新しい天地と古い天地(1998年)

四 宗教の神と聖書の神

私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(コリント人への手紙第一8章4~6節)


今日は、宗教の神と聖書の神という大切なテーマについて、ごいっしょに考えたいと思います。少し難しいと思われるかも知れませんが、心を開いてお聞きくだされば幸いです。


私たちが信じている神とは


私たちが神様、神様、と言っている神はどんな方でしょうか。私たちが信じている神、あるいは信じたいと思っている、まことの神はどんな方か、これをはじめによく知っておく必要があります。


主はご自分のすべての道において正しく、またすべてのみわざにおいて恵み深い。(詩篇145篇17節)


ここに、非常に簡明に神とはどんな方かが要約されていると思います。この方が、まことの神様なのです。私たちの住んでいるこの世界には、合理的に説明できないようなことが起こります。私たちは自然科学の恵みに浴していますから、科学的に、合理的に考える習慣が身についていますが、科学的に、あるいは合理的に考えてもわからないような問題がたくさんあります。たとえば、病気の原因は、医学によってだいたいわかります。


ところが、どうして病気がこの世に存在するのか、その理由や、あるいは病気の存在する意味は科学ではわかりません。死は病気や怪我などによって起こるということは医学によってわかりますが、人間にどうして死があるのかということは、医学ではわかりません。そこで人間は、これらの自分自身では理解できないこと、自分の力の及ばないことを、自分で考え出した「神」によって解決しようとして来たのであります。


人間の考え出した宗教の神々


まず日本の神について考えてみましょう。国文学者の本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記伝』の中で神とはどんなものかということについて次のように書いています。「神とは天地のもろもろの神たちを初め、それを祭る社にいる御霊をも言い、また人は言うまでもなく、鳥獣木草のたぐい、そのほか何でも普通でないようなすぐれて、恐れ多いものを言う。」すなわち、日本では、普通でない、すぐれて恐れ多いものは、何でも神にしてしまうのです。ですから、八百万(やおよろず)の神というように、数え切れないほど多くの神がいることになっています。神道ではそういう神々を信仰の対象にしているわけです。


仏教はインドのゴータマ・ブッダ、日本でいう釈迦(しゃか)が考え出した宗教です。釈迦は、「神仏は無い」と言っていました。ところが仏教はその後いろいろに変形して来ました。そして、大乗仏教(だいじょうぶつきよう)になるとたくさんの仏(ほとけ)が出て来ます。仏教の開祖が言わなかったのに、その弟子たちが釈迦の教えに付け加えて、多くの仏や、仏の候補者と言われている菩薩(ぼさつ)を造り出したのです。


私たち人間は、目に見えない神をなかなか把握することができません。ですから、目に見える形で納得しようと思って、いろいろな神仏の像を造ります。石や金銅あるいは木で造った神仏の像や、像でなくても神仏の名前を書いた紙や板を見れば納得して、それを拝むというのが人間のしていることです。


また、日本では神と仏は、神仏というように一体として考えられています。なぜ、神仏が一体なのでしょうか。それは、人間は死ぬと「ほとけ」になるが、死んで三十三年あるいは五十年経つと「ほとけ」が「神」に変わるという日本人独特の考えからです。「ほとけ」として存在している間は、何回忌というように法事を行ないますが、三十三年あるいは五十年で打ち切られます。これを忌上げと言いますが、それは「ほとけ」が「神」になるからだということです。死んでしばらくは「ほとけ」ですが、古くなると「神」になるというわけです。


ちなみに、「ほとけ」というのは、悟りを開いた人という意味です。悟りを開くということは、どういうことかと言いますと、欲望に支配されないということです。「生きぼとけ」というのは、生きていても欲望に支配されない人を言うのです。しかし、しばらくは「ほとけ」になれるかも知れませんが、「ほとけ」であり続けることは人間にはできません。死んで「ほとけ」になるということは、死ぬと欲望を持たなくなる、それは悟りを開いた人と同じになるからであるという理由によるのです。日本人が神仏を一体として考えるのは、こういうところから来ているのです。


もう一つ、おかしいと思うことは、宗教では神に分業あるいは役割分担させていることです。それは宗教家、聖職者と言われる人々が考え出したものなのです。たとえば、商売の神がいます。商売繁昌を願う人は、その神のところへ行ってお金をあげて、お札をもらって来ます。学問の神は受験のときに必要です。安産の神には、お産の前に行き「無事にお産ができますように、丈夫な子が授かりますように。」と言って祈願します。また、いろいろな病気を治す神々もいます。安全の神もいます。これらの神々はみな、人間が勝手に造って、祭り上げている神です。


結局このように人によって造られた神々は、ご利益目当ての人たちに対して、それらを造り出した人々の商売に利用されているのです。ですから宗教ほど儲かる商売はないという言葉はまさに当たっています。世の中が荒れてきて、暗くなればなるほど宗教は儲かります。少し考えれば、人間が造り出した神仏にそのような力はないということはわかるのに、人間は、そのように人に造られた神に頼っているのが現実です。それは、そのような人たちがまことの頼るべき方を知らないために起こっている現象であります。聖書では、人が造った神のことを次のように言っています。


国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。(エレミヤ書10章3~5節)


まったく、その通りではないでしょうか。


彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(詩篇115篇4~8節)


これは、人間が造った偶像の神に信頼する人は、霊の目や耳や口が閉ざされているということを言っているのです。


偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。(イザヤ書44章9~13節)


これが人間が造って、頼っている神です。預言者エレミヤは、まことの神様に次のように申し上げています。


あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。(エレミヤ書16章19~20節)


まさに、私たちの先祖が受け継いだものは、空しい偶像の神、生きていない神なのであります。そしてこれが宗教の神であります。


まことの神はどんな方か


それに対して聖書の神様はどんな方でしょうか。その方は宗教の神ではありません。これから、聖書によって明らかにされている、まことの神のご性質について、聖書から見てみたいと思います。


一、生ける神


まず第一に、聖書の神は生きた神です。


わたしは生きている。神である主の御告げ。(エゼキエル書5章11節)


聖書のあちこちで、神様は自ら「わたしは生きている。」とおっしゃって、人間の前にご自身を明らかにしてくださっています。神様は、私たちの肉の目には見えませんが、霊の目が開かれると見ることができます。ちなみに、聖書の中で「わたし」とひらがなで書かれたところは、神様がご自分を指しておっしゃっている言葉です。


二、万物の創造者なる神


第二に、創造者の神、造り主である神、これが聖書の神の特性です。創世記の一章から二章にかけて、神様が創造主であるということが書いてあります。創世記の一章一節には、


初めに、神が天と地を創造した。(創世記1章1節)


という、有名な箇所があります。次に神様は光を造り、闇(やみ)を造り、そして地の上にいろいろな生物をお造りになった、そして神様の創造の最後に、人間をお造りになった、とあります。すなわち、すべてのものを造られた神です。イザヤ書の四十四章二十四節には、このようなみことばが書かれています。


あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。・・・・」(イザヤ書44章24節)


聖書の神様は、私たちひとりひとりを母親の胎内にいるときから造ってくださった神様であります。


三、唯一の神


第三に、聖書の神は唯一の神であるということです。


わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。(イザヤ書45章5節)


預言者イザヤを通して、神様は自ら、「わたしが唯一の神である。」と宣言しておられるのです。


四、永遠に存在する神


第四に、聖書の神は永遠に存在される神であります。


万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。」(イザヤ書44章6節)


神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1章8節)


「初めであり、終わりである。」「アルファであり、オメガである。」ということは時間を越えた存在、すなわち永遠であるということです。神様ご自身が、「わたしは永遠に存在する。」と、おっしゃっているのであります。


五、聖にして主なる神


第五に、聖書の神は聖なる方であり、主なる神であります。


国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である。(詩篇99篇3節)


聖とは汚れからの完全な分離、遮断を意味する神の尊厳性、超越性を現わす言葉であります。また、主とは何でしょうか。主とは主権者、すべての被造物に仕えられるべき方であります。聖書の神様は、聖にして主なる神様であります。


神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。」(出エジプト記6章2節)


この「主」という言葉は、聖書の神様を受け入れ、信じて、その神様に仕えるものとされた者だけに言える、神様に対する呼びかけの言葉であります。詩篇は、神様と詩篇の作者の祈りを通しての交わりが記された書ですが、その詩篇には、多くの箇所に、「主よ、主よ、」と神様に呼びかけているのが見られます。私たちも祈りの中で、「主よ、」とお呼びするのは、私たちと神様との関係がそのようなものである、私たちは神様に仕えるものである、ということを意味しています。


次の詩篇は、私たちを造り、愛し、導き、守ってくださる神様を、主と仰いでお仕えできる喜びと、感謝の心が溢れている詩であります。


全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。(詩篇100篇1~5節)


六、全能なる神


第六に、聖書の神は全能なる方であります。


ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。

あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、エジプトの国から連れ出し、あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。(エレミヤ書3章17節、21~22節)


預言者エレミヤが言っているように、神様に選ばれたイスラエルの民は、長い間奴隷として働かされていたエジプトから、神様のお導きによって連れ出されて、乳と蜜の流れるカナンの地に入ることができました。これはイスラエルの民の力によるものではありません。彼らは何もできなかったのです。このイスラエル民族のエジプト脱出は、はじめから終わりまで、全能の神様がご自身の全能の力によって、恵みとしてなしてくださったことであります。


それと同じことを私たちも体験します。全能の神様の恵みによって、私たちは選ばれ、唯信じることによって救われて、永遠のいのちをいただき、そしてこの地上を、天にあるカナンの地目指して歩むことができますが、それは、まったく私たちの努力や知恵によるものではありません。私たちのわがままで、自分勝手な性質が砕かれ、まことの神様の前にへりくだるものとなるのも、自分の力によってできるものではありません。全能の神様だけがおできになることです。


七、三位一体の神


第七に、聖書の神は三位一体の神であります。


三角定規を頭に思い浮かべてください。一つの三角定規には三つの角があります。神様を三角定規にたとえますと、神様はおひとりですが、三角定規にある三つの角のように、三つの特性を持っておられます。一つは、父なる神様、一つは子なる神であるイエス・キリスト、もう一つは御霊なる神様です。これらは別々の神様ではなくて、それぞれのときに応じて、ご自分を父なる神、子なる神、御霊なる神として現わされるということです。


父なる神様は、おもに旧約時代にイスラエル民族を通してご自身を現わされました。その後、人間の罪の救いのために、御子なる神イエスとして、ご自身をこの世界に現わされました。御子なる神が復活して天に戻られた後、私たちのところに来てくださった神が御霊なる神様です。これが三位一体の神様です。すなわち、それぞれの時代にふさわしい形で、私たち人間のところに来てくださる神様です。そのようなことがおできになるのは、聖書の神様だけです。創世記一章で神様は、


「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」創世記1章26節)


とおっしゃっています。神様がおひとりだったら、何で「われわれ」とおっしゃる必要があるのでしょうか。それは、はじめから神様は一つの神様ではありますが三位一体の神様だったからです。聖書にはこのことを現わす箇所がたくさんあります。


神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル人への手紙1章1~3節)


神の本質の完全な現われということは、神様ご自身ということです。したがって御子なる神様は、神様そのものであるということを言い表わしているのです。


わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネの福音書15章26節)


この一節に、父なる神様、「わたし」と言っておられる子なる神様であるイエス・キリスト、そして御霊なる神様の三つが全部含まれています。このみことばは、私たち人間に対して神様がお互いにどのように働いてくださっておられるのかという関係をよく現わしていると思います。


しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。(ヨハネの福音書16章13~15節)


三位一体の神であられるからこそ、父なる神様、御子なる神様、御霊なる神様が、一つの神であられながら、私たちに対して、それぞれいちばんふさわしい形でご自身を現わしてくださるのであります。


八、砕かれた心に住まわれる神


第八に、聖書の神は砕かれた人の心に住んでくださる神であります。


偶像の神は神社や神だなに置かれていますが、聖書の神様は砕かれた人の心に住んでくださる方です。


いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」(イザヤ書57章15節)


なぜ、聖にして全能の神様が、人の心の中に住んでくださるのか、その目的がここに示されています。しかし、だれの心にも住んでくださるというのではありません。ここに言われているように、心砕かれて、神様の前にへりくだった者の心の中だけに住んでくださるのです。


イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネの福音書14章23節)


心砕かれて、へりくだった者はだれでも、イエス様を、そして父なる神様を、自分の主として受け入れ、愛するはずです。ですから、イエス様はこのようにおっしゃったのです。


見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3章20節)


これも、私たちの心の中に住んでくださろうとして、心のとびらを叩いてくださっておられる主であります。私たちがほんとうに心が砕かれて主に心のとびらを開いたときに、主イエス様は私たちの心の中に入ってくださり、しかも食事をともにしてくださいます。食事をともにするとは、主と私たちとの関係の親しさを現わす言葉です。聖書の神様はそのような方であります。お宮や仏壇の中には決してお住みにならない神様です。


九、人格を持ち、私たちを永遠に愛してくださる神


最後に、聖書の神は人格を持った神です。冷たい無人格の神ではありません。


主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(ヘブル人への手紙12章6節)


人格を持った神様でなければ、このようなことはなさいません。親が子を懲らしめるときは、親が子の人格を認めるからこそ、子どものためと思って懲らしめるのです。人格を認めない対象に対しては、私たちは懲らしめなどしません。神様は、私たちを愛してくださるから、私たちの人格を認めてくださるから、懲らしめるのです。ということは、神様も人格を持っておられるのです。


わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ書33章3節)


このように、呼んだ者に答えてくださるのは、人格を持っておられる神様だからこそであります。


あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・・・」(イザヤ書43章1~4節)


人格を持っておられる神様でなければ、こういうことをおっしゃるはずがありません。このまことの神様を認めようとせず、背いているところに、人間の不幸があるのです。そして、人間の造った偶像の神、宗教の神には、決してこの人間の不幸を救うことはできません。創造者であられ、ただ私たちを愛してくださる生けるまことの神様は、私たちが、御子なる神イエス様の十字架の贖いが、この自分の罪の代価としての犠牲であったことを、心から悔い改めて受け入れたときに、私たちに完全な罪からの赦しと永遠のいのちを無代価で与えてくださるのです。何という深い愛と恵みでありましょうか。そして、そのときに私たちは、まことの神様の栄光をほめたたえる者へと変えられるのであります。



私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1章3~6節)


あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1章21~22節)


ほんとうの幸せを得るためには、まことの神に立ち返ること


このようにして、人間が主なる神様のもとに立ち返って、神の子どもとして私たちを救い出してくださった神様のみことばに聞き従うところに、人間のほんとうの幸せがあるのです。


私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ローマ人への手紙5章8~11節)


「神を大いに喜んでいる。」という言葉から、主イエス様によって罪から救い出されて神の子どもとされた者の幸せいっぱいの気持ちが伝わって来るようです。


これまで、ごいっしょに考えて来たことから私たちに明らかにされたことは、聖書の神様こそ私たちが信じるべき神様であり、いのちのない宗教の神仏とはまったく違う、生けるまことの神様であるということであります。私たちも、この神様に、心からの喜びと感謝をもってお仕えしたいと切に思います。




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