新しい天地と古い天地(1998年)

二 ストレスからの解放

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14章27節)


今日はストレスからの解放について、ごいっしょに考えてみたいと思います。


ストレスとは


ストレスとは元来ラテン語でアクセントを強調する、高めるという意味でした。これが十七世紀に物理学に取り入れられて、物体に加えられた外部からの圧力をストレスというようになりました。ストレスによって、物体は自分の弾力性によって緊張し、歪み、変形します。この現象が生体にも起こることを、生理学的に説明したのがハンス・セリエです。


セリエは動物に寒さや恐怖を与えると、延髄と大脳皮質の間にあって体の感覚と自律性を維持する機能を持つ間脳から、脳下垂体に刺激が伝わり、そこから分泌された下垂体ホルモンが副腎を刺激して、ステロイドおよびアドレナリンの分泌を増加させることを証明しました。このアドレナリンは交感神経を興奮させる作用があるので、それによって血管が収縮して顔色が青くなり、血圧が上がり、心臓の動悸が早くなり、筋肉が緊張してふるえが起こります。これがストレスによって起こる生体の緊張症状です。


また、眠れなくなったり、いらいらしたり、そわそわしたり、落ち込んだりするというような精神症状も、ストレスによって起こります。


しかし、ストレスによって起こるこのような生体の反応は、だれにでも同じように起こるとは言えません。ストレスに対する感受性の個人差によって、反応の大きさも異なります。


ストレスが関与する病気


健康を損なったり、病気になったりする背景には、ストレスが関与していることが多いこともわかっています。たとえば、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、狭心症、心筋梗塞、本態性高血圧、気管支喘息、甲状腺機能亢進、関節リウマチ、円形脱毛症、原発性緑内障、過敏性腸症候群、アルコール依存、薬物依存、ノイローゼなど、多くの病気は、いずれもストレスによる精神的あるいは神経的緊張が、発病あるいは病気の経過に大きく関わっていることがわかっています。


ストレスの原因


では、ストレスを引き起こす原因にはどのようなものがあるのでしょうか。大きく二つに分けますと、一つは人間関係の消失や破綻(はたん)であり、たとえば配偶者や信頼していた人の死、離婚、家族とのトラブル、職場でのトラブルなどが挙げられます。二つ目は生活や環境の激変であり、たとえば単身赴任、転職、転勤、職場の配置転換、失業、入学、就職、倒産、多額の負債などが挙げられます。


これらを別の言葉で言えば、今まで信頼していたものや依存していたものを失ったり、疎外されたりした体験、あるいはこれまでに身につけてきた知識や経験や力では対処できなくなった体験などが、ストレスの原因となるということです。その結果、これからはひとりで自分を守り、戦わなければならないところから起こる不安、恐怖、緊張が、前に述べたようなさまざまな病気や症状を引き起こしたり、悪化させたりするのです。


したがって、ストレスからの解放は、言いかえればストレスによって生じる不安、恐怖、緊張からの解放であり、そのために、今日では精神安定剤などの薬物療法、自律訓練法、運動・体操療法などのいろいろな方法が考えられ、用いられています。


神の力が、たましいに働くことによるストレスからの解放


けれども、今申しましたストレス解決の方法は、すべて人の知恵や知識によって心身に働きかける方法ですから、それぞれに限界があり、完全なものはありません。しかし、これとはまったく異なる、しかも完全なストレス解放の方法があります。それは神様の力によって、たましい、霊に作用するストレス解決法であります。


聖書からダビデの例を見てみたいと思います。ダビデは敵ばかりでなく、自分の親友からも追われるという目に会ったとき、たいへんな不安と恐怖に襲われました。彼はそのときの心の状態を次のように言い表わしています。


私の心は、うちにもだえ、死の恐怖が、私を襲っています。恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包みました。(詩篇55篇4~5節)


まことに、私をそしる者が敵ではありません。それなら私は忍べたでしょう。私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。それなら私は、彼から身を隠したでしょう。そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。(詩篇55篇12~13節)


このように、ダビデは信頼していた味方、それも親友からいのちを狙われるという、たいへんなストレスを受け、その結果恐れおののき、彼の表現によれば戦慄が身を包むという思いを味わったのです。しかし、そのときダビデは自分の力で戦ったでしょうか。そうでなく、彼は次のように、主なる神様に助けを求め、神様に自分の身をゆだねました。


私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。(詩篇55篇16~18節)


そして彼は自分自身の体験から、次のように私たちに勧めています。


あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。(詩篇55篇22節)


神に信頼する者を、神は守られる


どうしてダビデはこのように言い切ることができたのでしょうか。それは、彼が神様を自分の主と信じ、その主なる神様に全き信頼を置いていたからであります。彼は自分の体験から、主なる神様は真実な方であり、拠り頼む者を決して見捨てることなく、苦しみ、恐れ、悩みから救ってくださると確信していたからなのです。


私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。(詩篇62篇5~8節)


神様は、ご自分に信頼したダビデに応えられ、彼を守り、彼のたましい、霊に平安を与えられました。その結果、彼から不安や恐怖は消え失せました。


神の人格を信頼すること


しかし、神様に信頼するということは、いったいどういうことでしょうか。私たちはある人に信頼するときには、その人の何に信頼するのでありましょうか。その人の社会的地位にでしょうか。財産にでありましょうか。権力にでありましょうか。知識にでありましょうか。私たちが、ある人に心から信頼するのは、そのようなものではなく、その人の誠実さ、真実さなど、すなわちその人の人格に信頼するのではないでしょうか。


しかし、神様は私たちの目には見えず、触れることもできず、人間の五感では存在を確かめることのできない方です。ですから人は、目に見えない神様が、人格を持っておられるかどうかなどということを考えようともしません。まして、そのような神様に信頼するなどというのは愚かしいことと人が思うのは当然かも知れません。たしかに神様は私たちの目には見えません。けれども、私たちは、神様が、私たちひとりひとりに何をしてくださったかを知ることによって、神様の人格を知ることができるのです。


神様が私たちに何をしてくださったかは、聖書にはっきりと書かれています。次にその箇所をいくつか挙げてみましょう。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)


いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)


神様は、私たち人間ひとりひとりを、罪による滅びから救い出して、永遠のいのちを与えるために、神の御子をこの世界に遣わしてくださったのです。


イエス・キリストの人格を信頼すること


その神のひとり子のイエス・キリストは次のようにおっしゃいました。


わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネの福音書6章38~40節)


だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。(ヨハネの福音書6章46節)


しかし、イエス様に仕えている弟子たちの中にも、イエス様のことを正しく見ることができない者がおりました。


イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネの福音書14章6~11節)


イエス・キリストの弟子たちは、イエス様に身近かに接しており、イエス様がどなたであり、何のためにこの世においでになったのかを、このように直接イエス様ご自身から、はっきり聞いていたにもかかわらず、まだイエス様のおっしゃったことを正しく把握することができませんでした。なぜでしょうか。それはイエス様を「人」として見ていたからであります。


ですから、イエス様が捕えられて十字架ではりつけにされたことは、彼らにとってたいへんなストレスでした。弟子たちは、信頼していた「人」を失い、そのうえ自分たちも捕えられるのではないかという、不安と恐怖におびえ、戸を閉めて家の中に閉じこもっていたのです。そこに、復活したイエス様がお現われになりました。


その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネの福音書20章19~20節)


弟子たちは、このように復活のイエス様にお会いして、はじめてイエス様がどなたであり、またご自分の約束は必ず果たす方であることを、頭で理解したのではなく、たましい、霊で知ったのであります。それは御霊によって霊の目が開かれたからです。その結果、彼らの開かれた霊には、イエス様から平安が与えられ、それによって恐怖が取り去られ、喜ぶことができたのです。


このように、私たちが神様の人格に信頼することは、とりもなおさず神の御子イエス様の人格に信頼することであります。ではイエス様の人格はどのようにして知ることができるのでしょうか。イエス様は、私たちの恐れや不安、苦しみや悲しみを、ご自分も味わってくださるほどの愛の方であります。その一例がゲッセマネにおけるイエス様の祈りのときにも見られます。


ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(マルコの福音書14章32~34節)


神であるイエス様が、人となって私たち人間が味わうのと同じストレスを味わわれたのは、私たちの肉の弱さを知ってくださるためであったのです。イエス様の人格とは、このような私たちに対するあふれるばかりの愛とあわれみに富むものであります。聖書ではこれについて次のように言っています。


私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル人への手紙4章15~16節)


またパウロは、イエス様の限りなく真実な人格について、次のように言っています。


私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(テモテへの手紙第二2章13節)


このような愛とあわれみそのもの、真実そのものの人格をお持ちのイエス様に、私たちは信頼するのであります。


ストレスを代わりに負ってくださるイエス


大きなストレスは、私たちに重荷となって、のしかかって来ます。しかし、主イエス様は次のように呼びかけてくださっています。


すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイの福音書11章28~30節)


主イエス様に心から信頼して、助けを呼び求め、重荷を主にゆだねるとき、愛とあわれみと真実に満ちたイエス様は、この約束通り、私たちを重荷から、ストレスから完全に解放してくださるのです。数多くのキリスト者が、この体験を証ししております。


まだイエス様に信頼したくてもできないとおっしゃる方、あるいはイエス様にゆだねたくてもゆだねられないという方は、まず、自分のかたくなな心を砕いて、霊の目を開いていただくように、心からイエス様に祈り求めることが大切です。必ずイエス様は祈りに答えてくださり、弟子たちの霊の目を開いて、ご自分を現わされたように、御霊の助けによってその方の霊の目を開いて、ご自分と出会わせてくださいます。


聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。(ローマ人への手紙10章11~12節)


今の世の中は、ストレスに満ちていると言ってよいでしょう。多くの方々が人間関係の破綻や生活環境の激変などから生じる不安、緊張、恐れの重荷を負って悩み、苦しんでいます。イエス様はそのようなおひとりおひとりに対して、今このときも、「わたしの所に来なさい。わたしがあなたに代わってあなたの重荷を負ってあげます。」と呼びかけておられることを、どうか知っていただきたいと、切に願う次第です。




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