新しい天地と古い天地(1998年)

三 自分の日を正しく数える

私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90篇10~12節)


今日は、このみことばの中から、自分の日を正しく数えるとは、どういうことかをごいっしょに考えてみたいと思います。


この世の自分のいのちは束の間


自分の日とは、自分のこの世のいのち、この世に残された自分のいのちのことであります。私たち人間は、自分のこの世にあるいのちについて、どのように考えているのでありましょうか。日頃は忙しさにかまけて、深く考えることがないのではないでしょうか。しかし、ひとりひとりの人生の歩みの間に、だれでも必ず一度はこのことを考えざるを得ないときが来ます。


このテーマについては、古今東西を問わず、いわゆる賢人、学者、知者と言われる人たちが、いろいろな提言をしております。しかし、そのようなものを読み、それらの人の考えを頭で理解することはできても、それに心から同意することはなかなかできないのではないでしょうか。ある人にとっては、それは真理であっても、万人にとって真理ではないからです。


しかし、私たちは、自分のいのちをどのように考えたらよいかということについて、幸せなことに、いのちのことばの書である聖書を、神様の恵みによって与えられています。冒頭のみことばにあるように、神様は、私たちにそれぞれ、自分の日を正しく数える知恵を聖書を通して与えてくださるはずであります。「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と心から神様に願えば、必ず神様は真理の答えを私たちに与えてくださいます。その聖書によって、「自分の日を正しく数える」という主題について、御霊の導きをいただきながら考えてみたいと思います。


聖書には、この世のいのちのはかなさを、いろいろな言葉、たとえば、夢、影、雲、草花、霧などで言い表わしています。


あなたはこのことを知っているはずだ。昔から、地の上に人が置かれてから、悪者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみはつかのまだ。たとい彼の高ぶりが天まで上り、その頭が雲まで及んでも、彼は自分の糞のようにとこしえに滅びる。彼を見たことのある者たちは言う。彼はどこにいるのかと。彼は夢のように飛び去り、だれにも彼は見つけられない。(ヨブ記20章4~8節)


私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。(歴代誌第一29章15節)


女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。(ヨブ記14章1~2節)


人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。(ペテロの手紙第一1章24節)


あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブの手紙4章14節)


人間のこの世のいのちは、これらのみことばに表現されているように、束の間のはかないものであります。冒頭のみことばにあるような七十年、八十年という人のいのちは、いへんに長いように感じますが、私自身の体験から言っても、若いときには七十歳、八十歳は、はるかに遠い先のように感じていましたけれども、七十歳近くなった今、振り返ってみると、それはあっという間でありました。まだ気だけは若いつもりですが、付き合ってくれる大学の研究仲間や後輩、教え子などは私を老人扱いにします。自分では気づかなかったのですが、よくよく鏡を見るとそのように扱われても止むを得ないと思います。


また、七十年、八十年と書いてあるから、だれでもそのくらいは生きられるかと言うと、そのような保証はありません。たしかに、今日、日本人の平均寿命は、男が七十余歳、女が八十余歳になりましたが、これはあくまで統計的な予測値であり、個々の人には当てはまらないのです。


人のいのちは神が定められる


詩篇の九十篇に、


あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」(詩篇30篇3節)


とあります。神様が私たち人間に、「人の子よ。帰れ。」とおっしゃったときには、私たちはこの世を去らなければなりません。私たちが、もっとこの世にいたいと思っても、あるいはそれとは逆に、早くこの世を去りたいと思っても、神様が定められたときでなければ、この世を去ることはできないのです。すなわち、私たちのこの世のいのちは、神によって定められているのであり、人間が決めることではありません。世界で最も賢い人と言われたソロモンは、伝道者の書の中で、


天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある(伝道者の書3章1~2節)


と言っています。この「時」というのは、神様が定められたときという意味であります。


医学の分野では現在、老化の研究がたいへんに進んでいます。老化はどうして起こるのであろうかということをいろいろ調べて行くと、老化のメカニズムに最も大きく関与しているのは免疫機能であることがわかって来ました。免疫機能が狂うことが老化を進める大きな要因となっているのであります。免疫機能というのは、ウイルスや細菌から私たちのからだを防御する、たいへんに大切な機能ですが、この機能は二十歳がピークで、それからどんどん低下し、四十歳には二十歳の半分になり、七十歳には十分の一になります。ですから若い人は肺炎で死ぬことはまずありません。免疫機能が活発に働いて、体内に侵入した肺炎菌を殺してしまうからであります。しかし、老人になると肺炎で亡くなる方が多くなります。それは、以上のような理由だからです。


もう一つ、たいへんに興味のあることがわかって来ました。私たちを守るために、外から侵入して来た細菌などを攻撃すべき免疫細胞が、老人では、私たちを守るのではなく、反対に私たちを攻撃して来るような細胞に変身してしまうのです。七十歳になると、このような敵味方を取り違えた免疫細胞が、若い人の倍くらいに増えます。そのような免疫機能の狂いが起こらないように、いろいろ研究が行なわれていますが、結局人間の力ではどうしようもないということがわかって来ました。多くの専門家は、老化は制御することができないものであると考えています。その根拠は、免疫機構の変調は遺伝子の中に、時間のプログラムが組み込まれているために起こるので、生まれたときからその時限装置が始動し始めるために、人間の力では制御することはできない、それを元に戻すことはできない、というのであります。


しかし、私たちキリスト者には、そのようなことは、とうの昔からわかっていたことであります。すなわち、神様がそのいのちの時限装置をお造りになって、ご自身でスイッチを入れられるということがわかっていたのです。神様は次のようにおっしゃいました。


そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。(創世記6章3節)


「人が肉にすぎない。」とは、神様に背いた罪の結果、霊の死んだ人間、霊が神様に正しく反応しない人間、すなわち、アダムをはじめとしたすべての人間のことです。神様が、このように決められて以来、人間のいのちの上限は百二十年になりました。どんなに環境が良くても、どんなに栄養が良くても、これまでに百二十年以上生きた人はいません。というのは、老化という時限装置が神様によって設定されているからであります。そして神様は、さらに細かく、ひとりひとりのいのちの時限装置を設定されています。


ですから、私たち人間は、自分の力で生きていると思ったり、医者がいのちを延ばしてくれると思いがちですが、それは間違いであり、実は神様によって生かされているのであります。そして神様のときが来なければ死ぬことはできないのです。また私たちは、神様から与えられた賜物である科学や医学によって、人のからだの構造や機能が、いかに精緻なものであり、神様だけがこれをお造りなることがでるということも知ることができるのです。


神から与えられた、この世のいのちをどう生きるか


そのような神様によって造られ、神様によって生かされている私たちのいのちを、いったいどのように使ったらよいか、どのように生きるかということが、冒頭にある、「自分

の日を正しく数える」ということの意味になるのであります。


一、この世の人は、自分のいのちを恐れながら生きる


普通一般には、自分に与えられたいのちなら自分のものだから、自由に使っても良いではないかと考えますが、しかし、神によって生かされているいのちを、自分の楽しみを追い求めるために使うことが、はたして自分のいのちを正しく数えることになるのかどうか、もう一度よく考えてみる必要があるのではないでしょうか。


ソロモンはまた、次のように言っています。


人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。(伝道者の書11章8~10節)


ここに、私たちに与えられたいのちを、自分の楽しみのために使う者に対する神様の警告が示されています。


アメリカ医師会雑誌の最近号に、ひとりの七十四歳の老医師の、「私の提言」というエッセイが掲載されていました。その内容を要約してご紹介しますと、「私は友人の八十歳代のふたりの老医師とレストランに行く車中で、どうしたら早く楽に死ねるかという会話をした。しかし、私は友人たちよりも健康で長く生きそうである。酒も飲まないし、たばこも吸わないし、血圧も正常だし、コレステロールも高くない。だから心筋梗塞(しんきんこうそく)や脳梗塞(のうこうそく)で死ぬことはなさそうである。すると、私が死ぬ病気は苦痛が長く続くガンしかない。これはたいへんである。友人たちがうらやましい。そこで私は私の運命に、もっと積極的に関わる決心をした。レストランの席に着いて、メニューに目を通し、いちばん厚い生焼けのローストビーフを注文し、山盛りのフレンチフライを添えてもらった。また、これまでブラックで飲んでいたコーヒーに砂糖と生クリームをたっぷり入れた。そしてウェイターに言った。『すまないが、バターをこっちに回してくれないか。』と。」


彼は半分やけっぱちで、ガンになるくらいなら、ダイエットなんか止めて、今からコレステロールも血圧も高くして、ガンよりも苦しみの短い心臓血管系の病気になって死のうと考えたのであります。何という、あわれな、気の毒な医者でありましょうか。ソロモンは伝道者の書の中で、


実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。(伝道者の書1章18節)


と言っていますが、これは真理であります。彼は、医者であるがゆえに、どんな病気で死ねば苦しみが多いか少ないかという知識を持っていました。その知識を自分のいのちに当てはめたために、ガンと死の恐怖におののきながら、これからも空しく自分の日を数えて生きなければならないのであります。


ガンの告知も今日、問題になっていますが、ガンの告知を受けたときに、その患者さんが自分の日を正しく数えることができるかできないかによって、天国と地獄の差が生じます。自分のこの世に残された日数を数えて、死の恐怖と不安におののきながら過ごすか、あるいは天国に入る日が近づくのを喜びと希望をもって待つかの違いであります。


ガンであることを知らされても、天国に入る日が近づくのを喜んで待つことができるためには、まことの神様に対して、素直に自分が神様に背いていたことをあやまり、神の御子イエス様が十字架の上で流された聖い血によって自分の罪が洗われ、イエス様の復活による永遠のいのちが与えられることを感謝することが必要であります。ヨハネは次のように言っています。


もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙第一5章9~13節)


「御子を持つ者はいのちをもっている。」というのは、イエス様を信じる者の中にイエス様が住んでくださっているということであり、言いかえればイエス様のいのち、すなわち、永遠のいのちを持っているということであります。


二、キリスト者は、自分のいのちを主にゆだねて生きる


そのように、イエス様の永遠のいのちをいただいた者は、この世において、そのいのちを自分のために使うことが正しくないことは言うまでもありません。ではどのように自分のいのちを使えば正しいのでしょうか。その答えは聖書の中にあります。ソロモンは、次のように勧めています。


心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3章5~6節)


私たちキリスト者は、地上の歩みにおいても、イエス様を信じたときすでに与えられている永遠のいのちを、自分の知恵や知識や欲望に従って生きることに使うのではなく、主から目を離さず、心を尽くして主に拠り頼み、主から示していただいた道を歩みながら生きることに使うのであります。


また、詩篇の作者は次のように主に祈っています。


主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。(詩篇119篇149節)


なぜ「私はどうでもいいです。神様、あなたが決めておられるように、私を生かしてください。」というようなことが言えるのでしょうか。それは自分のいのちは主に生かされているいのちであり、その神に心から信頼し、おゆだねし、みこころに従って生きることこそ、正しいいのちの使い方であることを知っているからであります。イエス様を信じる信仰によって霊的に新しく生まれ代わった私たちも、イエス様がどんなに自分を愛してくださっているかをよく知っています。そして、自分のために今でも、またこれからも、祈ってくださり、とりなしてくださるイエス様に対して、人格的に全き信頼を置いています。ですから、私たちも、新しくされた私たちのいのちの正しい使い方について、イエス様に、「主よ。あなたの決めておられるように、私を生かしてください。」と祈ることができるのであります。


ウロは、キリスト者は生きるも死ぬも自分のためなのではなく、イエス様のためであると、次のように言っています。


私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ人への手紙14章7~8節)


キリスト者とは、キリストを持つ者であり、同時にキリストに所有されている者であります。ですから、生きることも死ぬことも、イエス様が益としてくださることを信じ、イエス様に信頼して、自分をゆだねることができるのです。パウロはまた次のようにも言っています。


キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(コリント人への手紙第二5章15節)


パウロは、キリストのものとされた私たちの生きる目的は、もはや自分のためにではなく、自分のために十字架にかかり、復活してくださったイエス様のため、すなわち、主のご栄光が現わされるためである、と言い切っています。これは、心から主のものとされたことを感謝し、その主に信頼し、ゆだね切ってはじめて言えることであります。このように、私たちも、一日一日をイエス様に感謝しつつ、主に信頼し、主のみこころを問いながら、御霊に導かれて歩むことの積み重ねが、「自分の日数を正しく数える」ことになるのではないでしょうか。


生まれながらの人間はどんなに知恵を絞って考えても、自分の日を正しく数えることはできません。自分の日を正しく数えることができるのは、御子イエス様を信じ、イエス様の贖いの代価によって買い取られて、主のものとされた者だけに与えられた特権であることを心から感謝し、この地上に残された自分の日を正しく数えながら、歩むことができるように祈って行きたいと切に思います。




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