、私たちキリスト者が無学で普通の人であっても、御霊を遣わしてくださり、御霊の啓示によって神様のみこころと奥義を知る知識を与えてくださいます。これについて、パウロは、
みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、・・・・。(コリント人への手紙第一12章7~8節)
と言っています。このように、復活のイエス様との出会いの体験を通してイエス様の弟子とされた多くの人たちは、御霊によって与えられる知恵を通してのみ、神様の奥義を知るのであり、神学や聖書の研究によって知ったのではなかったのです。たとい人が自分の知識で、神のことばを宣べ伝えても、そこには主がともにおられるという喜びもなく、聖霊が働かれる余地もありませんから、聞く人々の霊を揺り動かすことはできません。パウロは、
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(コリント人への手紙第一1章18~24節)
と言っていますが、このように、イエス様の知恵、神の知恵をいただくことによって、はじめて私たちは神様の奥義について、人に正しく説き明かしすることができるのであります。そのために、イエス様は助け主なる御霊を私たちに与えてくださったのです。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネの福音書14章16~17節)
助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネの福音書14章26節)
ハウロは御霊の助けによって宣教がなされることの重要性について次のように言っています。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(コリント人への手紙第一2章11~14節)
私たちキリスト者も、ペテロやヨハネ同様、無学で普通の人間であります。けれども、私たちは恐れたり、萎縮(いしゅく)する必要はまったくありません。私たちがペテロやヨハネと同じようにイエス様に心から信頼するときに、聖霊が、すなわち、肉の目には見えないイエス様がともにいてくださって、神様のみこころを私たちキリスト者の霊に啓示してくださり、語るべきこと、証しすべきことをすべて教えてくださり、助けてくださるからです。
このように、福音伝道に必要な力も知恵もすべて、ともにいてくださるイエス様が御霊を通して私たちキリスト者に与えてくださっていることに心から感謝して、何も知らずに滅びへの道を歩んでいる人たちに、ひとりでも多くイエス様を大胆に証しできるように祈りたいと思います。