医者に治せない病気(1996年)

臓器移植と永遠のいのちの移植

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネの福音書15・13)


最近、臓器移植が究極の治療法として世間の関心を集めています。臓器移植とは、一言でいえば、病気やけがのために機能が完全に失われてしまった臓器、言い換えれば死んでしまった臓器を、健康な臓器に置き換える治療であります。角膜や皮膚の移植は以前からも行われていましたが、近年、医学技術の進歩に伴って、各国で人のいのちを維持するためになくてはならない臓器である腎臓、肝臓、心臓の移植が行われるようになってから、臓器移植は倫理的な観点からも大きな問題として取り上げられるようになりました。


臓器移植は他の治療法とは全く異なる


臓器移植が、他の治療法と大きく違う点はどこにあるのでしょうか。ふつう、病気の治療は、おもに、医薬品を用いるか、あるいは手術によって病気の部分を切除するというような方法によって行われてきました。したがって、医薬品や医療器具の不足がない限り、(そのようなことは戦争や大災害でもなければ起こりませんから)だれでもこれらの治療は受けられます。


しかし、これらの治療に比べて、臓器移植による治療法には、何よりも健康な臓器が不可欠であり、それを提供してくれる人がいなければ、たとえ臓器移植の専門医や設備などの条件が整っていたとしても治療はできません。ここが臓器移植治療が他の治療と根本的に違うところです。そして提供される臓器の数は、いつも、はるかに需要に満たないというのが実状です。


さらに、臓器移植には、組織適合性という絶対的な条件があります。人間のからだには、自分と他人を識別して自己を防衛する機能があり、他人の組織が入ってくると、その機能が働いて拒絶反応を起こします。拒絶反応が起こると、せっかく移植した臓器も死んでしまうばかりか、移植を受けた人のいのちも大きな危険にさらされることになります。この拒絶反応を防ぐためには、前もって組織適合性の検査をして、適合性を確かめなけれはなりません。提供者の臓器の組織と移植を受ける人の臓器の組織が適合する確率は非常に低いので、ますます移植可能な臓器の数は少なくなります。そのうえ、このようにして、ようやく組織適合性のある健康な臓器を見つけても、移植までの間の時間が長引くと取り出した臓器が死んでしまいますから、できるだけ早く移植しなければなりません。


ギフト・オブ・ライフ


このように臓器移植という治療には、他の治療に見られない多くの困難があるのですが、これらの問題解決のためには、まず何よりも健康な提供臓器の数を増やすのが必要なことがおわかりになると思います。以前には、提供臓器の絶対数の不足から生じる病人の焦りにつけ込んだ商売が現れ、発展途上国の貧しい人から臓器を買うということが行われたこともありました。しかし、このようなことは、もちろん倫理に反することであり、世界医師会でもこのことに強く反対して臓器売買を禁止する宣言が出され、現在では少なくとも表向きにはできなくなりました。しかし売買は論外としても、臓器の提供は強制されるようなことがあってはなりません。あくまで臓器を提供する本人の自由な意志にもとづくものでなくてはなりません。このように考えると、移植のために提供される健康な臓器は、まさに宝物のように少なくかつ貴重なものとなります。世界各国には、自分が脳死状態になったら、自分の臓器を、移植を必要としている病人に提供したいという人たちの団体があり、そこに登録すれば自分の意志通りに自分の臓器が移植に使われることになっています。その意味からでしょうか、アメリカではこのようにして提供される臓器のことをギフト・オブ・ライフ、いのちの贈物と呼んでいます。


わが国でも脳死を人の死と認めるようになった


わが国では、昨年、政府の「脳死と臓器移植に関する臨時調査会」が脳死を死と認め、本人の意志であれば脳死体から臓器を移植することができることを承認しました。これまでは心停止つまり心臓の鼓動が完全に停止した時点をだれもが死と考えていましたし、これはだれでも納得しやすいものでした。これに対して脳死とは、脳の機能、特に脳幹と呼ばれる生命維持の中枢部の機能が永久に停止して決して回復しない状態を言い、一定の「脳死判定基準」に従って行う検査によって判定されます。それまでは、脳死は人の死として認められていませんでしたので、これによって臓器提供の道は、より広く開かれましたが、日本人の古来からの死に対する観念からすると、一般的には、まだなかなか脳死を死として割り切る気持ちにはなれないのが現状です。


人間の愛の限界


さて、肝臓や心臓は一つしかありませんから、生きている人の健康な肝臓の一部を移植するという、いわゆる生体肝移植以外は、脳死体から提供される心臓や肝臓だけが頼りです。しかし、腎臓は二つあるので、わが国では例外的に、親子間、夫婦間に限り、しかも外部からの圧力なしに、全く自由な本人の意志によって、自分の腎臓を重い腎臓病に罹っている家族にあげたいと申し出た人に限って、組織適合性が一致すれば、倫理委員会の審査を受けたうえでこれを認めることにしています。私は倫理委員会の一員として、このような方々とお会いして、お気持ちを聞いたことがあります。その方々が、自分が病気でもないのに、痛みばかりでなく、場合によってはいのちの危険を伴うかも知れない腎臓の摘出手術をしてまでも、愛する家族のために自分の臓器をあげたいという、愛の深さ、大きさに大変感動したのを覚えております。しかし、私はそのような方々にお会いするたびに、いつも一つの同じ質問をしました。その質問は、「もし、あなたが臓器をあげようとする相手が、愛する親や子、夫や妻でなく、見ず知らずの他人だとしたらどうしますか」というものでした。その方々の答えは、表現はそれぞれ違っても、いつも同じ内容でした。すなわち、例外なくすべての方が「他人には痛みと危険を犯してまで自分の臓器をあげることは決してしない」と答えられたのです。この答えを非難する人はいないでしょう。だれでもそのように答えるはずです。ここに人間の愛の限界があるのです。冒頭にあげた聖書のことばに「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」とあるように、最高の愛は、自分のいのちさえ惜しまぬ自己犠牲であります。しかし、人間はこの愛の対象を、この方々のように限定してしまうのです。また、腎臓は二つありますから、一つを提供しても、もう一つの腎臓によって生きることはできます。しかし、心臓となると提供者が死ななくては臓器をあげることができません。はたして私たちはそのために喜んで死ぬことができるでしょうか。しかも、このような犠牲を払って移植された宝物のような臓器も、移植を受けた人のいのちを永遠に生かすことはできません。人間が与えることのできるギフト・オブ・ライフは、この点でも限界のあるものなのです。究極の治療と言われる臓器移植でも、人間を永遠に生かすことができないのは、認めざるを得ない事実です。


キリストのいのちによる永遠のいのちの移植


人間はその人生において、いろいろのものを求めます。ある人は富を、ある人は名誉を、ある人は権力を求めます。しかし、だれもが共通して求め続けるものは、健康ではないでしょうか。そして、健康を求めるその心の奥には、他人の臓器を移植してでも生き続けたいという思い、つまり、死にたくないという思いがあるのです。では、この人間の求め続けてきた、いのちの問題の解決はどこにあるのでしょうか。それは、人間によって考え出された限りあるいのちの移植法ではなく、永遠に朽ちることのないいのちの移植でなければならないのです。


この人間には決してできない完全な臓器の移植、永遠のいのちの移植の方法をすでに完成してくださっている方があります。それは天地万物の創造主であり、永遠に生きておられ、私たち人間ひとりひとりを造ってくださった神です。その神は、私たち人間が永遠に生きるようにと、愛するひとり子のイエス・キリストを、永遠のいのちの提供者として、この世に遣わしてくださったのです。イエス・キリストはご自分の身分と使命について次のようにはっきり言われています。


わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネの福音書10・28~29)


では、イエス・キリストはどのような方法で、私たちに永遠のいのちを提供してくださったのでしょうか。それは、ご自分が死ぬことによってであります。前に述べたように、人間は自分が愛する者のためにしか臓器提供者となることはできません。しかし、神は、神を愛するどころか、神に反逆し、神などいないとうそぶいて、自分の欲を満たすことしか考えない人間、言い換えると、たましいの死んだ状態のひとりひとりの人間のために、御子イエスを永遠のいのちの提供者としてこの世に送り、十字架にかけて御子の永遠のいのちを提供してくださったのです。


神にとっては、ご自分に背いている人間ひとりひとりが、かけがえのない愛の対象なのです。


それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(テトスの手紙3・7)


この神の愛の賜物が、御子イエス・キリストの永遠のいのちなのです。


罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6・23)


神はご自分に対する背きの罪という病気のために、霊、たましいが死んでいる人間をも愛し、永遠の死に至る罪から救い出してくださるために、御子イエス・キリストの永遠のいのちを贈物として提供してくださったのです。


そして神の御子イエス・キリストのいのちの移植は、人間の臓器移植とは、とても比較することもできないほどの完全なものなのです。第一に、二千年前に十字架の上で死んで提供してくださったイエス・キリストのいのちは、その時以来、今日も、さらに将来にわたっても永遠に新しい、生きたいのちであるということです。第二に、イエス・キリストのいのちは、ただ一つで限りなく多くの人間に移植ができるということです。第三に、イエス・キリストのいのちの移植には、組織適合性の検査は必要がない、すなわちすべての人間に適合性があることです。


キリストのいのちの移植を受けるための条件


しかし、イエス・キリストの永遠のいのちを移植するには、ただ一つだけ条件があります。それは、ちょうど臓器移植を受けるためには、自分の臓器が完全にだめになって、移植以外に助かる道はないということが、はっきりしていることが条件であることに似ています。すなわち、イエス・キリストの永遠のいのちの移植を受けることのできる条件は、自分が神に対する背きの罪という、自分ではどうすることもできない、たましいの死んだ状態にあることを知り、神から離れて自分勝手に生きていたことを心から悔い改めて、イエス・キリストの永遠のいのちの移植を切に求める人に限られているのです。自分には罪はない、自分は正しい、と思っている人には、神は御子イエス・キリストのいのちを提供することはなさいません。聖書でイエス・キリストが、


医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。(ルカの福音書5・31~32)


と言われたのは、その意味です。


腎機能が完全に失われて尿が出なくなり、このままでは尿毒症のために死ぬしかなかった人に、健康な腎臓が移植されると、その腎臓はただちに移植を受けた人の体の中で働きはじめてすぐに尿が出てきます。それと同様に、自分中心に生き、滅びに至るしかなかった人が、心から神の前に悔い改めてイエス・キリストのいのちの移植を受けると、悔い改めると同時に、それまで神に対して死んでいたその人のたましいは生き返り、その結果、神に対して目が開け、それまでの自分の小さな欲望を満足させることを目的としていた人生とは比べることのできない、永遠に生きる大きな喜びと平安と希望に満ちて、神と共に歩む人生を過ごすことができるようになるのです。


わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネの福音書4・14)




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