医者に治せない病気(1996年)

光を見つめると治る病気

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ書9・2)


冬季うつ病


最近、変わった型の病気が米国で報告されました。それは、光を見つめると治るという珍しい病気です。病気の名前は、「冬季うつ病」と言います。この病気の特徴は、冬になると、抑うつ症状が現れ、そのために身体や精神の活動性が低下し、働くのもつらくなりますが、春や夏になると、症状は消えるところにあります。この病気は、緯度の高い地方ほど多いのですが、その理由は、緯度が高い地方は、冬が長く、また、昼が短く、夜が長いために、光の差す時間が短いからであることがわかりました。この病気の原因は、まだよくわかっていませんが、脳の中のメラトニンという物質に関係があるらしいのです。すなわち、メラトニンは健康な人では、昼間は濃度が低くなり、夜間は高くなるという、規則正しいリズムを描くのですが、「冬季うつ病」では、そのリズムが乱れていることが証明されています。そして、この病気の最も大きな特徴は、その治療法にあります。つまり、この病気には、薬物ではなく、明るい光が治療効果があるのです。患者に、三千ルクスの明るさの光を毎朝二時間見つめさせますと、多くは一週間以内で抑うつ症状はなくなります。興味のあることに、治療の効果は、ただ光を当てるだけでは上がらず、効果を上げるには光源を見つめさせる必要があることです。そして、光を見つめさせると、メラトニンの分泌のリズムは正常に戻ることもわかりました。


この病気を通して、私たちは、光には不思議な効力があること、そして、光を見つめることが、私たちのからだに良い影響を与えることを知りました。ただし、肉眼で直接太陽を見つめることは、網膜に火傷を起こしますから大変危険です。


神の光を見つめることは霊の健康に必要


光を見つめることの大切さ、これは霊、たましいの健康についても言えるのです。もっとも、「冬季うつ病」に効果のある光は、人工的な可視光線、つまり、肉眼で見ることのできる光線ですが、霊の健康に効果のある光は、可視光線ではありませんから、肉眼では見えません。霊の目でしか見ることができない霊的な光なのです。その光とは、万物の創造主にして支配者の神、永遠にわたって生きておられる、義にして愛の神から来る光であり、その神の「生けることば」としてこの世に来られた御子イエス・キリストです。聖書はこう言っています。


神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(ヨハネの手紙第一1・5)


すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。(ヨハネの福音書1・9)


そして、この世に来られたイエス・キリストは、はっきりとご自身が光であることと、その理由を次のように言われました。


わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。(ヨハネの福音書12・46)


神の御子イエス・キリストは、罪の満ちている暗闇の世界に、光として来られました。何のために来られたのでしょうか。それは、イエス・キリストご自身が言われているように、「自分を罪から救い出してくださる方は、イエス・キリストである」と信じる者が、一人も罪の闇の中にとどまることのないためであります。


霊的闇は人間の罪のために生じた


光に対する闇、これは、人間の罪を現しています。神のご性質は光であります。また、神は愛であり、義であり、善であり、聖であり、真実であります。しかし、私たち人間の性質は、どうでしょうか。私たちが自分の心の中を覗いてみれば、いかに憎しみ、不義、汚れ、偽善、不真実に満ちているかに気づくのではないでしょうか。罪の性質は、このように神とは正反対のものです。この罪の性質は、特別の人だけが持っているのではなく、人間ならだれでも持っています。それは、すべての人間が光である神に背を向け、神に従う代わりに、自分の判断、自分の思いに従って生きるようになったからです。罪という言葉は、本来、「目標をはずす」という意味ですが、まさに人間が、神という真の目標から日を背けて、自分勝手な生き方をするようになったために、闇の中を歩かなければならなくなったのです。イエス・キリストはこのように神の光からはずれた人間について次のように言われます。


やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。(ヨハネの福音書12・35)


やみが彼の目を見えなくしたからです。(ヨハネの手紙第一2・11)


罪のために、霊の目がふさがれると、真っ暗闇となって、神が示される正しい、永遠のいのちに至る道が見失われ、自分の勘を頼りに、手さぐりで正しいと思われる道、まっすぐだと思われる道を探しながら、歩かなければならなくなります。しかし、このようにして歩く人間には、正しいまっすぐな道と思われる道も、悲しいことに永遠の死に至る道なのです。


人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14・12)


放蕩息子に対する父親の愛


しかし、この世の暗闇の中を、自分では見えるつもりで恐ろしい死に向かって、さ迷い歩いている人間を、神はあわれんでくださいました。ご自分に背いて自分勝手に死の道を選んだ人間を、なぜ神はあわれまれるのでしょうか。それは、神が私たち人間を愛しておられるからです。聖書に、有名な、放蕩息子に対する父親の愛の話があります。


ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。」と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』(ルカの福音書15・11~24)


この話は、神と私たち人間についてのたとえです。神のもとから立ち去って放蕩している私たち人間を、神はなおも愛して見捨てずに、ご自分のもとに立ち返るように願っておられます。そして、死の陰の闇の地に住んでいる私たちの上に、いのちの光を送ってくださいました。その光が私たちの心に差し込んだ時に、私たちの盲目であった霊の目は開かれ、その結果、私たちは、はじめて自分が罪の暗闇の中を歩んでいる闇の子であることを知り、そして、その開かれた霊の目で、はじめてその光が私たちを罪の暗闇から光の中に移してくださるために来られた、神の御子イエス・キリストであることを見ることができるのです。


「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(コリント人への手紙第二4・6)


このように、神の光によって、はじめて私たちはイエス・キリストが神の御子であり、神が御子を闇のこの世に遣わされたのは、私たちを滅びの闇から、永遠のいのちの光の中に移そうというお考えにもとづいたものであることを知ることができます。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネの福音書3・16~17)


滅びの闇からいのちの光に移されるためには


私たちが滅びの闇の中から、いのちの光の中に入りたい、と心から願うときに、神は、「それなら、わたしが送った光である、わが子イエスを信じなさい」と言われるのです。


あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。(ヨハネの福音書12・36)


では、神の御子イエスを信じるとはどういうことでしょうか。それは、私たちの罪の代価を御子がご自分のいのちによって支払ってくださったことを信じることです。


あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――(エペソ人への手紙2・4~5)


闇の中に光として来られたイエス・キリストを自分の救い主として信じた時、その人の霊は、生き返って元気になり、イエス・キリストの光を受けて、その顔は喜びと希望に輝くのです。「闇の子」が「光の子」になったからです。


彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。(詩篇34・5)


光の子は自分が光となって輝くのではない


ここで注意をしなければならないのは、イエス・キリストを信じ受け入れた者は、自分が光となって輝くのではないということです。イエス・キリストは、ご自分を信じて光の子となった者に対して、次のように言われました。


あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイの福音書5・14~16)


ここでキリストが、「あなたがたは、世の光です」と言われたことを、「自分は光の子だから、頑張って世の光として輝かなければならない」と誤解する人がいます。もし、私たちが自分の力や努力で光になれたら、神も御子キリストも必要ありません。光の子は光の中に移され、光に照らされています。しかし自分自身が光を発するのではありません。間は光源にはなれないからです。光源はイエス・キリストです。私たちは、光源であるキリストに目を向けたときに、キリストの光を反射させて輝くのです。イエス・キリストが信じる者を燭台にたとえられたのはそのことです。キリストを信じる者の務めは、光源であるキリストを皆の目に見えるよう、高く掲げて、光を反射させることにあります。イエス・キリストに救われ、光の子として、いつも希望と喜びと平安に輝いていること、それをここでキリストが言われているのです。


また、もし、光の子が、キリストから目をそらし、この世の闇に、あるいは自分自身に目を向ければ、前に述べた「冬季うつ病」のように、霊が落ち込んでしまいます。言わば「霊的冬季うつ病」になってしまうのです。したがって、「霊的冬季うつ病」にならないために、光の子どもでも、絶えず光源であるイエス・キリストを見つめて歩むことが大切です。


いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(詩篇36・9)


そして、この光であるイエス・キリストから目を離さなければ、自分の身の上や回りに何が起ころうとも、恐れることはなくなります。光が私たちの恐れを取り去ってくださるからです。


主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。(詩篇27・1)


光のある間に光を信ぜよ


さて、イエス・キリストは、このようにも言われました。


まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。(ヨハネの福音書12・35)


このことばは何を意味するのでしょうか。それは、神が闇のこの世に送られた光は、いつまでもこの世にあって光を放つのではなく、光として世を照らされたイエス・キリストはやがてこの世の罪をさばくために来られるということです。


人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。(マタイの福音書16・27)


「人の子」とは神が人になられたイエス・キリストのことです。


そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(テサロニケ人への手紙第二1・8~9)


そして、この世は暗黒となり、罪に汚れたこの世は終りが来ます。


主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(ペテロの手紙第二3・9~10)


神は、罪に汚れた闇の世界を終わらせた後、新しい、聖い、天地を創造されると宣言されました。


見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。(イザヤ書65・17~18)


ここにあるエルサレムとは、新しい天と地における神の都という意味です。この都の光景と、その都に入ることのできる者について、ヨハネは次のように預言しています。


都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(ヨハネの黙示録21・23~27)


「小羊のいのちの書」とは、神の御子イエス・キリストが、ご自分のいのちを捨てて罪から救い出した人たちの名が記されている書物です。自分が神に背を向けた放蕩息子であることを心から悔い改めて、光であるイエス・キリストのもとに救いを求めて来た者の名前を、キリストが自ら書かれたものです。この世で人間的には立派であっても、神を信じない人は、神から見れば義人ではありませんから、この新しい神の都に入ることはできないのです。私たちは、このことを謙虚(けんきょ)な心で受け止めなければならないと思います。そして、すべての方が「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」と言われたイエス・キリストを信じて、光の子となっていただきたいと思います。また、イエス・キリストは、すでに光の子とされた人々に対して、来るべき新しい神の都に入ることを確信しつつ、希望を持って光であるご自分を見つめ続けるように、そしてまた、光そのものであるご自分を闇の中にいる人々に高く掲げて歩むように望んでおられるのです。




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