新しい天地と古い天地(1998年)
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイの福音書1章18~21節)
聖書には、人の知恵では理解することのできない、隠された神の奥義が書かれています。それは、神の御子イエス・キリストによる、神の救いのご計画であります。神の御子が人となって、人間を救うためにこの世に来られた、それがイエス・キリストであるということは、人間の理解を越えたことであります。神の民として選ばれ、旧約聖書において、すでに神が約束しておられるメシヤの到来を待望しているユダヤ人さえも、そのメシヤが、神が人となられたイエス・キリストであることを信じることができませんでした。たとえば、イエス様の郷里の近くの人々は、イエス様をヨセフとマリヤの子としか見ることができなかったのです。
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」(ヨハネの福音書6章41~42節)
ですから、パウロも、この神の救いの奥義を知るためには、人の知恵によらず、御霊によらなければならないと言っています。
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(コリント人への手紙第一2章7~14節)
神の救いの奥義は、具体的にはキリストの降誕、十字架、復活、昇天、再臨などによって現わされていますが、どれ一つとして、人の知恵では理解できるものはなく、すべて御霊によってのみ、わきまえ知ることができるのです。
今日は、キリストのご降誕の恵みをおぼえる日に当たりますので、ここに挙げた神の奥義の中で、イエス・キリストの誕生において示された処女降誕、処女受胎について、御霊の導きによってごいっしょに考えてみたいと思います。
聖書を読むとき、多くの人は、キリストが処女から生まれたということに、まず、つまずくのではないでしょうか。人間の常識では、あるいは科学的には、とうてい考えられない不可能なことだからです。ですから、昔から人々はそのようなことを、まともに信じるのは馬鹿げていると、頭から否定します。今日、クリスチャンの中にもイエス・キリストの処女受胎、処女降誕を否定する人々が少なからずいるのです。また、キリストが処女から生まれたかどうかということは、信仰にとって、どうでもよい問題ではないかと考えている信者もいます。
したがって、それらの人々は、どうしてキリストが処女から生まれなければならなかったのか、なぜキリストがヨセフとマリヤという、私たちと同じ人間夫婦の間に生まれては、いけなかったのかということについては、もはや深く問おうともしません。
しかし、イエス様に霊的な出会いをした経験を持つキリスト者は、それによって霊の目が開かれた結果、キリストが処女から生まれたことにこそ大きな意義があり、これこそ人間にとって恵みであることを知ることができます。霊が開かれた者は、人間をお救いになる神様の大いなる恵みのご計画は、イエス・キリストの処女受胎、処女降誕から、私たちの目に見えるような具体的な形で開始されるのを、御霊によって知ることができるのです。
私たちは、御霊の導きにより、キリストが人間によってではなく、聖霊によって、みごもられたということの重要性を示されます。
聖書は、アダムが神に背きの罪を犯して以来、その子孫である人間はひとり残らず罪に汚れた者となったために死ななければならなくなったと言っています。したがって聖書は、そのような罪人である人間の男と女の間にできた子どもは、すべて生まれる前から罪の種を持つ者として母の胎に宿り、罪ある者として生まれるとも言っています。
ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51篇5節)
ですからもし、イエス・キリストが私たち人間と同様に、男と女すなわち、ヨセフとマリヤによってお生まれになったのであれば、私たち人間と同様に、罪の性質を生まれながらにお持ちになっているはずです。しかし、イエス・キリストは一生涯罪を犯されませんでした。聖書は、イエス・キリストが罪を知らない方、罪を犯されたことのない方であると言っています。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(コリント人への手紙第二5章21節)
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。(ペテロの手紙第一2章22節)
神の御子が、なぜ人としてこの世に生まれてくださったのでしょうか。どうしてイエス・キリストが、人間のからだを持ってくださったのでしょうか。それは死ぬためなのであります。神は永遠に存在される方、永遠に生きておられる方であります。したがって、神の御子イエス・キリストにも死はありません。そのイエス・キリストが、私たち人間の罪の代価を支払うという目的で死んでくださる、そのために、私たち人間と同じからだをもって、地上に来てくださったのであります。罪の代価は罪人が支払うことはできません。罪の代価として捧げられるからだは、罪のないからだでなければならないのです。そのためにイエス・キリストの受胎は、男と女によらず、神の霊、すなわち聖霊によることが、どうしても必要であったのです。
私たちは、マリヤが処女であって、聖霊によってみごもったということが事実であることを、御霊によって知ることができます。聖書には次のように記録されております。
御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカの福音書1章26~35節)
「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りません。」マリヤが処女として、純潔を保っていたという事実は、何よりも御使いに言った、このマリヤ自身の言葉によく表われています。彼女は神様からキリストの産みの母に選ばれたほどの、神にも人にも誠実な人ですから、神の御使いに偽りを言うことなどはあり得ません。そのことは、主なる神が一番よく知っておられるのです。
このように、処女降誕は事実であります。これは決して、処女降誕に対する信仰を説明するために、人間が造り上げた架空の話ではありません。むしろ、処女降誕に対する信仰は、処女降誕の事実の結果として生じたものであると私たちが確信できることこそ、大きな恵みではないでしょうか。
キリストが処女から生まれるということは、イエス・キリストのご降誕の約七百年前に、主なる神が、預言者イザヤを通しても予告されていました。
主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。(イザヤ書7章14節)
そして、主なる神は、この予告をその七百年後、今から約二千年前にこの世界の歴史の中に成就されたのです。マタイはこの預言の成就について、マタイの福音書に次のように述べています。
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)(マタイの福音書1章22~23節)
神自ら名づけられた、「神は私たちとともにおられる。」という名ほど、神の御子にふさわしい名がほかにあるでしょうか。
さきほど申しましたように、アダム以来、人間はひとり残らず神から背き離れた状態にあります。これが、聖書でいうところの罪人です。しかし、神様はそのような罪人である人間をなお愛してくださり、和解によって、ふたたびご自分と親しい交わりを回復したいと切に望んでおられます。しかし、神は完全な方、完全に聖く義なる方ですから、罪に汚れた私たち人間を、そのまま受け入れることはおできになりません。神様との和解には仲介者が必要であります。
仲介者とは、互いに対立する二者の間に立ち、敵意の原因を取り除くことによって、和解と一致を得させる者のことを言います。神と人との間に立つ仲介者は、旧約時代には祭司がその役割を演じていました。祭司は祭壇で神に仕え、罪のための犠牲、いけにえとして、傷のない動物の血を捧げ、とりなしの祈りを捧げて、神に対して民をとりなしていました。しかし、祭司もまた罪ある、聖くない不完全な人間であり、したがって神と人間の仲介者としても不完全でありました。そこで神は完全な仲介者として、ご自分の御子をお立てになったのであります。
完全な仲介者には、完全に罪のない神の聖さを持つ人が求められますが、そのような仲介者の条件を満たす方は、神であって同時に、処女から罪のない聖い人として、血と肉のからだを持ってお生まれになった、神の御子イエス・キリストだけであります。神の御子であるにもかかわらず、イエス・キリストが血と肉を持つ人間のからだでお生まれになった理由は、私たち人間の罪のいけにえ、犠牲として、十字架上で死んでくださり、ご自分のからだを、ご自分の血を、神に捧げてくださるためでした。イエス・キリストが処女からお生まれになったのも、その要求が満たされるためでした。イエス様は、父なる神に次のようにおっしゃいました。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」(ヘブル人への手紙10章4~7節)
私たち人間の罪は、このように聖く、汚れもないキリストの血によって完全に聖められたのであります。ペテロはこれについて次のように言っています。
ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(ペテロの手紙第一1章18~19節)
このイエス・キリストが、仲介者として神と人間の間に立って、人間の罪のためのいけにえとなってご自身の血を捧げてくださり、また、聖いまことの祭司として、とりなしの祈りを捧げてくださることを通してのみ、神様は私たち人間と和解してくださるのであります。
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(テモテへの手紙第一2章5~6節)
神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1章19~22節)
イエス・キリストが、聖霊によって処女からお生まれになった罪のないお方であることは、聖書の多くの箇所に明らかにされています。
まず、イエス・キリストご自身がユダヤ人に次のようにおっしゃっています。
あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。(ヨハネの福音書8章46節)
人間でこのように断言できる者がいるでしょうか。人間である以上、だれでも自分の良心に真剣に問うてみれば、決してこのようなことを言うことはできません。しかし、イエス・キリストは、この世にお生まれになってから、十字架にかかって息を引き取られるまでのご生涯において、完全に聖くあられました。私たちは、サタンがイエス様に罪を犯させようと、荒野でけんめいに誘惑したにもかかわらず、イエス様はそれに勝って、罪を犯されなかったことを知っています。
イエス様を取り調べたローマの総督ピラトも、次のようにイエス様に何の罪も見られないと、イエス様を捕えたユダヤ人たちに証言しています。
ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネの福音書19章4節)
イエス・キリストを裏切って、銀三十枚で祭司長たちに売り渡したイスカリオテのユダは、イエス様が罪に定められたことを知って自分のしたことを後悔し、次のように言いました。
そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。(マタイの福音書27章3~4節)
二年半の間、イエス様の側近くでイエス様のなさったこと、言われたことを見聞きしていて、いかにイエス様が罪汚れのまったくない、聖さそのものの方であるかを知っていながら裏切ったこの男ほど、イエス・キリストが罪なき方であることを証言するのにふさわしい者はいないでしょう。
私たち人間の罪の贖いのためには、完全に聖い血による聖めが必要であります。その贖いは、罪ある人間の血によってはできません。それができるのは、人でありながら完全に罪のない聖い方、すなわち聖霊によって、処女からお生まれになった神の御子イエス・キリストだけであります。まさに私たち人間の罪の汚れを聖めることができる方、私たち人間の罪を贖なってくださることのできる方は、この方以外にはあり得ないと聖書が言っている通りであります。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。(使徒の働き4章12節)
今日は、私たちの主イエス・キリストのご降誕について、とくに、イエス様が処女からお生まれになった深い意味について、そのことが神の奥義として、神様の救いのご計画が完全に成就されるために、ぜひとも必要であったことを、御霊の導きによってごいっしょに考えて来ました。私たちは、ここに改めて、このように完全な救いの計画をお立てになり、それを成就してくださった父なる神と、御子なるイエス・キリストに、心からの感謝と賛美を捧げたいと思います。