医者に治せない病気(1996年)

たましいの健康管理

私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。(詩篇16・8~9)


人間にとって最も大切な健康


「あなたの一番欲しいと思うものは何か、」という調査をすると、必ず「健康」が一位を占めるほど、多くの人は健康が大切であると思っています。健康食品、健康体操など、いろいろな健康法が今日ほど流行しているのを見ても、私たちがいかに自分の健康に関心を持っているかがわかります。そして実際に、多くの人が、病気に罹らないように、より健康になるようにと、健康に良いといわれるいろいろなお茶を飲んだり、無公害食品といわれる食べ物を選んで食べたり、また、ウォーキングやジョギングをはじめとする運動や、健康を維持し、増進するためのさまざまな方法を考えて実行しています。


もちろん、健康であろうと努力することは、自分のためにも、回りの人のためにも大変に大切であり、良いことです。けれども、なぜ人はそれほどまでに健康であること、ひいては病気にならないことに気を使うのでしょうか。それは、少しでも長く、元気に生きていたいと思うからです。しかし、そのように、いっしょうけんめいに自分なりの健康管理に努めた結果はどうでしょうか。やはり、人は年相応の老いを体験し、やがては、いちばん恐れている死を迎えなければならないのです。ですから、人の努力による健康管理は、一時的な効果しか期待できず、健康でいられる期間を、ある程度延ばすというほどのものでしかありません。


たましいの健康


さて、ここで全く別の面からの健康管理、すなわち、たましいの健康の管理について考えたいと思います。ふつう、私たちが考える健康とは、真剣に考えてみても、WHOの定義にある、「健康とは、ただ病気でないというだけではなく、身体的にも精神的にも的にも良好な状態をいう」ということになるでしょう。ところが、私たち人間の健康は、それだけでは十分ではないのです。すなわち私たち人間にとって最も大切なものは、霊、たましいが健康であることなのです。


なぜかと言いますと、元来人間は他の生物とは異なり、霊を持った生物、すなわち霊的な存在として造られているからです。


神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2・7)


神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。(ヨブ記33・4)


人間は、からだの中に吹き込まれた、全能の神の息、すなわち霊によって、自然の風物やその移り変わりを通して、また人のいのちの有限性やはかなさを通して、永遠なるものへの思いを持つようになり、永遠なる存在としての神を思う思いが与えられます。


神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者の書3・11)


神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ人への手紙1・20)


すべての人間の霊、たましいは病気の状態


神は被造物の中でご自分に最も近い者として、ご自分の愛の対象として私たち人間をお造りになりました。そして、私たち人間に、神ご自身を知る思いを持ち、ご自分に喜んで従うことがいちばんの幸せであることを知ることができるようにと、霊を与えてくださったのです。しかし、せっかく神が私たち人間に与えてくださったその霊は、正しく働かくなってしまっています。その原因は、罪と言う病気に罹っているためなのです。私たち人間は、霊が病気になってしまった結果、神の存在も認められなくなり、まして神が私たちを愛してくださっていることも、私たちが神から離れて自分の欲望のままに生きているのを悲しんでおられることもわからなくなってしまったのです。私たち人間は、親の愛を忘れ果てた放蕩児になってしまったのです。


しかし、愛の神は、放蕩児の私たちを見放したり、見捨てたりはなさいません。もういちど、ご自分のところに帰ってきて、親しい交わりを回復することを心から願っておられます。


わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。(エゼキエル書33・11)


神は、放蕩児が自分が神から離れて、自分勝手に生きてきたことを悔い改めて、神に立ち返ることを心から望んでおられます。


病気の霊は、神によって健康を回復される


しかし、私たちは、私たちの霊が罪によって正しく働かなくなり、病気になっているために、自分のしていることがわからなくなっています。自分が放蕩児であることがわかりません。それでは、神に悔い改めることはできません。神はこのような私たちをあわれんでくださって、私たちの霊から罪を取り除き、病気であった霊に健康を取り戻してくださいました。


わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。(エゼキエル書36・25~27)


「きよい水」とは、神の御霊、聖霊です。聖霊は、私たちに、罪について、罪の赦しについて教えてくださいます。イエス・キリストは次のように言われました。


わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。(ヨハネの福音書15・26)


その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(ヨハネの福音書16・8~9)


しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。(ヨハネの福音書16・13)


罪のために病気になっていた私たちの霊は、御霊によって生き返り、健康を取り戻し、自分の罪がわかり、はじめて悔い改めることができ、そして、自分では取り去ることのできないその罪を、神の御子イエス・キリストが十字架で身代わりに償ってくださったことを信じ、受け入れることができるのです。


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(ペテロの手紙第一2・22~25)


このようにして、神の御子のいのちを犠牲にしてまで、私たちの罪に病んだ霊を健康にしてくださる神の愛は、私たち人間には考えられないほど大きく深いものです。


霊が健康である徴候


からだの健康状態が良好である徴候には、食事がおいしい、安眠できる、などがあげられますが、霊が健康になると、次のような徴候が現れます。


一つは神のことばである、聖書のことばをおいしいと思うようになります。聖書は他の本を読むように、人間の頭で理解しようとして読んでも決してわかりません。それは、神のことばを人間の知恵や知識で理解できたならば、人間は「自分は自分の力で神を知った」と高慢になり、自分を誇るようになることを、神が許されないからです。


事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(コリント人への手紙第一1・21)


これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(コリント人への手紙第一1・29)


神のことばは、人間の知恵で理解できるものではなく、霊で味わうものなのです。しかし、霊が病気であれば、神のことばを食べるどころか、おいしいと思うことはできません。霊が健康であればこそ、神のことばをおいしく味わうことができ、そのことばは霊の糧となり、霊的栄養となります。


私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ書15・16)


次に、霊の安らぎが生まれ、恐れや不安がなくなります。私たちの人生には、家庭の問題、職場の問題、健康の問題などいろいろな悩み、苦しみがあります。また、明日何が起こるかわからないという不安もあります。しかし、霊が健康であれば、自分のことをだれよりも愛してくださる父なる神、御子なるイエス・キリストに信頼し、自分をゆだねることができるようになります。その結果、霊に平安を与えられて安眠することができます。


イエス・キリストは、ご自身に信頼する者に対して、こう約束してくださいました。


わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハネの福音書14・27)


ダビデ王は逆境に遭っても次のように言うことができました。


主よなんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。(詩篇3・1~6)


主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇25・1~4)


このように、霊が健康である人は、何が起こっても神にあって喜びにあふれているので、このような人を通して神はご栄光を現され、悔い改めて神を信じる人々が次々と起こされてきます。


わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(ヨハネの福音書15・5)


そういう人こそ、霊の健康が正しく保たれている人であり、神に喜ばれるものとして神に用いられる器なのです。


霊の健康を保ち続けるためには


それでは、神の御霊によって、イエス・キリストを信じ、健康になった私たちの霊は、その後はずっと健康を保ち続けることができるのでしょうか。残念なことにそれはなかなか難しいのです。私たちのからだの健康は、体力や免疫力が低下すると、すぐに身の回りに無数にいる病原性の細菌やウイルスに感染して病気になりますが、それと同様に、私たちの霊の健康も衰えると、すぐに私たちを、また罪の病気にしようと、私たちの回りで狙っているサタンのために、霊の健康が犯され、損なわれてしまうのです。ですから、からだの健康を保つためには絶えず体調に留意すること、すなわち、健康の自己管理が大切であるのと同様に、私たちは神の大きな愛によって回復した大切な自分の霊の健康を保つために、絶えず霊の状態に気を配ること、すなわち、霊の健康の自己管理が必要です。それには、いつも自分の霊が、健康か不健康かの徴候を自分でチェックしてみることです。


霊の健康状態の自己チェック


どうして霊が衰えたか自分でその原因がわかっている人、自覚している人は、まだ霊の衰えはそれほど進んでいない状態なので、対応も早くできます。その人は、どうしたら健康になれるかも知っており、すぐに主なる神に、次のように助けを求めることができるからです。


神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。(詩篇61・1~3)


しかし、自分の霊が衰えているにもかかわらず、そのことがわからない人があります。このような人は重症です。たとえば、霊が衰えているのに、自分の信仰は正しいと、自分の霊的状態に満足しているという徴候は、霊が衰えている証拠です。また、ふたたび神よりもこの世のものを第一にしてしまっているのも、霊が衰えている徴候です。また、何かが起こると、たちまち動揺してしまい、神に与えられた尊い永遠のいのちの確信も失い、神から目を離し、人間の力や判断にすがろうとするのも霊が衰えている徴候です。


霊の衰えの徴候を認めた時は


自覚を伴わない霊の衰えは、そのままにしておくと、どんどん神から離れてしまう危険があります。もちろん、御子イエス・キリストの十字架の贖いを、いったん心から感謝して信じた人を、神は決してお見捨てになることはありません。


主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13・5)


けれども、神を信じた人であっても、正しく神につながっていないと、枯れた枝のように実を結ぶことができないばかりか、苦しいときに神に頼ることも忘れてしまいます。そうなると、喜びも平安もなくなってしまうのです。ですから、右に述べたような徴候が自分に認められたら、手遅れにならないように、早く治療することが大切です。霊の治療は、自分の努力や人間の力によってはできません。神に心から悔い改めること、そして神に助けを求めることだけが唯一の治療法なのです。ダビデ王は、自分の罪に気がついた時に次のように祈りました。


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。(詩篇51・1~4)


私たちの霊は生き生きとしているでしょうか、死んだようになっているでしょうか。私たちを造られた神は、私たちを心から愛し、ご自分のそばに置いて、永遠の交わりをしようと思っておられます。人間にとって、それが最も幸せなことだからです。前にも述べましたように、神は、罪によって死んでいたようになっていた私たちの霊を、御子イエス・キリストのいのちと引き替えに生き返らせ、まことの健康を与える道を備えてくださったのです。私たちが、神のこの恵みと愛に心から感謝して、神が提供してくださった御子のいのちによる衰えた霊の治療を受け入れれば、生き返って健康になった霊によって神との交わりが回復されるのです。その時はじめて、からだの健康も、実は自分の欲を満足させるためにあるのではなく、私たちを愛してくださっている神に従い、その神に喜ばれるように生きるために与えられていること、そして、その目的のために、からだの健康を管理することが大切であることを知ることができるのです。




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