医者に治せない病気(1996年)
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。(イザヤ書53・4)
痛みは、だれにとっても恐ろしく、不快なものです。したがって、いかにして痛みを止めるか、あるいは痛みを和らげるかが、昔から人間にとっての課題でした。民間療法でも現代医学でも、多くの鎮痛剤や鎮痛法が考え出され、使われているのもそのためです。
痛みは、病気の種類や程度によって、その強さや範囲また持続時間はいろいろですが、特に、癌による痛みは、耐えられないほどの激しいもので、痛みのために病人は体力や気力をますます消耗してしまいます。しかし、最近では、麻酔学の進歩によって、癌の痛みも大分和らげられるようになってきました。
けれども、この不快な痛みも、実は私たち人間にとって必要なものなのです。というのは、もし痛みの感覚がなければ、私たちは病気や怪我(けが)をしても気がつかず、そのために治療が手遅れになる恐れがあるからです。したがって、痛みは病気や怪我(けが)を私たちに知らせる大切な警告の役目を果たしているのです。
痛みにはもう一つの痛みがあります。その痛みは医者にはどうすることもできない痛みです。それは、霊、たましいの痛みです。私たち人間のからだは脳から手足まで、すべて物質でできています。しかし、人間が、人間として生きるということは、物質によって構成されている部分が生きて働いているからだけでなく、たましい、霊が生きて働くことによるのです。霊の働きは、私たち人間が自分という存在は何か、永遠とは何か、神とは何か、善悪とは何かなど、目に見えないけれども非常に大切なものに対する思いを起こさせるだけでなく、その思いを正しい方向に導くことにあります。人間が他の生物と異なる点はここにあるのです。このことを聖書から見てみたいと思います。
神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(創世記1・26)
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2・7)
神が吹き込まれたいのちの息、それが私たち人間の中にある霊です。なぜ神はこのように人間を特別に造られたのでしょうか。それは、神の被造物の中で、人間を最も親しいものとして愛し、ご自分との交わりの対象にしようと思われたからです。霊はそのために必要なものでした。
しかし、このようにして神が人間だけに備えてくださった霊は、悲しいことに、本来の正しい働きをすることができなくなってしまっているのです。それは、人間が、私たちを愛してくださっている神に背くという罪を犯した結果、霊が死んだようになったためです。聖書に、
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者・・・・。(エペソ人への手紙2・1)
とあるのは、そのことです。霊が正しく働かないようになった人間は、神を見失い、何が善いことか、何が悪いことかの判断がつかなくなり、自分の欲のおもむくまま、この世のもの、目に見えるものだけを追い求めて生きることになったのです。そして、罪のために死んだようになった霊は、神のみこころに対する反応も極めて鈍くなり、神のみこころに背く罪を犯しても、痛み、悲しみを覚えることがなくなってしまったのです。
しかし、神は、そのような状態に陥っている人間を、すぐに見放したり、見捨てたりはなさいませんでした。神は私たち人間を、なお愛してくださっているからです。神は、そのような者をあわれんで、私たちの死んだようになっている霊に痛みを起こさせてくださいます。死んでいるような霊に痛みを起こさせるには強い刺激が必要です。神は、私たちを愛されるがゆえに、人の力ではどうすることもできないような、さまざまな身辺に起こる問題や世界の情勢などを通して、霊に痛みが起こるようにされます。それが、神の愛による警告なのです。
やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。(詩篇1・10~13)
神を無視し、霊の痛みを感じない人は、自分が死の陰に座していることも、悩みと鉄のかせで縛られていることも、全くわかりませんが、神がその人を、死の陰、鉄のかせから救い出そうと、霊に痛みや苦しみを与えられて、その人に自分の力ではどうすることもできないことを悟らせてくださるのです。その時、はじめて霊は目覚め、神以外に解決してくださる方、助けてくださる方はないと、へりくだって神に助けを呼び求めるようになるのです。そして、霊の痛みによって、はじめて私たちは神に対して罪を犯したことを知ります。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ローマ人への手紙7.18~20)
この善とは、私たちを造り、子のように思っておられる神のみこころを知り、そのみこころに従うことを喜ぶことです。しかし、罪のために、その神に従いたいと思っても、自分中心の思いや行動が先になってしまうので、それを霊が痛みとして感じるのです。
それでは、霊に痛みをおぼえた時、人間はどのようにしてその痛みを和らげようとするでしょうか。ある人々は、善行をしたり、神の戒めである律法を守ろうとすることによって、霊の痛みを止めようとします。しかし、人間は、自分を全く犠牲にしてまで善行をすることはできません。イエス・キリストと一人の金持ちの青年との対話から、私たちはそのことを知ることができます。
ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイの福音書19・16~22)
私たちもまた、この青年と同じであります。究極的な善行とは、自分自身を愛するように隣人を愛することです。それには、イエス・キリストがここで言われたような大きな自己犠牲が伴います。この青年は、自分のふところ、自分の身が痛まぬ程度の善行をしていたので、それをイエス・キリストに指摘されたのです。神の戒めを、形だけではなく正しく守るということ、神がよしとされるような完全な善行を行うということは、このように極めて難しいのです。
律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ人への手紙3・20)
とある通りです。パウロ自身も次のように、霊の痛みによる悲痛な叫び声を上げています。
私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私はほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7・22~24)
では、どうしたら霊の痛みを取り除くことができるでしょうか。それは、まず、自分を愛して霊の痛みを与え、神に対する背きの罪を知らせてくださった神に感謝し、神の前にへりくだって自分の罪の赦しを請うことです。これについて、イエス・キリストは次のようなたとえを引いて言われました。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカの福音書18・10~14)
取税人は罪を犯したという、霊の痛みを持っていました。そして、正直にそれをこのように神の前に悔い改め、赦しを請うたのです。一方、パリサイ人は、自分を義人であると自認しており、全く霊の痛みを感じていません。どちらが神によって義と認められたか、言い換えれば、罪を赦されたかというと、すでにおわかりの通り、自分は正しいことをしていると、神の前に誇ったパリサイ人ではなく、神の前に顔を上げることもできないほど自分の罪を悔いていた取税人のほうだったのです。
神は、次のように約束しておられます。
あなたは心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。(歴代誌第二34・27)
そして神は、私たちの罪を赦してくださるために、ご自身が大きな痛みを体験してくださったのです。その痛みとは、神のひとり子イエス・キリストに、私たちの咎を負わせて、私たちの罪の身代わりに見捨てる、というものでした。イエス・キリストが、ご自身全く罪のない神の御子でありながら、十字架の上で父なる神に向かって叫ばれた、「神よ。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばは、私たちの罪を身代わりに負って神のさばきを受けてくださったための、本来ならば私たち人間が叫ばなければならない叫びであったのです。
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マルコの福音書15・24)
預言者イザヤは、イエス・キリストがこの世に来られる約八百年前に、神の御子が私たち人間の罪の痛みを代わって受けられることを次のように預言しました。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53・4~6)
神の御子イエス・キリストは、この父なる神のみこころに従って、この世に私たちのからだと同じ血と肉のからだを持って来てくださり、私たちに代わって十字架の上で血を流され、肉を裂かれ、死に至るまで痛みを味わわれたのです。私たちの霊は、この神の痛みと、御子なるイエス・キリストの痛みによって、完全に癒されるのです。
神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ人への手紙1・19~20)
自分で罪を知ることも、そして、その罪から逃れることもできない罪人の私たち人間のために、神はこのように大きな愛の犠牲を払って助け出してくださったのです。
私たち人間には、肉の痛みの感覚とともに霊の痛みの感覚もあります。痛みはつらく、また不快なものですが、痛みは、私たちに病気があることを知らせてくれます。からだに痛みを感じたら、大事にならないうちに早く医者のところへ行って、痛みの原因を見つけて治してもらうことが大切であるように、霊に痛みを少しでも覚えたら、手遅れにならないうちに早く自分中心に生きてきたことを心から悔い改めて、霊の癒し主であるイエス・キリストのところに行くことが最も大切です。イエス・キリストは、ご自分のいのちによって、たちどころに痛みの原因である罪を取り除き、霊を生き返らせてくださると同時に、ご自身の永遠のいのちを私たちにも与えてくださるのです。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩篇91・15~16)