新しい天地と古い天地(1998年)
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。(コリント人への手紙第二5章1~5節)
今日は、ごいっしょに、このみことばの中から、「地上の幕屋」と「天にある永遠の家」ということを中心に考えてみたいと思います。冒頭のみことばの最初のところを平たく言いかえてみますと、「この世で生きている私たち人間のからだは、天幕のように破れやすく、それは一時的な仮の住まいに過ぎないが、キリスト者には人の手で造られた家でなく、神様からいただく建物が天に用意されている。それは一時的な壊れやすい建物ではなく、永遠の建物である。」ということであります。
私たちはどんなに長生きしても、いずれは死ななければなりません。人間は昔から死を恐れていました。医学の進歩発達は、不老不死という人間の切なる望みに応えるために行なわれて来ました。しかし、いかに医学や医学技術が進歩しても、たしかにそれによって多くの病気が治るようになり、また人間の寿命は延びましたが、依然として死は存在しており、人間はいったん生まれれば必ず死ななければなりません。しょせん不老不死は人間のはかない夢に過ぎず、人間はひとり残らず、生まれた瞬間から死に向かって歩み始めるということは、だれでも認めざるを得ないのです。
パウロは天幕作りをなりわいとしていました。天幕を作って生計を立てながらイエス様の福音を宣べ伝えていたのです。彼は、自分で天幕を作っていたので天幕のことはよく知っていました。たとえどんな丈夫な布地で、どんなにしっかり縫い合わせても、風雨や日光や空気にさらされているうちに、やがてぼろぼろに破れてしまうのです。そのような天幕を見て、パウロは聖書に書かれてある人間の霊と肉体を考え合わせ、肉体も天幕のような、はかないものであることを知ったのです。
神様は、人間をお造りになったときに、からだと霊とは別々に造られました。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2章7節)
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12章7節)
神様は、まず土地のちり、すなわち無機物、有機物からなる物質によって人間のからだをお造りになり、その後でいのちの息、すなわち霊をそのからだに吹き込まれ、それによって人間が生きたものとなったとあります。ですから、人間の肉体は、霊の住まいであると言うこともできます。そして、物質で構成されているからだは、やがて時が来れば、霊と分離して、もとあった土に帰らなければならない、これが死なのです。私たち人間は例外なくこのようにして生まれ、死んで行くのであり、パウロはこの肉体を天幕にたとえて、地上における一時的な「仮の住まい」と言っているのです。医者は、病気を治療したり予防したりしますが、それは結局、天幕のほころびを見つけて直したり、天幕を長持ちさせるための工夫をしたりするような仕事と同じようなものであります。
しかし、私たちの肉体が、はじめからそのような不完全なものであったかと言いますと、そうではないのです。神様は完全な方です。したがって、その神様によって造られた被造物はすべて完全であります。神様は、植物、動物をそれぞれの種類に従ってお造りになり、それをご覧になってよしとされ、すべてのものをお造りになったときに、改めてそれらをご覧になって満足された、と創世記にあります。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった(創世記1章31節)
ですから、人間も造られたときは完全でありました。完全であれば死もありません。しかし、そのように神様が満足されるように完全に造られた被造物の中で、人間だけが完全なものから不完全なものに変わってしまったのです。なぜでしょうか。それは、神様によって造られた最初の人アダムとエバがサタンの誘惑に乗って、神様の「この木の実を食べてはいけない。食べると死ぬから」という戒めに背いて、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」ので、自分の欲望を満たすために食べてしまったからであります。そのことによって神様は報いとして、約束通り死を与えられたのであります。したがって、アダムの子孫である私たち人間も、生まれながらにアダムと同様に神様のみこころに従わずに、自分の欲望に従うようになってしまったのであり、すべての人間は死ななければならなくなったのであります。パウロはこれについて、次のように言っています。
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ人への手紙5章12節)
私たちは普通、死とはこの世に生まれたいのちが終わること、医学的に言えば、私たちの呼吸や心臓や脳などの活動が永遠に停止することであると理解しています。すなわち、私たちは、からだの死が死であると考えます。しかし、聖書では死はからだの死だけで済むのではなく、からだの死の後でやがて来る神様のさばきの日に、神様に背いた人の霊が滅びの刑の宣告を受けて、永遠に苦しまなければならないとあり、これを「第二の死」と言っています。ヨハネは、神のさばきのときの有様を黙示録の中で次のように言っています。
私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(ヨハネの黙示録20章12~15節)
実は、肉体の死よりも、この第二の死のほうがはるかに恐ろしいのです。この死は、生前にどれほど善いことをしても、人格がすぐれていても、学問があっても、権力があっても免れることはできません。このみことばにある「いのちの書」に名の記されている者だけが免れることができるのです。では、いのちの書とは何でしょうか。それは永遠の神の御国に入る人々の名が記されている天の書物であります。イエス様の尊い血によって、神様に犯した自分の罪が聖められたことを、心から信じた人々の名が記された書物なのです。
冒頭のみことばのように、地上の幕屋にたとえられた人間の肉体は、死とともに朽ち果てますが、イエス様を信じた者には、神様が天に用意してくださる永遠の家があります。この家は、イエス様を信じることによって聖められた者の霊が入るために、神様が造ってくださった聖い、朽ちない、からだであります。この天に属するからだは、イエス様を信じる者にのみ与えられます。それは、イエス様がご自分を信じる者に与えられた約束であります。
だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネの福音書3章13~15節)
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネの福音書11章25節)
この約束によって、私たちイエス様を信じる者は、地上のからだは死んでも、霊は神様が天に備えてくださった朽ちないからだを着ることができるのです。イエス様を信じないこの世の人は、昔からこれを馬鹿げた話であると嘲笑して来ました。しかしパウロはこれについて次のように言っています。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。(コリント人への手紙第一15章3~6節)
もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。(コリント人への手紙第一15章17~21節)
イエス・キリストの復活は、神の御子イエス様がなされた多くの奇跡の中でもっとも重大なものの一つであります。人間には不可能な、死からのよみがえりは、罪が赦された人間に永遠のいのちを授けるために、イエス様が成し遂げてくださった神様の恵みのみわざであります。そのみわざは一回で完全であり、したがって二度とふたたびイエス様が復活される必要はありません。そして神様は、さらにイエス様の復活がたしかな事実であることを証明されるために、十二弟子をはじめ、イエス様を信じる五百人以上の人々に復活されたイエス様を現わしてくださり、彼らを復活の証人とされたのであります。その結果、彼らは自分の目で見た事実を、自分のいのちを賭して、殺されるまで証しし続けました。そのひとりペテロは、次のように証言しています。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。(使徒の働き10章39~41節)
このような神様の深いご配慮にもかかわらず、なおイエス様の復活を信じられない人は、人間の限られた経験や知識だけしか判断の物差しにできない、あわれな存在であると言わざるを得ません。
私たちを造ってくださった神様は、このように、ご自分に背いた私たちをなお愛してくださり、ご自分との永遠の交わりを回復させようとお考えになって、御子イエス様の十字架と復活のみわざによって、これが自分に対する神様のあわれみであると信じる者に、罪の赦しと永遠のいのちを与えられ、天国に住む家、すなわち朽ちない、聖いからだを用意してくださっているのであります。
イエス様を信じる私たちは、この希望があるからこそ、この世の患難があっても勇気をもって耐え忍ぶことができるのです。パウロは次のように言っています。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ人への手紙8章18節)
私は東海大学医学部で「医の倫理委員会」の委員長を務めておりましたので、役目柄いろいろな内外の医の倫理や生命倫理に関する文献を調べましたが、その中に「キリスト者のいのちの宣誓」というアメリカの資料がありました。最近、末期医療あるいは終末医療ということが問題になっております。末期医療とは、病気の末期に行なわれる、主として心臓機能や呼吸機能の管理を目的とする医療のことを言いますが、なぜこれが問題になっているかと言えば、人工呼吸機の発達によって、人為的に強力に死を延ばすことが可能になったからです。死を待つだけの状態に置かれている病人のいのちを、ただ無理やりに延ばすことが、果たしてその人のいのちの尊厳性を尊重していると言えるのだろうかという、いわゆる尊厳死の問題であります。この問題に対するキリスト者の一つの答えが「キリスト者のいのちの宣誓」に表わされていると思いましたので、その内容をご紹介します。
「私は、イエス・キリストが私のためにこの世に生まれてくださり、苦しみを受け、そして死んでくださったことを信じます。また、イエス・キリストの苦しみと死と復活は、私が今、迎えようとしている死から復活への道をあらかじめ示し、かつ、そのことを可能にしてくださることを信じます。私は、キリスト者のいのちは、死によって奪い去られるものではなく、ただ住まいが変わるだけだと信じます。したがって、もし恐れや悲しみが私の心の中に起こっても、聖霊の恵み、助けによって、私はこのからだを明け渡し、永遠に神とイエス・キリストと結び合うことができるものとして、この死を受け止めたいと思います。」
こういう意味の内容であります。私たちキリスト者の死に対する考えと、天国の住まいに対する希望の確信を良く言い表わしていると思います。今日、いろいろな形式の「リヴィング・ウイル」、すなわち、「自分の死に方について自分の意志を明らかに表示した書」が発表されています。一般的には、自分は安らかに死を迎えたいから、死に臨んでいたずらな延命のための措置は行なわないで欲しい、という内容であります。病気になったときに、これを医者に提示すれば、医者は本人の意志を尊重して、死に際して、いたずらな延命のための治療は行なわないということになります。しかし、なぜ安らかに死を迎えたいかについては、いずれの形式の「リヴィング・ウイル」でも明白ではありません。唯一つ、「キリスト者のいのちの宣誓」には、その理由が明らかに示されているのです。すわち、私たちキリスト者のいのちは、肉体の死で終わるものではなく、その後に神の約束された天国に住まいを移して永遠に続くものであるということであります。
人間が死に際して取るべき選択肢は二つしかありません。一つは絶望であり、もう一つは希望であります。この世がすべてである、あるいは死は終わりであると思っている人にとっては、死は絶望であります。そして、それは正しい考えであります。なぜならば、さきほどから申しておりますように、肉体の死の後に待っているのは永遠の滅びであるからです。けれども、キリスト者にとっては希望であります。それは、天に備えられた永遠に滅びることのない、聖いからだが与えられるからであります。パウロは、イエス様を信じる私たちに、永遠に滅びることのない、からだが与えられる時期について、神の奥義として次のように言っています。
聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(コリント人への手紙第一15章45~55節)
「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならない・・・・。」とはどういうことでしょうか。それは、朽ち果てるしかない罪人が、自分の罪の贖いのために十字架上で身代わりの死を遂げてくださり、三日後に死からよみがえってくださったイエス様を信じる、ということにほかなりません。
また、「終わりのラッパの鳴るとき」とは、イエス様が信じる者に聖い、朽ちない、天に属するからだを与えるために来てくださるご再臨のときであります。このように大きな希望が約束されていますから、キリスト者にとっては、「いのちが死にのまれる」のではなく、「死がいのちにのまれる」のであります。すなわち、死がいのちよりも強いのではなく、いのちが死よりも強いのであります。それは、イエス様を信じる者の中に、イエス様のよみがえりの力がすでに与えられているからです。
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ人への手紙3章21節)
ですから、私たちキリスト者も、パウロと同じように、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」と、死に対して勝利の声を高く上げることができるのです。
ほんとうの幸せは、死んでしまえばなくなるような一時的なものではなく、永遠に続くものでなくてはなりません。そのような幸せは、決して人間の力で得られるものではなく、神様からの恵みとして与えられるものであり、それは死んでも死なない、永遠のいのちであり、神様が備えてくださっている、朽ちない聖いからだを着ることでありましょう。そのために私たち人間ができることは、唯一つ、神様の前に自分のわがままを、はっきり認めて心から悔い改め、神のあわれみと愛の御手であるイエス様にすがることだけなのです。